Introitus――入祭唱
Introitus――入祭唱
季節は夏。
孟夏の太陽、匂い立つ深緑、風は凪ぎ、耳にはクロウタドリの囀り。
王都の東に広がる田園地帯のどこか。
その車輪から伝わる不規則な揺れから察するに、舗装されていない森の街道を行っている。恐らく、外では一面の木々が、まるでヴェールのように生い茂って、見る者総てを呑み尽くす緑一色の大海となって、私達の周りを取り囲んでいるのだろう。木漏れ日は、さぞかし眩しく地面に射し込み、キラキラとした翡翠色のイルミネーションを投げ掛けているのだろう。
けれど、そんな情景も今はここになく。
いや、私の傍らに、それが常に寄り添っているのは明白で、鼻孔が、鼓膜が、肌がそれを教えてくれている。けれど、私と外の世界には少しばかりの障りがあり、それが実際の距離よりも両者を大きく隔てている。それらの所為で、そこはどこよりも近くどこよりも遠い、神の御国に近しいものになってしまっている。
私は盲いている。
最後に見た光景は、白いほっそりとした腕が、暗褐色の薄布を幾重にも折って、それを私の眼窩に押しあて、私に暫しの外界とのお別れを敢行する瞬間だった。そしてそれ以降、その腕の持ち主こそが、私と外の世界の唯一の架け橋となり、私を幌馬車の中に蹴躓かせることなく落ち着かせる代行者であり、退屈をさせないようにという名目のもと、私が要らぬ考えを起こすのを防いだり、無意識下に洗脳という毒を仕込もうと働きかけたりという、呪詛のような役割を一手に引き受けていた。
私の鼻孔をくすぐるは、幌と目隠しの向こうに広がっているであろう自然美の残り香は勿論のこと、けれどもっと強烈に支配していたのは、私の付添人の人工的な香水の甘ったるい匂いと、それすらを以っても隠し通せぬ幌から漂う死臭だった。
「この馬車は元々死体運搬用なのです。あなたは知る由もなかったかもしれませんが、この国には戦禍の傷跡が深く残っている。戦場で息絶えた兵士や、野戦病院でもがき苦しみ死んでいった者、また不幸にも行軍の道程にあったというだけで村を焼き払われ、蹂躙され命を落とした人間――そうした骸に、それぞれ個別に葬式をあてがってたんじゃ国家は転覆してしまいますからね。こうして屍を纏めて運んで、墓穴にポイッとする、そんな馬車がこの国にはまだ現役であるんですよ。あなたも一度、人気のない倉庫前で、箱馬車から乗り換えさせられた時にお気づきでしょう、わたし達には、あなたに――誰であろうと、一部の特権者を除いて、行き先を知られてはならない理由があるの。だから、あなたには目隠しが、そして外からなるべくあなたの姿が見えないように、このスッポリと幌で覆った死体運搬車をカムフラージュに選んでいるわけ。行商用の物と違って、これなら積み荷を狙われる心配もございませんしね」
付添人ののべつ幕なしのお喋りと、うだるような熱気と、いよいよ強くなる腐臭に息を詰まらせながら、私は云った。喉は渇き、枯れた声をやっとのことで搾り出した。「そろそろ教えなさい。どこへ連れて行くの」
「ノーノーノー。それは教えられませんわ。着いてからのお楽しみ」女はおどけたように返した。「それと、口の利き方には気を付けたほうがよろしくてよ、コニ。近々わたしに礼儀正しくしておいたほうが良かったと思う時が必ず来ますし、わたし以外の連中はそういう言葉使い、もっと嫌い。それにわたし程人間出来てませんからね、あなたが不幸な目に合うのは、まったく本意じゃなくてよ」
「あなたがわたしの命運の鍵を握っているというのなら、そしてわたしの身を多少なりとも案じて下さっているのなら、その近い将来についての質問の一つや二つ、答えてくれても良いのではないかしら。あと、あなたに『コニ』と呼ばれる筋合いはないわ。愛称は近しい人間にのみ許されているものじゃないかしら。わたしには、コンスタンス・ド=ルーンという列記とした名前があるの」
「いいジャン、コニで。長ぇし」と、全く意に介す様子のない女。ついでに丁寧振った口調もかなぐり捨てて、いかにも面倒臭そうな調子になる。
靴の底が座席を擦る音から察するに、行儀悪く片膝を立てたらしい。次いで、シュッとマッチを千切ったと思うと、香料の付いた煙草の臭いが辺りに充満し始めた。「ま、でもあなたの云う事にも一理あるわね。じゃあ特別に、一つだけ教えてあげる。あなたがこれから向かうところ――わたし達の住処でもあるのだけれど、我々はそこを、敬意を込めて、時に自嘲的にこう呼ぶの――『楽園』ってね」
「フン、バカバカしい」私は苛立ちも隠さずに吐き捨てた。「こんな捕虜のような扱いで入場する楽園だなんて、聴いたこともないわ。これってどちらかと云えば、断頭台への行進とかその類のものでしょう」
「ノーノーノー。決してそうばかりにしも非ず」
この女の軽妙洒脱にして人をおちょくったかのような否定の仕方に、記憶にある彼女の顔立ちを重ね合わせると、なんとも云い難い不快感に襲われる。
ディアンサ・ジャストと名乗るこの女は、母とは生き別れ、一年ほど前に政府の高官であった父すらも国家反逆の罪で投獄されてしまうという苦難を味わった私が、ようやく落ち着けた先の聖イグナシア修道院にズカズカと乗り込んできて、いきなり院長の鼻先に寄宿学校への入学案内状を突き付けた張本人だった。疑うことを知らぬ、穢れなき魂の修道院長は気付かなかったが、私は彼女の慇懃な物腰の裏に隠された得も知れぬ何かを見逃すわけにはいかなかった。その『何か』がなんだったのかは、未だ定かではない。彼女のいかにもな寄宿学校の教育者といった大人しくも上品な服装と、袖口から覗く不釣り合いなほどゴテゴテとしたブレスレット。柔和な笑みを浮かべつつも、決して翳る事のない鋭く冷徹そうな眼光。高価な香水に紛れた、微かな、けれど歴然たる独特のフレーバーの煙草の匂い。いずれもが、完璧すぎる全寮制学校の『ディアンサ・ジャスト先生』像に、リアリズムを付加させるために意図的に施された綻びのように感じられた。
「楽園? 天国? どっちでもいいけどさ、そこへ到る道程って、必ずしも一本ではないわけ。人間さ、死んだら一度はみんな平等に審判に掛けられ、オマエはいいヤツだからアッチで天国行き、オマエは悪い事ばっかしたからコッチで地獄送り、みたいになってさ。けれど、一度地獄送りになったからって、未来永劫地獄の業火で焼かれ続けるってわけでもなくって、地獄で然るべき罰を受けた後、煉獄で罪を洗い流し、回り道をして最後に天国へ行き着くモンなの。そりゃ、確かに今のコニちゃんは、断頭台へ向かう死刑囚そのものな見た目で、地獄行き待ったなしな感じだけどさ。最終的な目的地は楽園で間違いないわけ。それに地獄も天国も表裏一体ってところあるしねえ。要は如何に振舞うか、受け止めるかの問題よ」
「で、わたしは問答無用で一度は地獄に叩き落される運命なのね。結構なことだわ」
「だって。コニちゃんのお父さん、犯罪者なんでしょ」
何の躊躇もなくそう云い切る彼女に、私は二の句が継げず、また怒りも悲しみも呆れすらも浮かんでは来なかった。ただただ、この幌馬車の中で熱気と臭気と戦うという拷問の責め苦に、身を任せる他になかった。
