99 あなたの好きなタバコの香り
「ひし形の刻印、まだ消えてないな……」
俺はジャオン2Fのトイレで鏡と向き合いながら呟いた。
「結局効果が分からん……。バフ的なものらしいけど、なんも感じないな……」
刻印術師や大魔導士が扱う魔法らしいので、ハンマーヒルで聞けばなにか分かるかもしれない。
アリスが食い気味で『行く』と答えた領主の街『ハンマーヒル』は、そんな俺の知識欲を満たす可能性がある他に、俺達が一度会っておくべき人物もいるので、いつか訪れなくてはならない場所だった。
「森爺だったよな。ボルサ以外の、俺達と同じ転移者……」
元の世界に戻るにはどうすれば?
まず聞くべき事はこれだが、まあ望み薄だろう。そんな術を知っているならボルサも森爺もとっくに戻っているはずだ。なにより、7年後のこの異世界にはアリスがいて俺もいる。
「もう戻れないのかな……」
俺はトイレを出てショッピングモールHPを回復させた。未来アリスと月の迷宮に入り5マスほどHPが消費しているはずなので、月の欠片5つを投入しておいた。
「これでHP8か9だな。まあこんだけあれば大丈夫だろ」
1日でHPは2マス減り、月の迷宮に入ると5マス減る。
これがゼロになったらどうなってしまうのかは分からないが、まあ遠征とは言え4日分のHPがあれば十分だろう。
俺は残った月の欠片2つをプラスチックのケースに入れてレジカウンターの下にしまい、アリスとチルフィーが待っている1Fへと下りた。
「遅かったじゃない! なにしていたのよ!」
「ああ、悪い悪い。トイレが長引いたんだよ」
未来アリスと月の迷宮に行った事は伏せているので、HP回復の件も言わないでおいた。
「よし、じゃあ行くか」
ジャオンの入り口に置いておいたボディバッグを背負い、俺はそのままドアを開けて北メインゲートへと向かった。
外に出ると、翔馬に跨るアナの従者が笑顔で出迎えてくれた。
短い自己紹介を終えてからアリスは従者の後ろに乗せてもらい、俺はその隣で草原を歩いた。
300メートルほど歩くと、アナの従者が言っていた通り岩場の脇に馬車が停まっていた。
頭の上にチルフィーを乗せたアリスはそさくさと馬車に乗り込み、少しだけ警戒している俺を手招いた。
「さあ、ウキキ様もどうぞ」
アナの従者が言った。
俺は馬車の前に座る御者の顔を確認してから乗り込み、従者はそのまま翔馬で馬車を先行して導いた。
「よろしく!」
客室の前に付いている窓をトントンと叩きながらアリスが言った。
その声に反応した御者が軽く振り返って頷いてから微笑んだ。
「前に、森の村に来た御者さんだな」
安心しながら前の席に座るアリスに言うと、
「やっぱ翔馬の馬車は速いわね!」
と噛み合わない言葉を返して来た。
「どこに行くのでありますか?」
更に、噛み合わない上に今更な事をチルフィーが言った。
「領主の街だよ……言っただろ。ってか、忙しそうなのに付いて来て大丈夫なのか?」
「ハンマーヒルでありますか。忙しいけど大丈夫であります!」
チルフィーはアリスの頭から飛び立ち、馬車の窓から外の景色を眺めた。
緑色のポニーテールと白いワンピースの裾が揺れた。
なんとなくその姿を見ていると、急にチルフィーは振り向いてから小さな口を開いた。
「パンツを見ないで欲しいであります! まだおパンツ狩りの傷心が癒えていないであります!」
「見ねえよ……。ってか、よくよく聞くとお前の風の極みが原因だろ……」
まあ、積極的に見ようとは思わないけど、見えたら許せ。
と発言の補足を脳内で済ませながら、揺れの少ない翔馬の馬車から外の景色を楽しんだ。
*
緩い丘の上には白い壁と鉄柵に囲まれた街があった。
入り口の周りには果樹園があり、ほのかなオレンジの香りが鼻先をかすった。
いくつかの石の灯篭にくべている炎はお互いの影を揺らしており、その間を通り過ぎた馬車の影を伸ばした。
