119 八雲立つ
朝になると小雨になっていた。
空は一面灰色で、晴れ間を覗かせる程の隙間もないくらい厚い雲が覆っていた。
俺は開いたカーテンをそのままにして寝室を後にし、洗面所に向かった。
冷たい水で朝のまどろみを洗い流す。しかし、それでも二度寝の誘惑が激しく襲い掛かって来たのを感じた。
「まあ、もう少しなら大丈夫か……」
おいそれと猛襲に屈しながらタオルで顔を拭いていると、廊下の端の方からアリスの高い声が聞こえた。
ベッドに姿がなかったので予想していたが、やはり既に領主の部屋で遊んでいるみたいだ。
「今のうちに、領主に刻印の意味を聞いてみるか……」
俺は首筋の刻印に触れながら呟いた。同時に、自分の顔つきが変わった事に気が付いた。
優しい顔で笑みを浮かばせる領主だが、その立場に加えて空間を支配するような存在感と圧力はかなりのものだった。
とてもじゃないが、寝ぼけた顔で面会する気にはなれない。
そう考えると、今更ながら自然体で接するアリスが別人種のようにも思えた。敬語を無視する今時の強さと言うべきか、『欧米か!』とツッコムべきか。
「おうウキキか。遠慮しないで入れぃ」
ドアをノックしてから名乗ると、部屋の中から勇ましい声が響いた。
俺は静かにドアを開け、中にいるアリスに視線を向けてからゆっくりと領主に移した。
「おはようございます。朝早くからアリスが押しかけてすいません……」
「おう、おはようさん。アリスに遊んでもらってるのは、どっちかってぇと俺でぃ。なあアリス?」
「そうよ! 今、色々なゲームを2人でやっているの! じゃあ領主のお爺ちゃん、次はこれよ!」
アリスはそう言ってから、記憶に新しいゲームを領主に説明し、『ピザと10回言ってちょうだい!』と元気に促した。
領主はにこやかにそれに応じた。言い終えてから、アリスが自分のヒジを勢いよく指さす。
「じゃあここは!?」
領主はほんの少し間を空けてから、「ヒザでぃ!」と優しい笑顔に乗せて答えた。
*
小雨のなか、馬車が草原を進んでいた。
ハンマーヒルを発って数十分、見慣れた顔の御者さんはなるべく泥濘を避け、速さよりも安全を考慮して翔馬を操っていた。
「お弁当食べる? アナが作ってくれたって言っていたわよ!」
「おお、これアナが作ったのか……大丈夫か?」
『大地の剣』と呼ばれる、剣の腕がめっぽう立つアナ。その料理の腕前はどうなのだろう。
個人的には、超美味いか、超不味いかのどちらかであってほしい。
「普通だな……」
「ええ、普通に美味しいわね。……なのに、なんであなたはそんな不満げな顔をしているの」
俺は適当に答えてからサンドイッチをつまみ、冒険手帳を捲った。
「あら、手書きのカレンダー? 『双竜の月・陰』って、この世界の今月の事?」
「ああ、この異世界の暦は全てこんな感じって領主に教えてもらった。……ってかお前も聞いてただろ」
「明後日にシールが貼ってあるけれど、なにか予定あるの?」
「俺の首筋の刻印について調べとくから、明後日また来いって。……これも聞いてたよな?」
アリスは本当に聞いていなかったようで、領主達と再び会える事の喜びを全身で表現してから俺の首筋に触れた。
「なによ、このひし形のマーク」
「気付いてなかったのかよ……。それを領主に聞いたんだっての」
「そういえば耳の臭いを嗅ぐときに不思議に思っていたけれど、臭いに夢中で毎回どうでもよくなっていたわ!」
幾多ものツッコムべきポイントがあったが、俺はスルーしてサンドイッチを頬張った。
アリスも数口に分けてアナの手作りサンドイッチを食べ終えると、ハンカチで口元を拭いてから赤いリュックに手を伸ばした。