不意に、水筒から栓を抜く音がして、ディアンサが水をゴクゴクと美味そうに飲む様子が聴こえてきた。
「水」
「ん?」
「水、あるの?」
「長旅ですもの。水ぐらい持参するわよ」
「わたしの分は、あるのかしら」
「そりゃあ当然――って、ありゃま、わたしのは当の昔に空になっちゃって、これコニちゃんの分だったわ。まさか、こんなクソ暑いとは思ってなかったんだもの、仕方ないわね」
「それを、よこしなさい」
「ん?」
ディアンサは、面白がるような口調で繰り返した。
「よこしなさい?」
「いいから、わたしの分の水を早くよこ――下さい」
「ん? 聴こえなかった」
「ふざけてるとぶつわよ」
苛立ちも露に冷たく云い放つ私に、ディアンサは溜息を吐いて、
「あまり立場を理解しているとは――まあいっか。そう云う反応も新鮮で嫌いじゃないし。口移しでいい?」
「手渡しで。ぶつわよ」
「暴力は何も産まないわ」
いきなり何の前触れもなく目隠しをして、幌馬車に押し込んでおいて、どの口が云うか、と思いつつも、いざ水筒を握らされると私は無我夢中にそれを飲み干した。砂漠のように渇き切っていた喉に、ようやく潤いが齎された。
空になった水筒をディアンサの方に差し出すと、彼女は頓狂な叫び声を上げる。
「ああーっ。全部飲んじゃった!」
「当たり前でしょ、カラカラで死にそうだったんだもの。そもそも、あれはわたしの分の水だったわけだし、何の問題もないでしょ」
「未だ嘗て、こんな反抗的な娘の案内を引き受けたことはなかったわ。次に誰かが渇き死にそうだったら、それこそ唾液の交換でもする他になくってよ。まあいいわ、もう到着までそんなに掛からないし。ご覧なさい、見えてきたわよ、『楽園』が! ……あっ、失礼、見られないんだった」
「ぶつわよ」
それを聞いたディアンサは、愉快そうに喉を鳴らし、ついでに自分の煙にむせた。
幌馬車はやがて、ディアンサが人気のない林道に入ってから開け放した後部から射し込む日光から察するに森を抜け、なだらかな斜面を登り始めた。恐らく丘で、先程目的地が見えてきたと云ったということは、その天辺にでも『楽園』はあるのだろう。
そこが本当の楽園かどうかはともかく、この鬱陶しい格好で、鬱陶しい女と、鬱陶しい幌馬車の中でじっとしていることから解放されるとしたら、それだけで幾分とマシな環境なのではないか、と思い始めていた。
丘を登り切り、平らな石畳の道に差し掛かり、いよいよ旅路は終焉を迎えようとしていた。御者が手綱を弾き、馬が嘶きを上げ、歩みを止めたところで、ディアンサは立ち上がり、ひらりと馬車の外へ飛び降りた。
すると、もう一つ、別の女の声が聴こえてきた。
「ディア、ご苦労さま。道中、何も起きませんでしたか? まさか、ここまで気温が高くなるとは予想だにしていなかったのだけれど――無事、帰還できたようで何よりです」
「これはこれは、メアリ姉さま。このディア、新たなメンバー、コンスタンス・ド=ルーン様を伴って、無事〈エンピリアン〉に到着いたしました」
「あなた、任務だから仕方はないとは云え、余り洒落た出で立ちではありませんわね。なんだか臭うし。学園長代理にお目に掛かる前に、着替えてらっしゃいな。あ、その前に、コンスタンスさんの目隠しを解いてさしあげて」
私は、ディアの細腕に掴まれて、ゆっくりと久方ぶりの不動の大地を踏みしめた。ようやく死臭から解放された鼻に、草木の香りが鮮烈だった。
「綺麗な顔、ね」
そうポツリと云う『メアリ姉さま』。
「動くなよ」
ディアの言葉に続き、スルスルと解かれる私の縛め。
いきなり真夏の陽光に晒されて、私は堪らずに瞬いた。
そして、やっとのことで戻ってきた視力で最初に捉えたのは、二人の女――一人は、地味な装いをだらしなく胸元まで開け、書類で風を仰いでいるディアンサ。そして、もう一人はメアリと呼ばれた、金髪をしっかりと後頭部で編み込んで団子にしている、如何にも几帳面そうな女だった。この熱気にも拘らず、繊細な刺繍を施された濃紺の詰襟服をキッチリと纏い、汗をかく気配すらない。
「ようこそ、コンスタンス・ド=ルーン様。ようこそ、〈至高天宮女学園〉へ。ここまでの道中、数々のご不便とご無礼がありましたことを、心よりお詫び申し上げます。わたくしは当学園の監督生を務めさせて頂いている、メアリ・スターリングと申します。メアリとお呼び下さい」
「コンスタンス・ド=ルーンです。どうも」
私は素気なくそう返し、立ち眩みを起こしそうな朦朧とした意識で、私が行き着いた先、ディアンサ曰くの楽園、メアリ曰くのエンピリアンを見上げた。
そこはどうやら古い大規模な修道院を改築した建物のようで、無駄に高く張り巡らされた塀が外界からの視認を一切拒んでいる。メアリが出て来た分厚い門扉の隙間から、ようやく聖堂、教会、回廊などが顔を覗かせている。
しかし、そこは純然たる教会組織と云うにはあまりにも世俗的な面が見え隠れしていて、例えば無駄に手入れの行き届いた花壇があちらこちらにあり、回廊の中央にはテラス席があった。イバラ、蔓バラ、紅いの白いの黄色いの、棘有り棘無し含めて大量の薔薇の花が咲き乱れている姿は、まさに天上の光景と云えた。
「付いてきてください。学園長代理のお部屋までご案内いたします」
メアリに云われるが儘、私は後に続いた。
ディアンサは門を潜ったところで着替えをしてくると別れを告げ、そして辺りを見回した私は、医務棟、寄宿寮、洗い場等、そこが概ね一般的な修道院の建築様式に沿っていることを見て取った。けれど、敷地内のかしこにポツリポツリといる女達の装いは、空色、紫、オレンジとどれも色鮮やかで、やはり敬虔とは程遠い何かを感じざるを得なかった。
石灰岩の建築群の中央にあるのが聖堂で、色彩を押さえつつも荘厳なフォルムのステンドグラスが嵌め込まれている。その大時計の文字盤のような窓の下に、薄暗い内部への道は開かれている。
入口の間には、聖水盤があり、そこにはあろうことか、煙草の吸い殻が放り込まれていた。そこを抜けると、そこには高い天井、途轍もなく縦長のアーチを描く身廊が続く。側面にも無数のステンドグラスが並んでいたが、多くは長年の放置によって精細さに欠け、幾つかは割れてさえいた。それは、神に奉仕するという本来の役割を、この建物が放棄して久しいという事実を如実に物語っていた。
一対の燭台に挟まれた聖障の柵の向こう側には、大抵の教会の例に違わず、主祭壇が設けてある。大理石製の荘厳且つ優美な意匠。教会建築の中核にして、典礼の基盤となる大切な場所だ。
私はそこで、奇跡を見た。
ぼうっと白金色に光る人型の何かが、内陣の薄闇、地面から少し離れたところに浮かび上がっている。
それは夢か幻か、はたまたこの背徳的な神の廃屋に舞い降りし、ひとひらの聖霊か。
私は堪らず眼を瞬いていると、前を歩くメアリの眼にもその姿は映っているらしく、それが決して私の空想の産物ではないことを理解した。
