115 隠りくの亜人
「ほらアリス、早く乗れ」
ぐずるアリスの背中を軽く押し、俺は馬車の客室に入るよう促した。
しかしアリスは両手で扉の淵を掴み、客室に押し込まれる力に抗う。
「なんでもう帰るのよ! 本陣でもっとソフィエやユイリとお話したいわ!」
「そろそろ中継地に戻ってハンマーヒルに向かわないと、今日中にショッピングモールに帰れないかもしれないだろ!」
「別に今日中に帰らなくったっていいじゃない!」
俺は溜め息を一つ。
「……もうショッピングモールを発って3日だぞ? ショッピングモールHPがゼロになったらどうすんだよ」
「ゼロになったらなんだって言うのよ!」
「いや、知らんけど……HPが設定されている以上、ゼロにする気にはならんだろ?」
今一ピンと来ていない様子のアリス。その、頭にハテナマークが浮かんでいる顔を見つめながら、
「……クリスだって心配だろ。自動給餌機をセットしてあるとは言え、多分寂しがってるぞ?」
と語尾を強調し、情に訴えた。
誰が寂しがるか、たわけ。
というクリスの声が脳内で響いた気がする。が、アリスを説得する為に黙っておいた。
「ぐぐ……。クリスを引き合いに出すとは卑怯ね……。仕方がないわ、じゃあ戻るとするわよ」
一瞬で帰る気ゼロから帰る気満々に切り替わったアリスは、扉の淵から強く握っていた手を離し、そのまま客室に乗り込んだ。
まったく……世話を焼かせやがって……。
アリスに続いて足を踏み入れる瞬間、俺は一度振り返って本陣に目を向けた。
スプナキンいなかったな……。
まあ、偶然こんな場所にいる訳ないか……。
ここに来てから何気なく目を配っていたが、やはり本陣には旅に出たと言う風の精霊シルフの姿は見当たらなかった。
必死な顔で中継地を飛び回っていたチルフィーを想うと、心がギュッと強く握られたように感じた。
なんだろうな……もし俺に妹がいて、それのあんな姿を見たら、こんな風に想うのかね……。
姉貴だと絶対こんなセンチメンタルな気分にはならないよな……。
まあ、これからも行く先々で妹分であるチルフィーの為に目を配らせよう。
そう考えながら、ブーツを脱いで窓から外を眺めているアリスの隣に行き腰を下ろした。
*
中継地を目指す翔馬の馬車が平原の川原の橋を越えた頃、既に陽は暮れかけていた。
出立する直前に見送りに来てくれたソフィエさんとユイリの可愛い顔がまだ目に焼き付いている。あと、巫女装束でも存在感をふんだんに放っていたソフィエさんのお胸様も。
「鷲掴みしてえっ!」
つい邪な考えが口から飛び出てしまった。それを隣で聞いたアリスの表情が見る見るうちに変わっていく。
「……変態ね」
呆れを表す7番目の表情でそう言い放ったアリスは、再び鼻歌交じりで窓の外に視線を移した。
……なんで、『鷲掴み』だけで変態って発想に至るんだ。
まさかコイツ、エグいマナの力で俺の脳内を読み取ってるのか!?
