113 海の底の裏姫
「あの、その長い耳の先は、頑張って引っ張れば肩まで届くんですかね?」
「いえ、やった事ありませんし、やりたいとも思いません」
「そうですか……。あっ、じゃあやってみていいですか?」
「イヤです……。すいません」
「駄目ですか……」
断られてしまった。なんとかハーフエルフであるユイリの長い耳に触れてみたいのだが……。
すると――
「ああんっ! ちょっとアリスちゃん、くすぐったいですよ……!」
「本物の耳なのね。私、今の今まで着け耳かと思っていたわ!」
なんの臆面もなく、アリスがユイリの耳に触れてこねくり回した。
くそ、羨ましい。俺も女子だったら……。
と欲望を叶える術を考えていると、ゴブリン討伐の本陣行きへの馬車がなんのコールもなく走り出した。
「あれ、出発したぞ?」
「定期便と言っていた割には乗客が少ないのね。と言うか、私達以外はユイリだけじゃない」
アリスはそう言いながらブーツを脱いで座席に膝をつき、窓から外に目を向けた。
外の風景はなんの変哲もないただの草原だったが、それでもここが異世界だという事を加味すれば確かに見逃すべき景色は何一つ無いかもしれない。
俺はスマホを取り出し、外を眺めているアリスをフレームの端に収めて写真を一枚撮った。
「それ……なんですか?」
すると、ユイリが興味を持ったようで、スマホの画面を覗き込んで来た。
「これですか? えっと……写真を撮る道具です。って、写真が分からないか……」
細かくスマホについて説明しても仕方がないので、今現在で唯一使用している機能のカメラだけを伝えた。しかし、その返しは俺が想像していたのとは大きくかけ離れているものだった。
「それがシャシンですか……。わたし、初めて見ました」
あれ……この異世界には既に写真があるのか……?
リアクションからして珍しいのは間違いないみたいだが、それでも中世ヨーロッパのようなこの異世界にカメラがあるのは少し妙にも思える。
魔法写真とか写術師とか……魔法的な作用で撮る写真かな。
しかしそれを尋ねる間もなく、早くも外の風景に飽きたらしいアリスがリュックから本を取り出し、ユイリに向けた。
「ねえユイリ、本陣に着くまで私が本を読んであげるわ! 桃太郎と浦島太郎、どっちがいい!?」
昨日、ハンマーヒルの領主に朗読が上手だと褒められたのに気を良くしたのか、移動中の馬車の中にもかかわらずアリスは無謀な行動に出た。
「翔馬の馬車とはいえ少しは揺れてるんだ、絶対酔うぞ?」
「大丈夫よ! さあユイリ、こっちが桃太郎でこっちが浦島太郎よ、どっち!?」
「じゃあ――」
ユイリは少し憂い気な笑みを浮かべながら、巫女装束の長い袖から伸びる指先を浦島太郎に向けた。
それを見て、アリスは『こっちね!』と高い声を上げ、むかしむかしという枕詞から始まる物語を読み聞かせた。
*
本陣は思っていたよりも閑散としていた。
建てられたテントや簡易小屋の数は中継地よりも多かったが、人があまりいないように見える。
「大多数の人間が討伐に向かってるんですかね……」
ユイリがポツリと呟くと、翔馬が一つ鳴いてから小屋の前で緩やかに停車した。
「ああ、だから人が少ないんですかね」
俺はなるほどと納得しながら客室のドアを開け、アリスとユイリを先に降ろさせてから続いた。
ゴブリン討伐の本拠地である本陣。
ここに来た理由は俺達とユイリでは大きく異なるが、会うべき人物は一致していた。
「ソフィエはどこかしら?」
「どこだろうな……見当もつかん」
しかし辺りを見回して立ち尽くす俺を尻目に、アリスはドカドカと歩き出して小屋の扉に手を伸ばした。
「あ、アリスちゃんっ……!」
恐らく開けるのを止めたかったのだろう、ユイリは躊躇なく木製のドアノブを掴んだアリスの手を制そうと後ろから駆け寄った。
「っ……!」
そして前のめりに転んだ。
「キャッ……!」
「ギャアアアアアアア!」
悲鳴が二つ。可愛らしいユイリのものと、可憐な少女らしからぬアリスのもの。
「ユイリ、大丈夫ですか!」
俺は残念ながら覗かせなかった黒いおパンツ様への未練をそこそこに、頭から地面に激突したまま動かないでいるユイリへと手を差し伸べた。
「いたた……あ、すいませんすいません!」
ユイリは慌てながら俺の手を掴み、その場で立ち上がって土の付いた巫女装束を手で払った。
「いえ、謝らないでいいんですよ。……さて、じゃあソフィエさんを探しに行きますか」
と、ユイリの腰に手を回してエスコートを始めた瞬間、後頭部に衝撃が走る。
「ちょっとあなた! 私の悲鳴にはノーリアクションなわけ!?」
「いてえ! ……タライ役の氷の塊ならもっと小さくしろ、隕石が追突したかと思ったぞ! ってか、お前の悲鳴なんて、どうせドアを開けたらオッサンが2人着替えてたとかだろ!」
「3人よ!」
俺は小隕石を落とされたお返しをしようと、飛び掛かって来たアリスに対してチョップでの追撃を試みる。
しかしアリスは空中でそれを躱し、結果俺達のチョップ攻防は地上戦へともつれ込んだ。
「ププッ……!」
何気にマジな攻防戦を繰り広げている俺とアリスを見て、ユイリが小さな笑い声を上げた。
「2人とも……仲がいいんですね! わたし、兄弟も友達もいないから羨ましいです!」
周りを気にするように声を抑えて笑ったユイリは、そう言ってから再び両手で口を押さえて『ププッ』と漏らした。
「友達がいないんですか……。ちなみに生まれはどちらです? エルフの森とかですか!?」
「あなた、なにここぞとばかりに目を輝かせて聞いているのよ……」
呆れた表情のアリスのチョップが俺の脳天へと迫る。しかし、俺はそれを華麗にキャッチして見せた。
「……いえ、北の国の生まれです。わたしと母は父が亡くなってから国を離れ、このファングネイ王国領の海沿いの村に越しました。そこで送り人として見込まれ、それからは友達を作る暇もなく修行の毎日です」
「ハンマーヒルで修行しているの?」
アリスは顔だけをユイリに向けて聞いた。俺に握り込まれている手の力はまだ緩めないでいる。
「ファングネイ王国の支部でです。今は休暇中で、村でお母さんの仕事を手伝ってます。海に潜って貝を採る仕事なんですけど、海の底って凄く静かで送り人の修行にもピッタリなんですよ」
「そうなんですか……。じゃあ、俺が友達になります! いえ、友達になって下さい!」
「私だっているわ! それにソフィエだっているじゃない!」
チョップ攻防は自然と休戦協定が結ばれ、2人してユイリに近づき迫る。しかし、ユイリは慌てて顔を左右に振った。
「ソフィエ様と友達だなんてとんでもないです! あの方はわたしの憧れです! ……でも――」
横に振られた顔から、コンマ数秒遅れて薄紫色のサイドテールが定位置に収まった。それと同時に、可愛らしい薄い紅の唇が静かに開く。
「アリスちゃんもウキキさんもありがとうございます。こちらこそなんの取柄も無いただの裏姫ですが、これからもよろしくお願いします!」
裏姫……ユイリは確かにそう言った。