歩みを進めると、その全貌は露になり、それが聖霊や天使の類では無く、頭髪から衣服、靴の先に到るまで、一切が白尽くめの女性の姿であることを知った。限りなく色白の白磁のような肌を持つ彼女は、あろうことか神聖にして侵すべからずの主祭壇に腰を掛けていた。だから、私は彼女が宙に浮かんでいると錯覚したのだ。
メアリは小声で云った。「ビーチェ――ビーチェ・ヴァージルさんです」そして、静かに聖堂にこだまする落ち着いた声を張り上げた。「帰っていらしていたのですか、ビーチェさん」
ビーチェと呼ばれた女は、少女と云っても差し支えないような小柄な女性で、あどけなく無垢そうな顔立ちは、その衣服と相俟って神の仔羊を連想させた。けれど、その表情は老獪で、取り留めがない。冷淡に物事を客観視しながらもほくそ笑むその姿は、生真面目そうなメアリよりも、どちらかと云えばディアに近い人種であるということを物語っていた。
「帰っていますよ、メアリ。ディアが、疫病で全滅した豚小屋のような臭いを撒き散らしながら戻ってくる、ほんの五分ほど前に。あたくし、堂々と正面から入ってよ。あなた、気が付かなくて?」
その形の良い唇から発せられたのは、意外なことに老婆のような低く皺枯れた声だった。まるで身体の中に第三者が潜んでいて、その口を借りて話しているかのような、云いようのない不安を覚える。
メアリにとっては、それすらも慣れ親しんだもののようで、平静な様子を崩すことなく続けた。「一向に」
ビーチェは、モノクロームの瞳を大きく見開いて、口の端を挑発的に歪めた。「これは、千里眼のメアリとして、見逃すものは一切ないとして知れ渡っているあなたとしては、名折れなのではないかしら? あたくしという存在が仮にイレギュラーだとしても、常に最悪の想定外を当然と取れ、と云うあたくし達のモットーに反する事実ではなくて?」
「お言葉ですが、ビーチェさん」メアリは冷ややかに返した。「わたくしの眼力が及ぶは恒星天の支配下のみ。即ち、七つの遊星の天球、そして十二宮の黄道全域の監視が職務なのです。それより高次はあなたの管轄。わたくしより高位のあなたの行動を見張ることなど、どうしてできましょうか」
「そのレベルの敵がいないとも限るまい」
「その時は、謹んであなたに丸投げいたしますよ。良き好敵手として」
「それはいい。実に結構な、退屈凌ぎの気晴らしになりそうじゃありませんか」
派手に大仰に笑うビーチェ。
私はこの二人の会話は半分ほども理解は出来なかったが、一つ云えるのはこのビーチェと云う女は相当な曲者で、完全無欠そうなメアリの唯一御せぬ相手だということだった。
一頻り笑い終えると、ビーチェは煙管を口の端にぶら下げ、祭壇から身を乗り出して私の方を覗きこんだ。「面白そうと云えば、こちらは?」
「先程、ディアに連れられてこちらに到着したばかりの、コンスタンス・ド=ルーン様です。長旅でお疲れですが、今から学園長代理にひとまずのご挨拶を、とご案内しているところです」
「知っているわ」
ビーチェは相槌のようにそう云い放つと、マジマジと私の顔を見つめた。そのモノクロームの瞳孔が、写真機のフォーカスのように膨張したり縮小したりするのを見て、私は思わず顔を背けた。
「うふふ、あたくしも随分な嫌われようですわね」
「いえ、決して、そんなことは」
「でしたら、もっと顔をよくお見せになって」
そう云い終えるや否や、ビーチェの純白のエナメル靴が大理石の床を打ち、私は彼女が随分と小柄な女性であることを知った。私は事実、女性としては結構な上背なのだが、立って並ぶと丁度胸の位置に彼女の顔があった。
ビーチェは、私の顎にしなやかな小さな指を当て、まじまじと吟味するように、ありとあらゆる角度から私を覗き込んだ。それは、まるで巣の周りをぐるぐると這い回る蛇のような仕草だった。
ようやく納得の行った様子で、彼女は私の顔から手を放すと、ぽつりとどこかで聞いた台詞を吐いた。「綺麗な顔をしているわね」
暫し、ぎこちない沈黙が辺りを支配した。静寂を破ったのはメアリの空咳だった。
彼女は、事務的且つ有無を云わさぬ断定的な口調で云った。「ビーチェさん。学園長代理がお待ちしておりますので、そろそろ宜しいでしょうか」
「メアリは眉目秀麗、文武両道と非の打ちどころがないのですけれど、愛想がなく頑固者なのが玉に瑕ですわね。『瑕のないのが玉に瑕、氷のようにツンとして、美しいほどに表情がない』」
「それは賛辞として受け取って宜しいのでしょうか」
「勿論。こんな詩の一節が適用できる生身の人間なんて、この世の中広しと云えど、そうそう居るものではないでしょう?」
ビーチェはくるりと踵を返すと、淑女らしからぬ仕草で、私とメアリが元来た道を辿りながら、鷹揚に後ろ手を振った。「そろそろ邪魔者は引っ込むとしますかね。コンスタンス――またお会いしましょう。そしてようこそ〈エンピリアン〉へ。地獄の掃き溜め、天上の花園、そして永遠の安息の地へ」
それは実に両極的な隠喩の並置だったが、私には漠然と、その言葉の真実性を感じられた。
ここは、計算の行き届いた薔薇園といい、その中に悠然と聳え立つ色褪せた廃墟といい、まさに楽園、見目麗しい乙女の園である。
けれど、同時にその住人たちは、ディアやビーチェから察せられるに、一癖も二癖もある、食えぬ女たちばかりなのであろう。この二人は、特に美貌も相俟って、悪魔的とさえ云えた。
最後の安息云々に関してははっきりとしたことは判らない。けれど、この場所の形容は、誰の言葉を借りても死後の世界のそれに一致する。ビーチェは、恐らくそれを自嘲的に指しているのだろう。ビーチェ・ヴァージルは、真実を直視しておきながら、辺りに疑念の霧を振り撒いて喜ぶタイプの女性だった。
ビーチェが軽い足取りで表へ去って行くのを見届けると、メアリが静かに促した。「参りましょうか」
どうやら向かう先は聖堂の右手にあるらしく、誘われるが儘にメアリの後を続くと、丁度今の今まで気が付かなかった、身廊の中天高く、バルコニーのように迫り出した説教壇の上にある、鮮やかな黄色の装束が目に留まった。
長い黒髪を、優雅なロールを以って纏め上げているその女は、遠目にもすぐそれと判る、敵対的な警戒心を剥き出しにしていた。
私はその女について尋ねようと口を開くと、その瞬間、メアリがキッパリとした口調で、振り向きもせずに遮った。「ヴェス――ヴェスペラ・ラヴジョイさんです。後々ゆっくりとご紹介します」
目指す『学園長代理』の居所は、内陣に隣接した回廊の裏手、参事会会議場と思わしき場所にあった。独立した円形のドームであるそれは、聖堂の威容と寄宿寮の営みを感じさせる建物からは、ほんの数メートルばかり外れている。
メアリが大きなマホガニー製の扉を叩くと、命令的な声が返ってきた。「入れ」
ドアの向こうには、壁一面に背の高い本棚が敷き詰められた、書架のように改築された執務室があった。
その中央、執政官のそれを思わせるテーブルの向こうに、地味な女性官僚的なスーツを着崩した、明るい茶色の髪と派手な孔雀石のブレスレットの悪趣味さが目立つ、鋭角的な目鼻立ちの女が座っていた。
女はその威圧的な形相とは裏腹に、実に磊落そうな口振りで話し始めた。しかし、その表情は微動だにしない。