例えるのならフェンリルや大狼のよう。
それなら、一方通行とはいえ、風の便りよりももっと明確な情報のやり取りが可能になる。
なので、試しにぱっつん前髪を眺めながら念じてみた。
……分かってるぞ? 聞こえてるんだろ、アリス。
返事はない。
……お前って、バカだけど凄い可愛いよな。
やはり返事はない。アリスが俺に可愛いと言われてリアクション皆無な訳がない。
それならば、やはりこの件は俺の杞憂だろう。
と、無駄な思考を走らせていると――
「あら、馬車が停車したわよ?」
やはり聞こえていなかった様子のアリスが座席を膝のみで移動し、小窓から御者に語り掛けた。
「なんで止まったの?」
それに対する御者の返答を聞く前に、俺は状況を理解した。
「途中乗車する人がいるみたいだな」
開いた扉から中に入り込んで来たのは、革製の鎧の男と、金属製の鎧の男。
ゴブリン討伐の兵士だろう。加えて言うのなら、どちらも胸の辺りに鳥の翼と爪の紋章がある。
この紋章はファングネイ王国の物だっけか……。
まるで存在を誇示しているかのような紋章。確かゴンザレスさんは鷲の紋章と言っていた。
「出していいぞ」
革製の鎧の男が言う。
御者はその指示に黙って従い、扉が閉まるのと同時に再び中継地に向けて揺れの少ない馬車が走り出す。
「無駄足だったな……。ここまで探してゴブリンの姿がどこにもないとは……まだ今回の討伐で戦果なしだろ」
金属製の鎧の男が言う。
戦果とは、討伐したゴブリンの事だろうか。
「ああ、奴らはどこに消えたんだ……?」
「さあな。……これだけ大きな兵団を組んでゴブリンがいませんって……笑えないな」
兵士の男2人は先客である俺達の存在を気にもせず、そのまま淡々と会話を続ける。
「まあ、このまま戦果ゼロが続けば、兵団長もゴブリン1体につき銀貨1枚程度の報奨金を出さざるを得ないだろう。その決定が下されるのを待つのも悪くはない」
「そうだな……。新しくあつらえた鎧の代金くらいは稼がないと……」
「ゴブリン、いないの?」
当たり前のようにアリスが会話に参加する。
一度顔を見合わせる兵士達。それから少しの間を経て、革製の鎧の男がアリスの全身を見ながら口を開く。
「あ、ああ。数か月前まではあれだけいたゴブリンの軍勢が、煙のように姿を消したんだよ」
「それは妙ね……。本陣のずっと先にゴブリンの城のような物があるんでしょ? そこにもいないの?」
「当然、今回の討伐作戦はそこを叩いてから……と考えていたさ。しかしもぬけの殻だったよ」
革製の鎧の男がアゴ髭を触りながら素直に答えると、それに付随するように金属製の鎧の男が口元の髭を指で摘まむ。
「お前達、見ない顔だな。……そっちのお前はミドルノームのスチュワードか?」
「スチュワード……いえ、俺達は別に誰かの雑士とか従者ではありません」
「それなら何者だ? まさか兵士か? それとも、ウィザードやグラディエーターか? 鍛冶師……は、そんなヒョロイ体じゃ務まらないか」
まるで、肩書を明確にして立場の違いを分からせようとしているかのように。
あくまで高圧的な態度を崩さず、尚も口髭は上下に動く。
「ほら、遠慮しないで言ってみろ。後方支援のミドルノームだからって卑屈になる必要はない、不平等条約とはいえ我がファングネイ王国の同盟国なんだ。さあ言え、聞いてやろう。お前達は何者だ」
既に俺達が何者かはどうでもいいのだろう。
最後に再び問いを掛けた割には興味が無いようで、革製の鎧の男がなだめるように別の話題を振ると、それに大きく頷いてから夢中で口髭を上下させた。
なんだコイツ……。ってか、ミドルノームとファングネイ王国でそんな立場の違いがあるのか。
或いは、金属製の鎧の口髭が大げさに言っているだけかもしれない。
なんにせよ、俺はコイツを『口髭プレート』と呼ぶ事に決めた。隣の男は『アゴ髭男爵』にしよう。
と、無事にファングネイ王国の兵士の愛称が決まり喜んでいると、アリスが口を覆っている俺の手をはね退けた。
「息が出来ないじゃない! なにをするのよ!」
「余計な事を喋らせない為だ。ってか鼻で呼吸しろって……」
間もなく迫るチョップ。柳の如くしなやかに躱す俺。
そうしてジャレ合っていると、突然アゴ髭男爵の大声が客室に響く。
「今ゴブリンがいたぞ!」
その声に大袈裟に反応した口髭プレートは御者に馬車を止めろと命令し、段々とスピードが緩まる客室の扉を勢いよく開けた。
「よし、行くぞ!」
「おう! 初討伐となれば褒章があるかもな!」
「私は中央から攻めるわ! あなた達は横から援護してちょうだい!」
口髭プレートとアゴ髭男爵とぱっつん前髪が勢いよく客室を出て平原を駆け出す。
小窓からは、悪口を伴った御者の愚痴が聞こえてくる。
「って、アリスまで行くんかーい!」
残念ながら、ワイングラスは用意していなかった。