106 プラシーボエフェクト
この異世界の空気は澄んでいて、とても清かった。
星の瞬きは元の世界のどの夜よりも美麗だったが、それでも三方向に浮かぶ3つの月の引き立て役でしかなかった。
領主の屋敷から出ると、既に人を乗せている客室付きの馬車が3台と、荷台に物資を積んでいる馬車が1台。
客室には大規模なゴブリン討伐の中継地を設営する為の兵士が乗っていて、出発を今か今かと待ち構えていた。
「全員、明日の朝ミドルノームの城からやって来る兵団と合流する予定だった者達だ。出発が早まって士気が落ちていなければいいが」
臨時の部隊長を領主代理から任命されたアナはそう言うと、一つ一つの馬車に顔を出し軽い挨拶をして回った。
「よし……。では、我々も乗り込もう。ウキキ殿、手伝わせてすまないな」
「いや、中継地の設営だろ? 似たような経験あるし、まあ少しは役に立てると思うわ」
「経験か……。元の世界でか?」
「まあな、そんな所だ」
と話していると、華奢な少女が息を切らしながらこちらまで駆けて来る姿が目に映った。
少女はそのままアナの元で立ち止まり、膝に手をつきながら、
「すいませんっ! 遅れました!」
と慌てた様子で言った。
……あれ、昨日の夜中に領主の屋敷を覗いてたハーフエルフの子じゃないか。
薄紫色のサイドテールと尖った耳。
それに加え、少しサイズが大きめの巫女装束を纏っている少女。
その姿を至近距離でマジマジと見ていると、突然後頭部にタライが落ちたような衝撃。
「いてっ……! えっ? なんだ今の衝撃!?」
まるでアリスに氷の塊を落とされたような、リアクションに適した丁度いい痛さの衝撃だったが、周りを見回しても当然アリスの姿は無かった。
プラシーボエフェクト……プラシーボ効果か……?
ハーフエルフの少女を変態的な目で……いや、紳士的な眼差しで眺めていたので、アリスのツッコミを脳内で感じたのだろうか? 不思議な事もあるものだ。
と考えていると、アナが少女の名を呼んだ。
「ユイリ、まだだったのか。ウキキ殿、紹介しよう。昨日少し話した、送り人の修行中のユイリだ。歳は17になったばかりだな」
「ヒッ……! は、はじめまして。ユイリです」
……また、ヒッって言われた。
しかし、俺はめげずに、
「はじめまして、三井ユウキです。あの、ヒッって言うのはどういった意味で……?」
「ヒッ……! すいませんすいません!」
「いえ、俺こそ至近距離で見つめてすいませんでした」
と、やや丁重に自己紹介を交わした。
俺とユイリのお互い遠慮気味の姿を少し硬い笑みを浮かべながら見ていたアナは、『よし、では向かおう』と最後尾の馬車に乗り込んだ。
ユイリも返事をしてからその後に続くと、それで馬車は定員オーバーとなった。
「あれ……。アナ、俺はどの馬車に乗ればいいんだ?」
「困ったな。悪いなウキキ、どれも既に定員オーバーだ」
「うおい! お前はスネちゃまか! じゃあ俺はどうすんだよ!」
「仕方が無い、ではわたしは物資を積んだ馬車に乗ろう。あれなら御者の隣に座れるだろう」
と、アナは客室の席を俺に譲ろうと腰を上げた。
「いや、それなら俺がそっちに乗るよ。……あれか?」
「そうだ。……すまんな、寒空の下だと言うのに」
俺は駆けながら、アナに『気にすんな』と手を上げてみせ、物資を積んだ馬車へと向かった。
*
「中継地を襲ったゴブリン達はもう引き上げてるんですか?」
トールマン大橋を越えて、真っ暗な平原を馬車が走ること30分。
御者は前方に伸ばされたランプの灯りとカンを頼りに、乱れる事なく翔馬を見事に操っていた。