「グッドアフタヌーン! ようこそ、お待ちしておりました、ミス・コンスタンス・ド=ルーン。ウェルカム、天上の楽園、ウェルカム、智の宮殿へ。神の智慧は純真にして平和にして寛容。故に温順、そして慈悲深く実りある。この神聖なる学び舎より智慧を授かりし神の申し子たちは、総てに於いて平等。会得するは絶対的な、一切のまやかしのない真実」そこで初めて、彼女は黒縁眼鏡越しに見据えるような眼差しはそのままに、ニッタリと歯を大きく見せて笑った。
「戸惑っておられる。無理もない! そんな家畜のような臭いをさせて、遠路遥々、この炎天下の中をやってこられたのだから。けれど案ずるは無用、その靄を晴らさんがため、あなたはここへ導かれた! 私は、学園長代理として、あなたを歓迎する! ウェルカム、〈エンピリアン女学園〉へ!」
随分と芝居がかった様子に、私は軽く礼をしながらも、戸惑いを隠せずにいた。
この謎かけのような学園長代理の語り口に、私はすがる気持ちでメアリの方を見た。
メアリは咳き一つ挟み、相も変わらぬ冷静そのものの口調で補足した。
「ご紹介しましょう。当学園の学園長代理――とは申しましても、正規の学園長は決してこちらにいらっしゃることはないので、彼女こそが実質的な主導権を握っているのですが――サマンサ・ジャスト様です」
ジャスト?
聞き覚えのある姓に、系統こそ違えど人をおちょくったかのようなこの態度。誰かを連想させると思えば――
「よう、姉貴! このディアンサ・ジャスト、コニ様護衛の任を見事全うさせ、浮世の垢を洗い清め、ただいまご報告に上がりました!」
乱暴そのものの動作で、けたたましくドアを開け放ち乗り込んできたのは、行水を終えた様子で小ざっぱりとした様子のディアだった。シャツのボタンを胸の下まで外し、整髪剤も落としたのかアシンメトリのブルネットの髪が、たてがみのように掻き上げられている。エレガントなステッチを施されていながらもラフなデザインの緑色のショートパンツを履き、その下から引き締まった脚が、惜しげもなく晒されている。ショートブーツはズボンと同系統のデザイン。厳めしい足下と調和を取るかのように、これまた真緑色の軍人的なコートを肩に羽織っている。紙巻を口に咥え、ギラギラとした鋭い眼差しは面前の誰かに瓜二つだった。
「『学園長代理』だ、愚妹よ! 尤も、『学園長』と呼ばれても悪い気はせんが。つい自己紹介が遅れてすまない、ミス・ド=ルーン。私はサム――サマンサ・ジャスト。で、こちらの粗忽者が、あなたもご存じ、ディア――ディアンサ・ジャスト。私の最愛の妹にして、この学び舎に於ける無垢なる神の仔羊の一員だ」
一貫してふざけた調子の学園長代理に、私は知らず知らずの内に険しい表情になっていたらしい。サムは、妹そっくりの人を小馬鹿にするようなおどけた動作で、上目使いに云った。「おんやあ? 綺麗な顔を怖ぁくしちゃって、どうしたのぉ? まさか、ここがお気に召さない?」
私は嘆息して渋々答えた。「お気に召す召さないの問題じゃありませんわ。そもそも、わたしはあなたの妹に、突然押し掛けられて、引っ越しを迫られ、院長のご判断だからと仕方なしに誘いに乗って、と思ったら、いきなり客馬車から嫌ぁな臭いのする車に押し込められて、目隠しをされ基本的人権を蹂躙され、うだるような暑さとあなたの愚妹の愚劣なお喋りにほとほとうんざりとさせられたわ。そして挙句の果てにようやく着いたと思ったら、その愚妹に顔のそっくりなお姉さまが登場して、まともな説明も謝罪もなしに、意味の分からないふざけた態度で接してくるんですもの。ハッキリ云って――ムカつきます」
我ながら、見事なまでに自分の置かれている状況を無視した啖呵の切り様である。
一瞬辺りが静まり返り、凍てついたような雰囲気に包まれた。
けれど、それもほんの束の間。
次の瞬間には、道化を気取った姉妹のやかましい大笑いによって掻き消されてしまった。「ブワッハッハ、こりゃあ傑作だ! 愚妹よ、聴いたか、『ムカつきます』だって!」
「聴いたぜ、姉貴! 一本取られたぜ! キャッハッハ!」
余りもの息の合った人のおちょくり振りに、私は二の句を継げずにいると、一頻り笑い終えて満足した様子のサムが、ギロリと鋭い一瞥をくれながら云った。
「そう怖い顔をしなさんな、お嬢さん。私もディアも、久方ぶりの飛び切り上物のご来客で、舞い上がってるだけなんだから。他意はないんだ、大目に見ておくれ。けれど、あなたのご不満も最もだ、たしかに何の説明もなく、この仕打ちはあんまりですねェ。そうだ! 今晩は、全員を食堂に集めて豪勢な歓迎会と洒落こもうじゃないか! そうすれば、他の家族たちに顔合わせも出来るし、その時にわたしは総てを説明する事を約束しましょう。そうと決まれば、メアリ! 我が愛しき娘たちと、哀れな〈シスターズ〉にその事を伝えておくれ! 善は急げ、今すぐだ。そして、全員強制出席、言い訳は許さん!」
あまりもの急展開に、相変わらず言葉を失っている私だったが、メアリは冷静に切り返す。「お言葉ですが、学園長代理。全員は無理です。マースさんは只今任務に出ておられますし、二日後まで戻ってらっしゃいません。クロイさんも、物資調達の為に遠出されております」
「あっそ。じゃあ残りの全部は、首に縄を付けてでも引き摺り出しておくれ。そして、ディア。おまえは、コニ殿を寮の空いている部屋にお通しして、ついでに洗い場へもご案内してさしあげろ。〈シスター〉も一人宛がうように」
色々と問いただしたいことは山ほどあったが、私はやっとのことで一つ意見を捻り出した。「あの、そのコニと云う名前は……」
「勿論、あなたのことですよ! ここでは、神の子同士、親しみを込めて愛称で呼ぶ慣わしなのです。毎回コンスタンス、コンスタンスと呼ぶのもまどろっこしいでしょう? だから私はサム。ディアンサはディア。メアリやクロイのように元が短すぎる名前はそのままだが――コンスタンスはコニ! これほど略称に適した名前があるかしら!」
私は余りもの勢いに、返す言葉も失い、強引なディアと我関せずな振舞のメアリに付き添われ、ただその場を退散する他になかった。
一つだけ確実なことは、私、コンスタンス・ド=ルーンはその日、全ての過去の生活を闇に葬ることを強いられると共に、親に与えられた正式な名前をも失ったということだった。
コンスタンス・ド=ルーンの花は落ち、その果実から種子が、そしてまた新しい花が咲くように、コニの果実は刻々と実を結ぼうとしていた。
* * *
メアリの淑女然とした丁寧な案内とは打って変わって、粗雑そのもののディアの先導によって辿り着いたのは、回廊脇の寄宿寮の一室で、中身は良くも悪くもごく普通の修道女の寝泊りする部屋だった。質素且つ簡略化された調度品。小さな窓から陽光を多く取り入れる為、隅切りがなされている。長らく空き部屋だったと聞かされていたが、掃除が行き届いており、その形跡は欠片もなかった。
ディアは、イライラとした様子で早口に捲し立てるように云った。それも偏に、部屋の前で頼んでも聞く気配のない彼女の手から、煙草をもぎ取ってやったせいだった。
