お兄様編 本心
「はあ……」
僕は執務室で、整理した机の上に一枚の紙を広げながら頭を抱えていた。
紙には大きく『勧誘状』とあり、貴族特有の長ったらしい、遠回りな誘いが書かれていた。要約すると、『今の職場より優遇するから来てくれ』というものだ。
ユアンがすぐに断ったらしいが、公にやられるとすぐ断るよりも処理を済ませてから断った方がずっといい。
ミルヴィアはそれを分かっているはずだから、言う必要もないけど。
ああ、それにしてもなんで今なんだ。
やっと仕事がひと段落して、ビサの昇進試験も始まり、僕としては父さんの補助が楽で楽しく毎日を過ごしていたというのに。
ミルヴィアによって齎された幸福が、ユアンによってぶち壊された。
やっぱりあいつは好きになれないな。
ミルヴィアは今何をしているだろう。あの子ならきっとうまく立ち回ってくれるとは思うけれど‥…。
僕は魔王だと言う周りの皆と違って、ミルヴィアを六歳の女の子だと認識している。だから何も任せるつもりはない。そう、この暗躍中に溜まりに溜まった書類の整理も、相談しようだとかは全く思っていないのだ。
そもそも、あの子からこちらに来なければ僕は行かないし、あの子だって今はユアンとの話し合いで忙しいだろう。
僕がちょっかいを出すのも、エリアスに大人げないとか言われそうだから、やらない。気になるものは木になるから、少しユアンに様子を聞くくらいか。
コンコン
ん。
「はい」
「ミルヴィアです。失礼します」
噂をすれば、ミルヴィアが入って来た。
夕方の光で、薄っすら微笑んでいるのが分かる。
何の話だろう。大体想像は着くし、それに対しての受け答えもできるのだが。
「どうしたのかな?」
「お兄様、お兄様の書類の整理を手伝わせてください」
僕は目を見開いて、ちらと書類の山を見た。機密事項ばかり羅列された書類。しかしその三分の一程度は、ミルヴィアにならば信用を置いて頼める部類のものだ。
だけど、僕はついさっきミルヴィアに相談しないと言ったばかりで、撤回する気はさらさら起きない。
僕は微笑んで、ミルヴィアに言う。
「いや、これぐらい自分で処理できるさ」
「お兄様、私は、今回の件私も活躍させていただこうかと思ってるんです」
僕は目を細めてミルヴィアを見る。ミルヴィアは、にっこりと微笑んだ。
なんだか、違和感がある。微笑んでもらっても、いつもみたいに可愛らしいとは思えない。
ユアンのような、普通ではない笑み。
「お兄様の書類の整理を手伝った後は、風評被害を防ぐために狐ちゃんと少年に協力を頼みます。あの二人なら人脈が広いので、風評被害に関してはどうにかしてくれると思います」
「ああ、確かにそうだね」
そんな人と知り合った、ミルヴィアの人望もすごいと思う。
その理由の一つとして、ミルヴィアは本心しか言わないというのがあるだろう。たまに隠して有耶無耶にしたとしても、分かりやすいというのもある。
魔王として人と接するときも、尊大な態度でありつつ人を貶したりはしないからね、よっぽどの事がない限り。
「アイルズにも多少ですが動いてもらおうと思います。宮廷の人間ですから、少なくともあの伯爵令嬢が流す噂よりもかなりの説得力もあるはずですし。授業は休みますが、たまに宮廷へ行こうと思います。あ、レーヴィを連れていきますから、安心してください」
「……じゃあ、ユアンは謹慎なんだね?」
そこに来て、ミルヴィアが数瞬、固まった。次に言う言葉を探すように、視線をさ迷わせる。
妹の変化に気付かないはずはないし、隠していることも想像がついた。
「ミルヴィア、大丈夫だから。本当の事を言って」
こういう時には、嘘が一番困るんだよ。
僕はミルヴィアを見据える。ミルヴィアは、笑顔を消した。
言いにくそうに下を向いて、僕の顔も見ずに言う。
「ユアンは辞めたいそうです」
僕は何故か、立ち上がっていた。ミルヴィアの小さな顔が、こちらを向く。じっと、こちらを見ていた。
ミルヴィアが説明しなければ、というように言葉を続ける。
「私に迷惑が掛かるからと、せめて被害が最小限に収まるようにと」
「けど、どっちにしろ動かないといけないじゃないか」
「だから処理が終わるまでは謹慎だと言いました。その後は好きにすればいいって」
「そんな護衛が公爵家よりも伯爵家を選んだなんて知られたら」
「ユアンがあっち側に行くなら、その噂が流れないようにっていう、交渉も可能です」
「だけど!」
「お兄様」
ミルヴィアが僕のところまで歩いてきて、手を握った。落ち着いて、と言いたいらしい。
僕はストン、と椅子に座る。ユアンが居なくなる事は僕としては構わない。大歓迎と言ってもいい。
でも行き先が伯爵家?そんなの、いくら噂が流れなくなったって、誰かに知られるに決まってる。
メリットは僕の側からいなくなる事、それにやはり処理が早く済みやることも少なくなる。ご丁寧に書類を書く必要もない。上手く行けば公爵家は寛大だと思われるかもしれない。可能性はかなり低いが、僕が動けば可能だろう。
デメリットは公爵家が下に見られるかもしれない事だ。あと。
「ミルヴィアは、悲しいだろう」
自分で言ってびっくりした。僕はユアンがミルヴィアから離れることを願っていたし、今もそうだけど、まさか自分からミルヴィアが悲しいからという理由でユアンを引き戻そうとするなんて。
ミルヴィアは、そんな僕に対して、首を横に振った。
「いいえ」
ミルヴィアは口角を上げて、にっこりと微笑んだ。
背筋がゾッとして、寒くなる。全くと言っていいほど、感情の欠片もなかった。
「お兄様、私は護衛ならレーヴィがいます。ビサも居ますし、病院に行くならエリアスも居ます。全然、大丈夫です」
「……そうだね」
本当に、ミルヴィアは分かりやすい。
僕の目をまっすぐに見てきて、その目は、悲しそうでしかなかったんだから。
ユアン……僕は君が嫌いだよ。
妹を泣かせそうになるくらいなら、残るっていう選択肢を選んでほしかった。
ミルヴィアは泣かないんだから、悲しくはさせないでほしい。
「お兄様、書類の整理、やっぱり手伝わせてもらえませんか?」
「ああ、じゃあ、お願いしようかな」
じゃあやっぱり、今は僕が側に居てあげるよ。
閲覧ありがとうございます。
なんだかシリアスな雰囲気になった。いや、なってしまった。
次回、コナー君目線。今回の話のその後です。