「お疲れ様です。着きましたよ」
翔馬から降りたアナの従者が言った。
街の入り口に比較的近い建物の前で停まった馬車は、俺達が下りるとそのまま厩舎のような木造の建物の中に入って行った。
「綺麗な街ね。中世のヨーロッパのような街並みだわ」
アリスの言う通り、見渡せる範囲には煉瓦や石材を積み上げて造られたような建物が多く、映画などで見た中世ヨーロッパの雰囲気そのものだった。
ショッピングモールで多くの時間を過ごしていて忘れがちだが、ここが異世界である事を思い出すには十分な風景と言えた。
その街並みの雰囲気に飲まれていると、目の前の建物の木製の扉が突然開いた。
「来てくれたか、ウキキ殿にアリス殿」
街の雰囲気を少々損なう恰好の俺達の名を呼びながら出て来たのは、相変わらずミスリルの鎧とロングスカートを美しく着こなしているアナだった。
「チルフィー殿も来てくれたのか。中にハニーオレンジを用意してある、さあ入ってくれ」
と言われ中に入ると、俺達は待合室のようなソファーと長いテーブルのある部屋に通された。
「美味しいわ! 蜂蜜の甘さとオレンジがピッタリね!」
「であります!」
早速、淹れてある飲み物を分け合って飲んだアリスとチルフィーが言った。
一口飲んでみると俺には甘すぎたが、馬車に揺られて少し冷えた体が内から温められ、思わず『ふぃー』と声が漏れた。
「ミドルノームの名産品の、蜂蜜とオレンジだ」
アナは向いのソファーに腰を下ろしながらそう言い、従者になにか言付けをした。
恐らく領主代理に俺達の到達を告げるように言ったのだろう。従者は静かに奥の扉を開けて部屋を出て行った。
「蜜蜂が安定して作れるのか。なら、ロウソクみたいな……蜜蝋だっけ? それも作ってるのか?」
と聞くと、アナは意外そうな表情をしながら鋭い視線を俺に向けた。
「よく知ってるな。蜜蝋もこの国の名産品の一つだ。しかし、数年前から蜜を運ぶ蜂の数が段々と減ってきている……。その理由が分かるか?」
「なんだろ? そんな話、元の世界でも聞いた事があるな……農薬の影響とかか?」
当てずっぽうに言うと、隣のアリスがハニーオレンジを一口飲んでから陶器をテーブルに置いた。
「きっとバレたのね!」
しばしの静寂の後に、アリスが再び口を開いた。
「蜂蜜を盗っている事が蜜蜂にバレたのよ!」
「……なるほどな」
その哲学的な理由に俺は思わず頷き、それからアナの正解の発表を待った。
「なるほどな……」
顎に手を当てて納得していた。
「いや、正解知らないのかよ……」
「まだ原因の解明は出来ていない。レリアは熊の仕業じゃないかと言っていたがな」
「熊か……。クマのプー――」
俺が言い切る前に、アリスが言葉を重ねた。
「レリアはいないの?」
「ああ、レリアは一昨日からファングネイ王国の屋敷に帰っている。姉の結婚式でな」
「姉か、嫌な響きだな……」
俺は自分の姉貴を思い浮かべたが、しかし貴族であるレリアの姉ならばあの愚姉とは比べ物にならない程まともな姉だろう。
そうこうしていると、音を立てずに奥の扉を開けて戻って来たアナの従者がアナに耳打ちをした。
しかし、アナはそれを遮るように、
「客人に失礼だ。構わない、その場で言ってくれ」
と従者を制した。
どうという事はなく、ただ領主代理が部屋で待っているだけらしい。
俺達はそれを聞くと、アナに続いて部屋を出て風景画や花が飾ってある通路を歩いた。
そして領主代理が待つ部屋に入ると、アナの従者が扉を閉めるのも待たずに、豪華な椅子に深く座っている領主代理が灰皿にキセルをコンッと叩き付けながら金歯を覗かせた。
「まずはアラクネ討伐の礼を言うよ……ありがとう。次に要請を伝えるよ、『円卓の夜』の間、村人をショッピングモールとやらで受け入れておくれ」
領主代理が口早に話を終えると、灰皿に捨てられた刻みタバコの灰がジュッと音を立てた。