「ここがアンタの部屋。角部屋だからね、隣室はハームだけだ。洗い場は一応交代制。まあだけど、メアリ以外は誰もそんなローテーション守っちゃいないから、テキトーに空いてるときを見計らって入っちゃえ。着替えはそうだね――近々ハームが作ってくれるとは思うけど、ひとまずは適当な修道女服を〈シスター〉に用意してもらっとけ」
「さっきも訊こうと思ってたんだけど、〈シスター〉って何? 誰のこと?」
ディアはいとも面倒臭そうに頭を掻きむしった。「あああ、メンドくせェなあ。そういうくだんねェことはメアリ辺りに任せたいんだけど。まあ、論より証拠、ほれ」
そう云って、彼女がパンパンと手を叩くと、戸口の所にあっという間に一人の少女が現れた。その迅速振りに、地面から生え出たのかと錯覚するほどだった。
「〈修道女〉(シスター)。神の従順なるしもべにして、わたしらの必要欠くべからず手足だ。わたしらは各々、最低一人はコレらを就けていて、身の回りの世話や雑事をさせている」
修道院らしからぬ、身分の格差ある封建社会的制度ができているらしい。
私にあてがわれることになった少女は、メアリのように色素の薄い髪をひっつめ、丈の長いボロを着ていた。その顔立ちは年相応に美しく、けれどその眼は無機質で、透明の硝子玉のようだった。精気と云うものが全く無い。
私は膝を曲げて、相手と同じ目線に立って挨拶した。「宜しく。わたしはコンスタ――いや、コニ。あなた、名前は?」
「ねェよ」
ポツリとした呟きに遮られ、私はディアの方を向くと、彼女は眉根に皺を寄せて続けた。「名前なんてねェって。コレに限らず、ここの〈修道女〉は誰一人として名前なんてない」
「コレ、コレって。あなたねえ……」私は、不快感も露に云った。「彼女はモノじゃないのよ? あなたのお姉さまも云っていた、『神の申し子たちは総てに於いて平等』という理念は、どこへ行ってしまったの?」
「正確には、『この神聖なる学び舎より智慧を授かりし神の申し子たちは』、だ」ディアは言下に云い放った。「コレらは、この学び舎の生徒ではない。智恵を授かっていないから、この建前にすらも該当しないのさ」
「なんてことを云うの、あなたって人は……彼女たちだって、列記とした人間――」
「言葉を慎め、コニ!」
突然怒声を張り上げるディアに、私は思わず身を竦めた。
ディアは私に詰め寄り、矢尻を思わせる、鋭く射抜くような眼差しで私を至近距離から見上げて云った。「何も判っていないのはオマエの方だ――オマエはコイツらが、知恵もなく、心もない、人でなければ獣ですらない『モノ』だという真実を知らない。なぜなら、それを学ぶ機会すら未だに与えられていないからだ! 減らず口を叩き、意見を戦わせるのは、その後でも構わんだろう? 違うか?」
私は彼女のあまりもの態度の変化に、返す言葉も失っていた。
なるほど、その背後にある思想の是非はどうであれ、彼女の云い分も理解できなくはない。
私は今日、ここへやってきたばかりの部外者で、説明会を兼ねた晩餐もまだで、ディアの云う通り、本当に〈エンピリアン〉のことを何一つ知らないでいる。要は、私はまだ、この場でディアと対等に議論を交わせる立場にない、と彼女は叱責したのだ。この学び舎に於いて、智慧を授けられた申し子たちは平等に振舞う権利がある。けれど、私はまだ何も学んでいない。
「違いません。今は、まだ」
渋々と捻り出した私の言葉に、ディアは満足した様子で、むしろ当初より上機嫌に云った。
「判れば宜しい」
私は、どさくさに紛れながら、煙草に火を点けようとするディアの手を押し留めて、「一つ訊いてもいいかしら」
「ん?」
「この子たち――〈修道女〉は、生徒一人一人に個別の子が割り当てられるのよね」
「最低一つは、ね。ただそれ以上就けようとすると、別途費用が掛かるから、コレらの管理を請け負っているクロイと、専門上助手が余分に要るエリ以外は、全員一つずつだ」
「じゃあ、この子に関する一切の権利は、わたしの物、と云う事かしら」
「あるラインまでは。ただ、コレらの資産的価値は学園本体にある。つまり、無駄にいたぶったり、破損させるようなことがあったりした場合は、厳しく罰せられることになるな。また、命令は直接的または間接的に学園の利益になるもののみ許される。要は、身の回りの世話をさせて、わたし等のコンディションを保ったり、余分な手間を省き物事をスムーズに進ませたりする分には構わない。もし腹いせに鞭で打ちたいと思っていたんだったら、お生憎様。止めといたほうがいい」
「そんなことする訳ないでしょ、ぶつわよ――じゃあ、わたしがこの子に名前を付けてあげたり、人としてお話しする分には構わないのよね」
「なぜにそんなことを?」
ディアは驚いたように眉を高々と上げて、「まあ、おまえの気がそれで済んで、暴力的衝動が治まるんだったら、それは間接的に学園の利益だし、いかなる損失も被る事はないから、お好きにどうぞ、としか云い様がないな。物好きもいたもんだ」
「物好きだからよ」私は快活にそう云って、少女の肩をそっと抱き寄せた。仄かに温かく、ちゃんと人の温もりがある。
ディアは頭を掻きながら、「まあいいや。兎も角、これで大体は説明した。わたしは、退散させてもらうよ。まだ少し仕事が残ってるんだ。あ、そうだ、おまえ(少女に向かって)、あとでこいつが行水している間に着替えを持って行ってやってくれ。たぶん、一番大きいやつで丁度だろう――じゃ、夕食で。十九時に食堂だ」
そう云い残して、パッと肩に羽織ったコートの裾をはためかせながら去って行くディアを見送ると、私は変わらず無表情な、物言わぬ〈修道女〉の方へ向き直った。「名前はないの?」
無言で微動だにしない少女。その姿はまるで人形のようだった。
「そうね、じゃあ……」
私は少し考えながら、辺りを見回した。
すると、棚の上に立て掛けられた、部屋唯一の装飾品――一枚の小さな絵が目に入った。
それは羊皮紙の上に描かれた素描で、大小二つの円が並んでいた。
小さい方には、まるでタマネギの断面図のように沢山の円が連続して描かれており、その隙間にインクの染みのような点が一つずつ、等間隔に入っている。
大きい方には、中に一組の男女が並んで立って、小さい円の方を眺めている姿が見える。私は、何故かその円を、漠然と闇夜にあって孤高の柔らかい光を放つ、満月のようだと思った。
同時に、男のように背の高い私と、小さな彼女。その姿に、〈エンピリアン〉という小さな天球を眺める男女の姿が重なった。
「決めた」私は云った。「あなたの名前。あなたは、今日からセレナ。月の女神の名よ。どう?」
相変わらず口は閉ざしたままだか、微かに頷いたように見て取れた。
私はニッコリと微笑んだ。
「そう。セレナ。云ってみて。セ・レ・ナ」
「セ……レ……ナ……」
空気が震える程度の微かな声で、けれど私はその柔らかい声音を聴き取った。
私が、そっと彼女の小さな体を抱き寄せると、胸の中では密やかだが確かに生命が脈打っている。
見なさい、ディア。彼女はちゃんと、五体のある人間としてここにある!