長年この仕事に従事しているという50歳程度に見える御者は、咳ばらいを一つしてから俺の問いに答えた。
「ええ、本陣の補給を絶つ目的だったようですぜ」
「じゃあ、もうゴブリンは残ってないんですかね」
「そのハズですぜ。危険は無いと言うから急遽引き受けた仕事ですしね」
御者がそう言うと、荷台がそれに同調するようにガクンっと揺れた。
「普段はただの馬が引いてる荷台なので、揺れるのは勘弁して下せえ」
「俺は平気ですけど、荷台の物資は大丈夫ですかね? なんか、樽がさっき見た位置から動いてる気がしますけど」
「まあ、大方ロープで固定してあるので平気でしょう。それより少し遅れてるので飛ばしますぜ」
手綱を強く握りながら御者は言った。確かに前を走っているはずの3台の馬車は既に見えなくなっていた。
『せいっ』と気合の入った声を御者が上げると、それが手綱ごしに伝わったのか、翔馬は駆けるスピードを上げた。
その瞬間――
「ぐわああっ!」
照らされている前方に釘付けになっている御者の呻き声に近い悲鳴。
その視線の先には死ビト。見える範囲にだけでも5体ほどがうろついていた。
「落ち着いてください!」
しかし俺の声虚しく、咄嗟に死ビトを大きく迂回して避けようとする馬車。
その車輪は高まったスピードとカーブに耐えきれず、慣性の法則に従って大きな岩の前で横転した。
「ぎゃあああああ!」
という、アリスに似た少女らしからぬ悲鳴が一つ。しかし、当然アリスの姿は見当たらない。
「ぷ、プラシーボ効果エグいな……。いてて……」
横転した馬車から投げ出された俺は、その場で立ってから身体の具合を確かめた。
少し右足が痛むものの、大したケガは負っていないようだ。
「御者さん!」
しかし、俺とは対照的に御者は荷台の下敷きになっていて、低い呻き声を上げていた。
その元に向かい、荷台をどかそうと全身で力んだ刹那――
「っ……!」
背後から、鉄製のヤリの穂先が迫った。
「あっぶねえ!」
俺は反射神経だけを頼りにヤリの刺突を躱し、もう一度刺突を繰り出そうとしている死ビトに向けて腕を構えた。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
刎ねた首はその場に落ちて転がり、残った胴体が膝から崩れ落ちた。
俺は周りをうろついている死ビトを注視しながら、御者の下半身を覆っている荷台を鎌鼬を使役して切断し、残った部分を目一杯の力を込めて押し出し撤去した。
「大丈夫ですか!?」
「あ……足が……」
御者が押さえている左足の大腿部には木片が綺麗に突き刺さっており、血が滴り落ちていた。
「包帯巻くから、ちょっと我慢しててください!」
樽の傍に落ちていたボディバッグから噴水の水の包帯を取り出し、御者の足に当てた。と同時に、うろついていた4体の死ビトが俺の後方から迫った。
「うぜえ! 邪魔すんな!」
俺は立ち上がり、先頭の1体に蹴りを浴びせて横転させてから4体纏めて狐火の炎で焼いた。
ボオオォォォ!
「おお、灯りが出来た……」
死ビトを焼く炎で御者のケガの具合をよく見ると、木片は大腿部の動脈を狙ったかのように刺さっていた。
抜いてから包帯を巻くか周りを巻いて治してから抜くかを迷っていると、転がっている樽がコロコロとこちらに向かって来た。
と同時に蓋が開き、中からバカと虫みたいなのが頭を覗かせた。
「ぷはっ……! なにが起こったの!」
「樽の中で潰されるところだったであります!」
アリスとチルフィーだった。
「えっ……!? なんでお前ら!?」
あまりの驚きに次の言葉を失った瞬間――
「動くな、包囲している」
俺達の周りを囲んでいる、武装した男達の存在に気が付いた。