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38 夢魔


「それにしても、やっぱりカーティスが頼った事のある相手だ。君も懲りないね。ボクに歯向かえるとでも思ってるなら、それこそ嘲笑に値するけど」


 お兄様の口から、すらすらと言葉が紡がれる。信じられない…あれが、お兄様なの?

 そう思うと同時に、察した。


 これには、勝てない。


「俺だって、カディスは死んでもいいがカーティスが死ぬと困る早く戻るんだ――俺が霊魂達を呼んで殺す前に」

「ははっ、随分な言い様じゃないか。ボクはちゃんと感知したよ?君が一日一回しか召喚できないあの三人組を呼び出したのをさ。今の君は脅威じゃない。ただの『餌』だ」

「~ッ!」


 エリアスは私を支える手に力を込めた。

 朦朧として今にも失いそうな意識の中、ぼんやりと神楽、神楽、とだけ唱えていた。段々、意識がはっきりしてくる。


「君は言わずもがな、美味しそうだね」


 お兄様は、にこりと笑うと、エリアスを静かな、ゆっくりと脳に伝わる視線で見つめる。エリアスが、半歩下がりかかった。

 

「まるでクッキーだ。甘くて美味しい。だけど、ボクはクッキーはあまり好きじゃない。それに比べて」

「!」


 するっ、と私の頬にお兄様の手が滑った。ぞくっと鳥肌が立つ。その視線は私を舐めるように見た。お兄様の目から目を逸らせない。


「こっちは、飴みたいで美味しそうだね」


 その言葉が、声が、ゆったりと耳から脳に伝わってくる。それだけで脳が麻痺しかけるほど、その声は甘く、甘えさせる声だった。

 なにこれ…っ、聞いてな…

 

「さあ」


 お兄様の手が、誰かに叩かれる。何とか力を振り絞ってそちらを見てみると、ユアンが笑顔で立っていた。ユアンは、お兄様から目を逸らさない。私の心が、落ち着いたのが分かった。


「すみませんが、カディス様。ミルヴィア様に触らないで頂けますか?」

「君、ただの使用人だよね。ボクに指図する権利、あるの?」

「無いですね、残念ながら。しかし、この方を守る義務はありますので」


 ふわりと浮く感覚があり――そして、今度はユアンの腕の中に落ち着いた。

 こいつ、どさくさ紛れに…!


「離してよ!」

「私の側から離れると、夢魔の『魅惑』にやられます。大人しく」


 予想以上に静かで落ち着いたユアンの声。私は、意識がはっきりと目覚めたのを自覚した。お兄様が残念そうに目を細めた。

 

「…ユ」

「静かに」

「はい…」


 有無を言わさない口調に、思わず従う。お兄様の方を見ないように、視線を伏せた。間違っても目なんか見ないようにする。

 お兄様…本当に怖い。恐ろしい。あれが、狼男の混ざらないお兄様の本領なのだと良く分かる。

 

「助かったよ、君の『魅惑』に中てられて、狼男が一時的だけど居なくなってくれた。久々に開放的な気分を味わった気がするよー」

「…私、の、『魅惑』」

「そう」


 君のおかげで、出てこれたんだ――と、お兄様は両手を広げて涼しげに言った。実際、嬉しいのだろう。カディスとして、カーティスの体を借りて出て来れる事が。私は、私のおかげ、という言葉が心をじわじわと侵食するように広がって行くのを感じていた。


 私の…おかげ。私の…せい?


 滅多にこういった事では罪悪感に駆られないけれど、そして今も罪悪感があったわけじゃないけれど、その言葉が心と頭を埋め尽くした。こうなる事を知っていたら、私だってバーッと『魅惑』を使ったりしなかった。だからお兄様が悪い。そうとは思えないし、思っちゃいけなかった。


「カディス様、我が主を侮蔑するのは止めて下さい。不愉快極まりないです」

「君は本当に立場を分かってないなあ。君の立場はこうなの」


 お兄様がユアンの額を人差し指でトン、と突いた。それだけで、ユアンの体がふらつき――ギリギリで耐え、踏ん張った。それでも、額に汗が浮いている。相当無理をしたのが分かる。


「ほらね、いつものボクは弱いからどうだか知らないけど、今のボクなら余裕で勝てる――強者こそが支配者。それはどこの世でも決まってる事だ。今さら覆そうなんて思わないよね、ユアン」