「そう、セレナ! 今日から宜しくね」
私がセレナと世紀的な邂逅を果たしている間、周りに対する注意力というものがおよそお留守になっていたのは否めない。
けれど、不意に室内から投げ掛けられた、聞き覚えのある皺枯れた老女のような声は、それを遥かに凌駕して突然のものだった。
「ふうん、セレナっていうの。善い名前じゃない」
私は心臓が飛び出るほど驚いて、その声のした方向に振り返ると、小さな部屋の書きもの机の前に、真っ白な洋服に身を包んだ女性が、肩肘を付いて優雅な笑みを浮かべて座っていた。
私は上ずった声で叫んだ。
「ビ、ビーチェさん! いつからそこに? というか、どうやって?」
「そりゃあ、ドアしかないでしょう? この窓、嵌め殺しですもの」
ドアの方を見ると、ディアが去り際にそうしたように、閉じられたままになっている。
彼女は音を消し気配を消し、戸を開け中に入り込み、また扉を元通り閉めて、私のほんの数歩先に回り込んでいたというのか。
「今度から、部屋に入ってくる時はちゃんとノックをして、もう少し気配と物音を察しやすく入って来てくださいよ。心臓が止まるかと思いましたわ」
「職業病かしら、無意識にこういう悪戯心が芽生えてしまうところがあるのよ。あたくしの悪い癖」
またしても繰り出された意味深な発言に、私が口を開こうとすると、遮るような絶妙のタイミングで、彼女はまるで誰に話すでもない調子で喋り始めた。
「それにしても、よくもまあこのちっぽけなペン画で、これが月を描いているものだと判りましたわね。実はこの寮の全寝室には、これと同じような絵が一つずつ飾られていて、それぞれに天文にちなんだ名が付けられていますの。こうした、象徴性たっぷりの、パッと見それとは判らないタッチでね。そして、それらの絵に付けられたタイトルが、そのままその部屋の名前となっています。ここは〈月天の間〉。尤も、こうした色塗りのされていないモノクロームの絵ですから、他の部屋はこれ以上に判りにくいですけれどね」
「直感というか、まぐれ当たりですわ。なんとなく、この絵のまぁるい感じが、満月を思い起こさせただけで」
「直感。いい理由ですわ。ここでのお勤めでも、それは大いに役立ち、また決して勉強に依る努力では得られないものですからね。大切になさい」
天体。
そのキーワードで、私は一時間ほど前に聖堂の中で交わされた会話を思い出していた。
「ひょっとしてそれが先程、主祭壇であなたとメアリさんが交わしてらした不思議なやり取りの答えなのですね。恒星天がどうの、七つの遊星がどうの、という」
「ん? ああ、あそこでさっき、あたくしがメアリをからかっていた時に、彼女が云った言葉のことね。記憶力も申し分ないようですわね。そしてまたしても大正解。〈エンピリアン〉の乙女たちには、それぞれ天体を冠した二つ名といいますか、コードネームがあるのです。尤も、古い聖典の原始的な天文知識を元にしていますから、今では馴染の薄いものもありますけれど。そして、それらは通された部屋、飾られた絵に描かれたモチーフと一致するのです。例えば、メアリは〈恒星天〉(ステレ=フィッセ)、ディアは〈木星天〉(ジョーヴェ)と云う風にね」
「あなたは?」
「あたくし? あたくしは、場所を持たない、心の中にだけあるような立ち位置ですわ。この箱庭の中で、最も近くて最も遠いところ。すばらしく速くて、あたくしと彼女たちの、どちらかが先に逃げてしまうような」
相変わらず胡乱な物言いばかりの彼女に、私は諦めにも似た感情を抱いて、苦笑した。
「判るような気がしますね」
「でしょ」彼女は微笑んだ。「月は時に満ち欠け、真っ黒な面を地表に投げ掛けてしまうの。あたくしは謂わば、あなたの艫を舳の位置へ回し、真の実――地表に優しい銀色の光を投げ掛ける満月の面に軸を導く、船頭のようなものかしら」
「頼りになる、大先輩といったところかしら」
「まあ当たらずしも遠からず。細かい面倒見やらお節介やらは、メアリの方が適任ですけれどね。あたくしには、どうも性に合わない」
「判るような気がします」
漠然としたやり取りの中で、一つだけ明白になったのは、この学園に於いて、監督生たるメアリよりも一層高位のヒエラルキーにあるのが彼女であるということだった。それは、何か困ったことがあって、二進も三進も行かなくなったら、自分に相談しろという怖ろしく遠回しな申し出であると、私は解釈した。
メアリにも威厳はあるが、それは飽くまで物質的な、表立ったものである。一方、ビーチェのその深淵な物腰は、精神の世界に及ぶ何かがあるように見える。
ビーチェは、席を立つと、冗談めかして鼻に手を当てながら云った。「何はともあれ、まずは洗い場へ行って、現世の垢を洗い流してらっしゃいな。ディアもそうだったけれど、あなたにはまだ不浄の臭いが染み付いているわ」
そうだった。
自分の衣服から発散される臭いに、鼻が慣れ切ってしまっていて気付かなかったが、私は未だにあの死体運搬用の地獄の幌馬車の臭気を、そっくりそのまま受け継いでいた。そうとは知らず、私はセレナに抱き付いたりしてしまっていた。
「あ、そうだ。これ以上クサいクサいと云われる前に、洗い落とさなきゃ。セレナ、着替えをお願いね」
そう云って、慌てて部屋から出ようとする私の背中に、ビーチェは、「最後に一つだけ。気を付けなさい、あなたの取る総ての行動に。そして学習なさい、過去の過ちを繰り返さないために」
私が振り向くと、ニッコリと意味深な笑みを浮かべながら、私の方をじっと眺めていた。けれど、その表情とは裏腹に、言葉は真剣で、本質に迫るものがあった。
「それだけです。お節介な大先輩のアドバイス。今日のところはこれまで」
私は一礼すると、傾き始めた陽の眩しい回廊へと出た。
* * *
セレナが用意してくれた着替えは、所謂ボロの修道服だったが、丈はぴったしだった。
