116 打ちなびく髭
平原を走り雑木林に入ると、俺はようやくアリスに追いつくことが出来た。
「待てバカ! ゴブリン討伐は兵士に任せて俺達は戻るぞ!」
「なんでよ! ゴブリン見てみたいわ!」
腕を掴んでもアリスは素直に足を止めようとせず、腰まで伸びる黒髪を勢いよく振って満天の星空のように輝いている目を向けた。
「あなたも見たいでしょ!?」
「み、見たいけど……でも危険だからダメだ!」
「ハア……。また私をガッカリさせたいの?」
「さ、させたくないっす!」
「じゃあゴブリンを探すわよ!」
「はいっ!!」
ついノリのいい返事を返すと、アリスはファングネイ王国の兵士達を追ってすぐさま駆け出そうと足を進めた。しかしその足は宙を跨いだだけの足踏みとなり、再び土のブーツの跡にピタッと収まった。
「なんで私はまだ腕を掴まれているのかしら!? 離してちょうだい!」
「いてえ! 噛むなアホ!」
小さな歯型が俺の手に刻まれる。と同時に、横の雑木林の低い草がササーッと波打つように動き出した。
「っ……!」
草をかき分けるようにして何者かが獣道に出て来る。その姿を見た瞬間、俺は言葉を失った。
「ふう、危ないところだったゴブ……。人は凶暴で嫌にな――」
少したどたどしい言葉にピリオドを打たず、目の前の緑色の生物は俺達に気付いて文字通り目を点に変えた。
「ひ、人がいるゴブーッ!」
「見付けたわゴブリン!」
アリスが飛び掛かる。ゴブリンらしき生物が逃げ回る。
「待ちなさい!」
「お助けをゴブ―ッ!」
2人はまるで舞台上の喜劇のように俺の視界内を駆け回り、土煙を上げて逮捕劇を繰り広げる。
ご、ゴブリンか……。大体イメージ通りだな……。
皮膚は緑色で耳が長く、鼻は団子鼻をより丸くしたような形。
背丈はアリスよりもだいぶ低く見える。猫背なのを考慮しても100センチ程度だろう。
そんな異世界を象徴するような亜人はアリスの『アイス・チェーン』により足を止められ、寸劇を制したアリスの両腕が腰に当てられた。
「さあ、観念して他のゴブリンの居場所を言いなさい! 円卓の夜で悪さなんてさせないわよ!」
ゴブリンの三白眼が上を指してアリスを見据える。その奥に宿る意志はすべからくも整わない呼吸に抗い、叫びにも似た言葉を吐き出す。
「ゴブ達は円卓の夜で悪さをするつもりなんてないゴブ! 人は今度の円卓の夜の恐ろしさを分っていないゴブ!」
「な、なに言ってんだお前! 現に中継地を襲っただろ!?」
俺は思わずゴブリンと同程度の声量で言い放つ。
「あれは討伐作戦を失敗させたくて仕方なくやっただけゴブ! 人は傷付けていないゴブ!」
「なんだか事情がありそうね。あなた、そんな血相を変えて追い詰めるのは良くないわ、聞いてあげましょうよ」
「ああ、幸い武器は持って無さそうだし……。って、血相変えて追い掛け回してたのはお前だろ……」
とゴブリンの話を聞こうとした刹那――
ぐっ……ぐわああああああああ!
