お兄様編 心地好い朝
――僕にとって、睡眠とは、ただの道楽だった。
疲れて寝ても疲れは取れない。疲れを取るには、夢魔としての本能に従う事。それはつまり、『魅惑』の固有魔法を使う事を意味する。そして、夢魔としての僕は僕の容姿のまま夢に入る。当然、誰でもできるわけじゃない。
だから、いつでも疲れて、寝る暇があれば疲れようが何だろうが仕事に没頭する。
故に、誰も夜の執務室には近付かない。なのに、ミルヴィアは。
ミルヴィアは、それを知らず、夜に来た。
僕が、ミルヴィアが、何をしたのかは僕もうろ覚えだ。ミルヴィアが真読魔法を使って、正気を取り戻した事。わざと時間稼ぎをして魔力を回復させた事。
実戦経験が無い夢魔と狼男は、別人のように言うのもあれだけど、下手だった。五歳のミルヴィアにちょこまかと躱されて、最終的に見放されて。
まるで、前の、僕のようじゃないか。
だけど、久しぶりの『魅惑』を使った満足感があり、そして。
ミルヴィアを襲いかけていたという、罪悪感に苛まれた。
「お兄様、お目覚めですか?」
ゆっくりと目を開いた時、ミルヴィアが顔を覗き込んでいた。僕は…『寝て』た、のか?
どうして、という疑問が出る直前に答えが出る。
そうだ、ミルヴィアの真読魔法で。また、一時の安らぎを得た。そのはずなのに。
「疲れた…まだ寝たい」
「どうぞ、お兄様」
僕の我が儘をすんなり受け入れるミルヴィアは、どうしてか、酷く大人びて見えた。
ミルヴィアが僕の目に手を乗せ、目を閉じさせる。
「もう一度、安らぎを」
すうっという音が聞こえ、僕の意識はまた、深淵の底に沈んだ。
「今度こそ、起きて下さいよ」
重い瞼を持ち上げて、目の前の焦点が合ってくる。ミルヴィアはゆったりとした笑いを浮かべていた。
「うん…もう、起きるよ」
「ユアンが作ったご飯と、シェフが作ったご飯がありますけど」
違うおかずが並ぶ、二つのワゴンを指差して言った。どっちがどっちの作ったおかずかは全く分からなかったけれど、僕は迷わず、
「シェフの方で」
僕はユアンが大嫌いだ。妹と近い事もそうだけど、ミルヴィアがそいつを強いと認めてタメ口を利いている。それが許せない。あいつは強くない、と思いたい。どこの種族かも分からないのに。
「じゃ、私はユアンのご飯を」
ミルヴィアが片方のワゴンを近くに寄せる。よく見ると、椅子に座っていた。ワゴンに乗ったまま食べるらしい。いや、その前に。
妹があいつの作った朝食を食べる?
「やっぱり、僕がそっちにしようかな」
「え、そうですか?」
意外そうにミルヴィアが言う。
当たり前じゃないか、妹にユアンが作った朝食なんて食べさせられるか。
ミルヴィアは起き上がった僕の膝に、ワゴンから取り出した盆と一緒に朝食を乗せる。膝に乗った朝食が美味しそうなのが腹立たしかった。
「じゃ、私はこっちで」
「…」
しばらく、朝食の味を堪能した。ミルヴィアは食事中は喋らないようで、一口一口丁寧に口まで運ぶ。
この朝食も、味は美味しい。けれど、ユアンが作ったと思うと同時に不味くなる。不味くなるというか、気分が落ちて次を口に運ぶ気になれない。
「お兄様、食が進みませんか」
「あ、ううん、大丈夫」
ミルヴィアに心配させちゃいけない。眉を寄せて心配そうな表情の妹の頭を撫で、大丈夫だよ、と笑顔をつくる。
「でも…」
「平気だって」
「そうですか?」
ミルヴィアは、こちらを窺いながらもう一口、口に運ぶ。その姿が、我が妹ながら無駄に妖艶で困る。
ミルヴィアは、身内の贔屓目を抜いても可愛いと思う。
黒い髪は手入れが行き届いていて(これはエレナの功績だけど)、黒い瞳は潤っていて悪戯っぽく光る時もある。何より、黒い光を湛えたその目は感情をすぐに表す。そして、ミルヴィアがそうやって目に感情を宿す時は、その相手を認めた証拠なのだ。
僕と、ユアンと、コナーと、エレナ。
この四人だけ、ミルヴィアにこの目を向けてもらえる。ミルヴィアに、いや、魔王様に。
それがどれだけ光栄で、魔族の中で僅かな者達なのか、この子は分かってないんだろうけど。
朝食を食べ終えると、ミルヴィアは僕の皿をじーっと凝視して一つ頷き、ワゴンに戻す。どうやら、食べ残しがないかチェックしていたらしい。
もちろん、全部食べた。
一口含むごとに見える、ユアンの幻影を振り払いながら。
「お兄様、久々に寝た気分はどうですか?」
「うん、スッキリしたよ。ありがとう」
「どういたしまして」
謙遜しない辺り、魔王として自覚が生まれたと思う。僕を魔王城で雇うと言ったのも、魔王目線だった。
いくらなんでも、早すぎるけれど。
普通なら、八歳でも芽生えてるかどうかだ。やっぱりこの子はどこか賢い。五年だけ生きていたとは思えない。
この子は、本当に、規格外。
まあ、魔王が規格外の代は、大体勇者も規格外なのだけれど。
「さてと、お兄様、お兄様にこれを渡します」
「え?」
ミルヴィアから渡されたのは、ミルヴィアの腕輪だった。ミルヴィアはそれを僕の腕に嵌めた。ミルヴィアの腕にぴったりだったのが僕の腕の大きさにあっているところ、これは魔導具で、自動調節機能が付けられているらしい。魔女文字の『ДИ◆§』が描かれているので間違いない。
「これ、魔力循環を促すんです」
「どこで買ったの?」
「トィートラッセです」
「ああ、やっぱり」
こんな緻密で繊細な魔女文字を描くのはトィートラッセしかない。となると、ユアンに買ってもらったのか?前はユアンが持っていたと思ったけど。
「…これ、どうして僕に?」
「さっき寝てる間に、魔力循環を視てみたんですけど」
「視た?」
どうやって?