「あれ、そのファイルって押し花を入れてるやつか?」
「そうよ! 領主のお爺ちゃん達に見せたら喜んでいたわ!」
「持ち歩いてたのか……」
アリスはニコニコしながらファイルを捲って、いくつもの押し花を鼻歌交じりで眺めた。
異域に咲く黄色いパンジーを両親のお墓に供える為に始まった押し花作りだが、今ではアリスのライフワークの一つにもなっていた。
みんなに見せて喜んでるけど、やっぱご両親のお墓に供えたいんだろーな……。
元の世界に戻れないとしても、それだけでもなんとかしてやりたいな……。
不意に、目頭が熱くなる。この異世界で、両親に会いたいと泣く事すら出来ない境遇を思うと、やり切れない気持ちになった。
俺はそのままの心境で、満面の笑みのアリスに目を向けた。
すると、アリスは俺の視線に気づいたのか、少し表情を曇らせてジーっと大きな瞳で見つめてきた。
可愛らしい唇が静かに開かれようとしている。
押し花ファイルを見て両親を思い出し泣きだすのなら、黙って胸を貸してやろう。
もし弱音を吐くなら、強く頭を撫でてやろう。
なにも言えずに口を閉ざし、ただ震えるだけならば、抱きしめて震えを押さえ込んでやろう。
さあアリス! 俺を兄だと思って想いの丈をぶつけてこい!
「と言うか、手帳にカレンダー手書きって笑えるわね。カレンダーくらい付いているのを選びなさいよ」
「ヴォッ……お前が選んだ手帳だろうが!」
「ヴォ?」
と戯れていると馬車が急停車し、アリスの頭上で座って寝ているチルフィーが反動で落ちかけた。
俺は反射的にチルフィーを手のひらで支え、御者と客室を繋ぐ小窓に視線を投げた。
「御者のおじさん、焦って前を指差しているわよ」
同じように目を向けているアリスが言った。
「ああ……。多分、死ビトが道を塞いでるんだろ。ちょっと倒してくるからお前は中で待ってろ」
俺は扉を開け、馬車の前方をうろついている死ビトに駆け寄り――
「アイス・アロー!」
ズシャーー!
「さあ片付いたわよ。早く乗ってちょうだい!」
馬車の窓から身を乗り出しているアリスが声高に言った。
俺はイライラを抑えながら乗り込み、再びアリスの隣に腰を下ろした。
「お前……たまには俺の指示に従えよ……。虚しかったぞ……」
「概ね従ってあげているじゃない!」
「全然従ってねーだろ! ってか、俺との約束を破ってゴブリン討伐の中継地について来たのだって、俺は内心怒ってるんだぞ!」
「約束を破ってなんていないわ! あなたは『負けたら寝ろ』と言っていたから4秒寝たわよ! ……ぐぇっ」
減らず口を叩くアリスの首に俺のモンゴリアンチョップが炸裂したのは、必然とも必須とも言えた。
*
雨は止み、灰色の雲は真っ白な雲へと変わっていた。
その幾重にも重なる雲が、異世界の草原に佇む巨大建造物を少しでも風景と馴染ませようとしているように、ふんわりと優しく上空に浮かんでいた。
「私の不動産! 今、帰ったわよ!」
「しれっとショッピングモールをお前のにすんな。俺達の家だ」
俺は不動産登記の必要を感じながらボディバッグから鍵を取り出し、鍵穴に勢いよく差した。
「チルフィーまだ寝てんのか?」
鍵を回しつつ、アリスの手のひらで眠っているチルフィーに目を向けた。
「ええ、ずっと忙しかったと言っていたから、きっと疲れて――」
アリスの言葉はガラスのドアを開けた瞬間、激しい音によってかき消される事となった。
ビィィーーッ! ビィィーーッ! ビィィーーッ!
けたたましい警告音が、ショッピングモール内で鳴り響いていた。