男の叫び声が雑木林に響く。俺とアリスは反射的に声の方向に顔を向ける。
「チャーンスだゴブ!」
俺達の気が逸れた隙に抜かれた暗器はナイフのような刃物。それを握るゴブリンの手が横に薙ぎ払われる。
「っ……!」
瞬間、俺はアリスの腕を引っ張って前に躍り出る。
しかし、払った刃物の先が掠ったのは俺の身体でも衣服でもなく、地面から伸びる氷の鎖だった。
「逃げるゴブーッ!」
やけに切れ味のいい刃物だな。と思ったのも束の間、視界の端が駆け出したアリスの長い黒髪を捉える。
「さっきの声、あっちよ! ゴブリンはとりあえず放っておいて行くわよ!」
「ああ、兵士達のだろうな……!」
不意に、俺は以前聞いた蜘蛛の声真似を思い出した。
殺した相手の悲鳴を真似て、嘲笑うように俺達に披露した蜘蛛。
その元の声主であるファングネイ王国兵士の凄惨な姿が脳裏をよぎる。同時に、叫び声がもし嫌な野郎である口髭プレートの物であったとしても、なんとしても助けたく思った。
「急ぐぞアリス!」
「ええ、分かっているわ!」
俺達は更に足を早めて現場へと急行した。
*
叫び声の元に辿り着くと、腕を押さえてうなだれている口髭プレートと、槍を構えて応戦しているアゴ髭男爵の姿があった。
鋭利な矛先が向く相手は死ビト。6体程が兵士2人を取り囲んでいた。
あれ、ゴブリンに襲われてるかと思ったら死ビトか……。
苦戦している様はなんだか不可思議にも思える。
武装している死ビトもいるとは言え、強国であるファングネイ王国の兵士が2人いながら片方は怯えた表情で身体を震わせ、もう片方は応戦しているものの決定打を欠いている様子。
まあ、ヤリ一本で6体の死ビトを相手したら苦戦するのも当たり前か……。
あまり調子に乗りたくはないが、首を刎ねるか顔面を半分以上吹き飛ばすぐらいしか倒す手段のない死ビトを相手に、無双出来てしまう俺やアリスやヴァングレイト鋼の剣を持つアナが異常なのかもしれない。
「アイス・アロー!」
ズシャーー!
大丈夫か!? と声を掛ける前にアリスの氷の矢が死ビトの頭部を吹き飛ばす。
とりあえず蹴散らすか。と、俺もそれに続いて使役幻獣の名を口にする。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
瞬く間に2体の死ビトを地に沈めた俺達を見て、アゴ髭男爵の丸い目が更に丸くなる。
その手に握る槍は俺達に負けじと縦に横に薙ぎ払われ、死ビトの躯を確実に削ぎ落していく。
しかし、やはり決定打に欠けている様子。そう考えると蜘蛛騒動の時、似たような槍で死ビトと対峙していたボルサやゴンザレスさんは、やはり戦いに長けているのだと認識を強めた。
「ふう……片付いたな」
俺はダガーを腰の鞘に収め、周りを見回しながら呟いた。
死ビトの躰やら頭部が転がる情景は血の色すら無いくすんだ物で、もしこの異世界が白黒の世界だったとしても別段問題ないように思える。
「ケガを見せてちょうだい、包帯を巻いてあげるわ」
未だ呆気に取られている口髭プレートの元まで駆け、アリスはリュックから包帯を取り出した。
しかし、その包帯は暫くアリスの手の中に留まる事となった。
「……なんだ、それは?」
「ケガが治る包帯よ。早く腕を出してちょうだい!」
アリスが隣で要求しながら腰をかがめると、それとは逆に口髭プレートは顔を歪めながら立ち上がり、アリスを見下ろした。
「そんな便利な包帯があるものか。いや、あるとしてもお前にそれを巻いて貰う必要はない。……おい、馬車に戻るぞ」
「あ、ああ。でも……」
決定打に劣るとも、俺達の戦う姿を見て果敢に死ビトに立ち向かい、1体を仕留めたアゴ髭男爵の表情が曇った。
「せっかくの好意だし、巻いて貰ったらどうだ……?」
アゴ髭男爵が言った。
「必要ないと言ってるだろ。帰るぞ」
口髭プレートが返した。
すると、アリスが口髭プレートの凹んだガントレットを掴み、凛然たる態度で口を開いた。
「あれだけ大きな悲鳴を上げておきながら、なにを強がっているのよ! 早く腕を出してちょうだい!」
苦痛で額に脂汗を浮かべている顔は、しかし縦には振られず、雑木林の奥の奥にただ向けられていた。
俺は嫌な奴とはあまり絡みたくなかったが、アリスの気持ちを汲んで口髭プレートに向かって声を上げた。
「俺は別にどっちでもいいけど、こんな小さい子がずっと包帯を握ってあんたを心配してるんだぞ? ……俺は必要なければ嫌な奴とは顔を合わせなければいいって選択をするけど、アリスにはそんな選択肢すら無いんだ。そんな無垢な子供の気持ちを無下に出来るのか?」
おっしゃ。自然と敬語からタメ口に切り替える事に成功した!
こんな嫌な野郎に使う敬語なんて持ち合わせちゃいねえ!
と喜んでいると、口髭プレートの表情がほんの少しだけ緩んだ。
やがて、噴水の水の包帯はアリスの握りこぶしから解放され、勢いよくほどかれた。