そんな簡単に、視れるものじゃない。普通、医師から教わってようやく使えるんだ。どうやって、使えたんだ?
「はい、視ました。こうやって、手をかざして、この前のお医者さんがやったのと同じように」
「…」
真似……したって事?
ああ、本当に、千年間現れなかった吸血鬼だ。
「イレギュラー、だね」
「私がですか?当たり前じゃないですか、魔王ですもん」
「うん」
その魔王が妹だなんて、受け入れるのに何年かかったか。今だって、疑いたくなることがある。それをさも当たり前のように受け入れてしまう妹が信じられない。
「それで、寝たらよくなったんですけど、魔力の循環が滞っていたんです」
「…え?」
「睡眠って魔力循環を促すらしいですよ。疲労と共に魔力の循環が滞る…らしいですよ」
「どうしてそれを知ってるの?」
「ええっと」
ミルヴィアは目を逸らしながら、頬をかいた。
「あの病院に、行ったと言うか」
「はあ!?」
「あのエリアスってお医者さんに会いたかったんです」
「どうして」
「多分…ですけど、一番、強いから」
「…」
どうしてこう、強い人に対する嗅覚が鋭いのか。僕とユアン、コナー、あとエリアスもミルヴィアにあの目を向けてもらえたか。ミルヴィアが興奮状態の時に来てもらったのも、あの人だった。
「それで、会えた?」
「会え…うーん」
ミルヴィアはしばらく考え込むような様子を見せた。僕は急かさずじっと待つ。
「会えた、と言えば会えましたね」
「と言うと?」
「邪魔だ、と言われましたけど」
「ああ…」
言いそうだ。魔王だろうと関係なく。
「それでもしつこく付き纏ってたら、教えてくれました」
「…すごいな、ミルヴィアは」
あの視線に抗えるのは多くないだろうに。
「それで、ですね。魔力循環を促す薬はミーツだと言われたんですが、何せお金が無かったので」
「…?ユアンに払ってもらえばよかったのに」
癪だしやって欲しくはないけれど、ミルヴィアがそれを選択しなかったのは信じられなかった。一番にやりそうなのに。
「うー、それが」
「……まさか……」
「一人で、行きました」
「何してるんだ!?」
魔王が一人で出歩くなんて、襲われてもおかしくない。それどころか、公爵家の人間が一人で歩くという事だけでも信じられないのに!
「ごめんなさい。でも、お兄様の魔力循環が滞ってる理由が分からなくて…三百四号室には医学関連の本は無かったし…」
「…過ぎた事は仕方ない。今度からは、ユアンでも誰でもいいから、連れて行くんだよ」
「はい。それでですね、ミーツ以外ならこの腕輪が良いだろうと言われました!」
ミルヴィアは、目をキラキラさせながら僕の腕輪を指差した。確かに、睡眠では取り切れなかった疲れを解してくれているのが感覚的に分かる。
人族は、目に見える物を大切にする。
魔族は、目に見える物も、見えないものも大切にする。それが感覚であろうと何であろうと。
それが大きな違いであり、人族が長寿ではない理由だ。
「お兄様、私、ワゴンを片付けますね」
もし、僕に、この妹が居なかったらどうなっていただろう。
あの時。
まだ目覚めても居ない魔王様が、僕にしてくれた約束と。
もう目覚めていた魔王様が、僕にしてくれた約束は。
「有効だよね」
「?お兄様、何か仰いましたか?」
「ううん、なんでもない――行ってらっしゃい」
「はい、すぐに戻ります」
ミルヴィアはニッコリと笑い、二つのワゴンを押して廊下に出て行った。
僕はそれを、今までにないほど落ち着いた目で見守っていた。
閲覧ありがとうございます。
お兄様目線の話でした。ミルヴィアは病人に対して、すごく優しくなります。その病人が強い人だった場合に限りますけど。
次回、少し時間軸が遡って、ミルヴィアが病院に行く話です。