「すみませんが、我が身に代えてでも守らなければならない人は居るので」

「そこの子の事…?カーティスも重要視してたよね。魔王…なんだよね?」

「…」


 私は答えない。ユアンの胸にぐっと顔を寄せるので精いっぱいだった。

 そうする事で、自分を守ってユアンを犠牲に。それは分かってたし、知っているつもり…だけど…。


「ユアン、その子を守ってどうするつもり?ボクは確かに、この子の名前は呼べないけど――だからと言って、夢に侵入できないって事ではないんだよ?」

「知っていますよ。眠らなければ、あるいは離れればいいだけの事でしょう――あなたから」

「そうだねえ。出来れば、だけど」

「あなた、今度はいつ頃消えるのです」


 ユアンが冷たく言い放つ。まるで、今すぐ狼男と合わさってしまえと言わんばかりの言葉だった。


「この大雨が止む頃かな?ボクだってずっとは顕在できない。もうちょっと長く、が良いけど」

「明日の昼ですか。何なら、あと一分で死んでもいいんですよ?」

「はははっ!僕がそんな軟な体で生まれてくるわけがないじゃないか!」


 本当に心外だと、夢魔は笑う。楽しそうに嬉しそうに笑い、目の端に浮かんだ涙を拭う。どうしてそんな、面白いんだろ…私が滑稽なのかな。

 ユアンにすがるしかない、今の私を…笑ってるの?

 そうじゃないと思いたくても思えない。


「…夢魔」

「そうだよ、ボクは夢魔だ。ボクは夢魔で、狼男でもカーティスでも、ないよ」

 

 それで分かった。こいつは、お兄様じゃないんだと。

 何か、対抗できるのは?何か抗える事は?そんな考えが浮かぶけれど、全部却下だ。敵いっこない。縋るしかない…?


 縋るしか。

 助かるよう、祈るしか。


「エリアス…」

「何だ」

「勝てると、思う?」

「思わないな」


 切って捨てるようなエリアスの言葉も、私を傷付けない。私は、聞きたいと思うだけだ。

 はは、凄いな。聞きたいだなんて、思うなんて。


「今、実力で勝とうとしても…俺じゃ分が悪い。お前も、勝てる相手じゃない」

「どうして?」

「今のお前は、こいつに勝てるほどの力は持ってない。真名を知らなければ、余裕で気絶してるぞ」

「…そう」


 勝てない。


「悔しい」

「ボクは嬉しいよ」

「…ッ、夢魔、私を見逃すつもりは…」

「無いなあ」

 

 するっ、と夢魔の指が私の腕の上を滑る。ますますユアンに縋り付いた。

 勝てないのが、悔しい。勝てないのが、悲しい。勝てないのが、許せない。


 もっと強く、もっと強く、もっと強く!


 強欲と言われたって構わない。強くなりたいから。勝ちたいから。

 この夢魔に、対抗したい!


『その願い聞き届けようぞ』


 聞こえた、若々しい声。私はばっと顔を上げた。誰も見えない…何、この声。怖くはないけど、不思議に気を許せちゃう感じの。


『その夢魔に対抗する力をやろう。何、儂を喜ばせてくれたら十分じゃ』


「だれっ…」


『そうそう遠くないうちに会う事になろうぞ。悪いが儂はそこの夢魔よりも数倍の力を誇る故な』


「誰なの!」


『そこの夢魔に思い入れの無い、ただの通りすがりじゃよ。ちょっと覗いたら見えた。だから助けた。それだけの事じゃな。はっはっは、儂もまさかお主にすがるようなことになるとは思わなかったぞ』


「誰だと聞いて!」


『お主、不毛な争いを好むのかの?言っとるじゃろう、そう遠くないうちに仲間になってやる故、今からの追跡は止めておくが吉と見るが』


「じゃあもう誰だっていい、何をするつもり!?」


『言っとるじゃろ?その夢魔は儂も好まん。だから数日間の加護を与えると言ったまでじゃな』


「誰、何をするの、あなたは何!」


『そこまで聞くなら教えてやろう。儂の名は――』


「ミルヴィア様、どうしたのですか!」


 はっと、ユアンの声で現実に戻った。誰だ、今の――まさか、この夢魔が聞かせた幻聴?

 夢魔の方を見て、目を合わせる…とたん、マズった、と思ったのに、夢魔に吸い寄せられる事無く正気を保っていた。夢魔の方も、驚いて目を見開く。


「どうして…?」

「ど、どうして、って、だって、え」


 いやいやいやいやいやいやいや。

 こっちが聞きたいって。なんなの今の声?声だけってのが怪しい。


「君、『構成力』がアップされて…」

「構成力?」

「抗力を構成する力の事ですよ。それが急に上がるなんて…何をしたんです?」

「そ、そりゃまあ私の強靱なメンタルの成せる技ですよ」

 

 ま、とにかくよかった。いずれ会えるとか言ってたし、今は気にせんでおこう。いやまあ気になるけど。気にならないって言ったら大嘘になるけど。

 私はユアンの腕の中からすり抜けると、床に降り立った。

 そして、夢魔に一本指を立ててにやっと笑いかける。


「さあ、私に『魅惑』は通じない――どうする?降参するなら、今の内だよ!」


 『魅惑』が効かなくなったのは私が頑張ったからじゃないけどね!

閲覧ありがとうございます。

声の正体については、必ずいずれ分かります。分かるまでに結構かかるかもしれませんが。

次回、真名が分かったところで特別編です。

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