人気のない洗い場で体を、髪を念入りに洗い、その後は部屋に直行して、ベッドに腰掛けてセレナと暫しの語らいをした。とはいっても、セレナは相変わらず無表情で、言葉も私の発言をオウム返しにする程度の反応しか示さなかった。ただ、私はその従順な姿勢に、僅かながら彼女との距離が縮まって行く様子を感じ、気丈には振舞っていたものの、やはりどこかで押し潰されそうだった孤独と不安感を和らげてもらっていた。
時計を見ると、晩餐開始時刻の十分前だった。
ほぼずっと、私が言葉を発し、セレナにポツリポツリと繰り返させているだけだったはずなのに、随分と時が経つのが速い。
「じゃあ、行って来るわね」
恐らく、ここでの他の学生たちの振舞を見ると、セレナは晩餐会の客人にはなりえないようだったから、無用なトラブルや不愉快さを回避するためにも、彼女にはその場で別れを云い、私はベッドから立った。
食堂は、予め聖堂と学園長室の間にある大扉だと教わっていたから、私はまっすぐそこへ向かう事が出来た。
食堂には、もう数人の色鮮やかな衣服の乙女たちが集っていた。
青、黄、緑、橙、紺。
知っている中で、まだ姿を現していないのは、純白の一張羅のビーチェと、その舞台衣装染みた群れの中で異彩を放っていた学園長代理のサム・ジャストだけだった。
大きな長方形の食卓の上には、既に修道院としては贅沢に過ぎる料理の皿が並んでいて、セレナと同じように虚ろな目をした、つぎはぎだらけの修道服を着た少女たちが支度をしていた。
私は一瞬、自分も手伝うべきかと迷ったが、ディアの笑顔で談笑しつつも監視するような視線と目が合い、渋々と思い留まった。
すると不意に、修道服の脇腹の辺りを引っ張られる感触を察し、私が振り向くと、そこには人懐こい顔をした、目が覚めんばかりの赤毛とブルーのテーラードジャケットの眩しい、まだほんの子供と云っても差し支えないような少女が私の服を抓んでいた。
「あなた、コニ?」甲高い、鈴の鳴るような声。「あたし、ハーム。〈水星天〉(メルクリオ)のハーム。本当はハーミア・アンブローズって云うんだけれど、みんなハームって呼ぶの」
余りにも他の面々とは違う、無邪気な口調に、私は戸惑いながらも返した。
「初めまして、ハーム。わたしはコニ。コンスタンス・ド=ルーンと云うちゃんとした名前があるんだけれど、学園長代理とディアに奪われたわ」
「あはは。あたしと一緒だ」
と、苦笑するハーム。
ふと、その名前をどこかで聞いた覚えがあり、私は質問した。「たしか、あなたは私のお隣さんで、衣装のことはあなたに訊けって、ディアが――」
「そうなの!」
ハームはパーッと顔を明るくして、「あたし、裁縫が得意で、学園長代理に頼まれて、みんなのお洋服も縫ってるんだ! 自分のも、ディアのも、メアリのも、みーんなっ!」
「あら、そうだったの? とても上手で素敵じゃない。デザインも全部自分で?」
「うん。ここに連れて来られる前は、世界一のデザイナーになりたくって、ずっと色々考えてたの。で、そのスケッチを学園長代理に見せたら、『そりゃあ丁度いい。ここの辛気臭ェカビが生えたようなボロ着にはほとほとうんざりしていたんだ。資金は全額持つから、全員分作れ。今すぐだ!』って云われてね」
サム・ジャストの傲岸不遜な語り口を、中々上手に再現するハームに、私は思わず吹き出した。
「似てる似てる。じゃあ、是非、わたしのも作ってもらえるかしら」
「もちろん! 明日でも、あたしの部屋に遊びに来てよ。サイズとか測るから。あ、そうだ、コニ、好きな色って何?」
「好きな色? そうねえ――黒かしら」
「エエー、地味じゃない? もっとカラフルなの欲しくない?」
「そんな事云ったって、好きな色なんだから仕方ないじゃない。静かな、心を落ち着かせるような黒。いい色じゃない。と云う訳で、わたしの衣装は黒でお願いね。素敵なのを期待しているわ」
「エー、でも派手にしないと、学園長代理に怒られるんだよぉ……でも、いいチャレンジかも! 考えてみる!」
そう元気いっぱいに云うハームに、私は微笑ましくなった。ついでに云うと、あの学園長の衣服とまるで合わないアクセサリの趣味といい、彼女の悪趣味な派手好きとセンスの良さを両立させるのは、並大抵のことじゃないだろうな、と思い、ハームの苦労を察して苦笑した。
隅の大時計が午後七時を報せると共に、部屋になだれ込んできたのはサム・ジャストで、例によって大仰な大声を張り上げながらの登場だった。
「ハーイ、七時ジャストォー! ギリギリ滑り込みセーフゥ! 私より遅れてやってくる、悪い子はいねぇかぁ? ひぃ、ふぅ、みぃ――あれ、マースとクロイを引いても、一人足りねェ」
それを聞き、メアリが厳かに返す。「ビーチェさんが、まだお見えになっておりません」
「ああ、例によってまーたアイツか――まあいいや、どうせいつものことだから」
意外にも諦めの早い様子の学園長代理は、まっすぐ上座の隅っこの席に陣取って、
「さあ、みんなも座った座った! これより、我らが新しい家族の一員の仲間入りを祝って、盛大に飲み食いするぞー」
テーブルは長い辺に四人ずつ、短い方に一人ずつ、計十人座れる設計になっていた。内、出口に近い下座の三席を避けて、私等は各々好きな席に座った。私は、学園長代理からは一番遠い場所に、ハームを左手に、まだ話した事のないオレンジ色の装束のスラリとした女性――隻眼で、何やら奇妙な管が眼窩から手先へと伸びている――を向かいに着席した。
全員が腰を落ち着けるや否や、学園長代理はスプーンを手に取り、忙しなくグラスを叩いて静粛を促した。「と云う訳で、〈至高天宮女学院〉の麗しき乙女諸君。もうお気付きだとは思うが、今日から当学び舎に新しいメンバーが加入する。まずは、何はともあれ自己紹介だ。トップバッターは当然、新参者のきみだ!」
私は腹を決め、毅然と立ち上がった。「初めまして。コニです。本名はコンスタンス・ド=ルーンですが、どうやらここでそう名乗る事は許され――ませんわよね。本当に、誇張ではなく、右も左も、ここがどこでわたしが何をしにきたのかも判っていませんが、皆さん宜しくお願いします」
話し終え、着席しようとするや否や、学園長代理が、「はーくしゅー!」とか云って一人バチバチと大きく手を叩くものだから、どこか恥ずかしくなってしまった。パラパラと控えめな拍手が続き、けれど偶々目に留まった、私の斜め前の女性――黄色の装束の、あの聖堂内の説教壇の上から排他的な視線を投げ掛けていた黒髪の女性は、微動だにしなかった。
「じゃ、次、メアリ」
そう学園長代理に指名されて立ち上がったのは、相変わらず凛々しい佇まいを崩さない、学園長代理の向かって右にいたメアリだった。「メアリ、本名をメアリ・スターリング、肩書を〈恒星天〉(ステレ=フィッセ)と申します。監督生を務めさせて頂いており、担当教科は地政学と史学です。どうぞ宜しく」
「担当教科って? 彼女は生徒じゃないの?」
私が不思議に思い、隣のハームに小声で尋ねると、彼女もヒソヒソ声で返した。「ここでは、生徒もある分野のプロフェッショナルで、それぞれ専門科目を他の生徒に交代で教えることになってるの」
続いて起立したのは、ディアだった。「ディア。姓をジャスト、名をディアンサ。この騒々しい学園長代理殿の実の妹で、二つ名は〈木星天〉――〈ジョーヴェ〉。安全保障学の担当、まああとの事は大体ご存じの通り」
聴き慣れない科目名が飛び出ているが、ひとまずは一通りの自己紹介を済まさせてしまおうと思って口を噤むことにした。
私の向かいの、一繋ぎの道化師のようなオレンジ色の衣装を纏った、深緑色の一風変わった光沢を放つ髪を緩やかに纏め上げた、隻眼の女性が立った。そして初めて気が付いたが、彼女の右手もまた義手で、どうやら眼から生え出た管はその鉤爪のような手に、まるで蔦のように絡まっているらしい。
「〈太陽天〉(ソーレ)のエリアナ・ワイズ――エリとお呼び下さい。専門は軍事工学で、銃火器のメンテナンスも行っていますわ。普段は敷地内の南端の鍛冶場を改装した研究室に籠っています。ご用がございましたら、いつでも気兼ねなくいらしてくださいね」
軍事工学、銃火器。
それらの響きで、私は大体この学園の主旨が判ってきた。
恐らく、ここはただの学校ではなく、軍学校、士官学校の類なのであろう。だとしたら、ここまで少数で、服装からも傍目に軍事色が見られないのは、一体どういうわけなのだろうか。
「ヴェス」
学園長代理の次なる指名は、あの怖ろしく攻撃的で敵意を丸出しの、ウェストの引き締まった黄色のコートを着用した女で、猫のような瞳と大きな螺旋を描く黒髪が人目を惹く。「〈金星天〉(ヴェネーレ)のヴェスことヴェススペラ・ラヴジョイ。戦術学と射撃実習の担当。以上」
他の誰よりもつっけんどんで無愛想な自己紹介を終えると、彼女は私と眼を合わせようとすることなく座ってしまった。そのツンと取り澄ましながらも、相手を威嚇する事を忘れない姿は、私にあるものを思い出させた。伯母の屋敷にいた真っ白な毛並みの良い雌猫のミッシー。彼女は、自分のお気に入りの場所である窓際のクッションに近づく人間は、誰であろうと鋭い眼光を以って牽制し、邪魔者を追い払った後は至極当然という態度で寛ぎ始めるのだ。
私は、ヴェスが、尖った牙と爪を擁する気性の荒い雌であると分析し、肝に銘じた。
最後に残されたのは、私の隣席にして隣室、ヴェスとは対照的に自然な愛嬌を振り撒くハームだった。「ハーム――ハーミア・アンブローズ! 〈水星天〉ってことまではさっき直接云ったよね。通信と交渉術を教えてるよ」
全員の自己紹介が終わり、私は改めてその奇妙な色とりどりの乙女の集団を見回した。
人好きがして、一番友達になれそうなハームのスカイブルー。グロテスクな見た目をしているものの、柔和で包容力のある物腰のエリのオレンジ。粗野で、傲慢だけれどどこか一本筋は通っていて後腐れがないと思われる、ディアのグリーン。見るからに堅物で、律儀で礼儀正しいメアリのネイヴィー・ブルー。そして『イヤなヤツ』のヴェスのイエロー。
極彩色の使徒たちが、主君たるサマンサ・ジャストの周りに集い、それぞれ個性豊かな表情をしている。それは完結した社会の縮図であり、ミニチュアの天球儀と云えた。
ハームは再度私の裾をひっぱり、小声で補足した。「本来はあと三人いるんだけど、二人は今日いないの。だから欠席。マースは真っ赤なお洋服で、クロイは紫色だから、すぐ判ると思うよ。あと、ビーチェは……」
「知っているわよ。もう二度ばかり会ってるわ。あの人、脱走癖でもあるの?」
「んー、というか、ビーチェさんは勝手気ままな人かな。人が多いところは嫌いみたいだし。捜そうと思ったら絶対に見つからないし、逆に一番油断しきったところにヒョイと現れて驚かせる――」
「まさにその通りね」私は苦笑した。
扉の閉まった私室にこっそり偲び込んで笑みを漏らす悪趣味な彼女のことだ。相手の困る顔を見て楽しむという、無上の楽しみがあるのだろう。それは同時に、必要なときには決して見つからないという性質も意味する。馴れ合いのようなこの場、特に学園長代理の厳命とあれば、天邪鬼な彼女は九分九厘、この学園の中で、『最も近くて最も遠いところ』に風よりも疾く逃げ込み、性に合う孤高の優越感に浸って悪魔的な笑みを浮かべているに相違ない。意外と、天井裏にでも隠れているのではないのか。
その時、ふと嫌な視線を感じて振り向くと、ヴェスが三度私の顔をじっとねめつけている。やはり、最初に見かけたときから受け続けていた敵意の眼差しは、紛うことなく私個人に対してのものなのだろう。まあ、気持ちの良い物では断じてない。
両手を顔の前に組み、天上のシャンデリアの灯りに眼鏡を光らせていたサム・ジャストが、先程のふざけた調子とは打って変わって、厳かな声音で話し始めた。
「コニ。そろそろ、この学園の真の姿、本当の目的と云うものをお教えしようじゃないか。あなたも薄々察しての通り、ここは普通の女学園じゃない。ましてや、品行方正なうら若き少女たちが、いずれは嫁ぐ男の家族に媚を売るために裁縫や礼儀作法を身に付け、男子禁制の乙女の園で束の間のモラトリアムを満喫する場所などでは、断じてない。そんなモンはクソ食らえだし、暴力女にマニアに同性愛者――ここが花嫁学校だったら、こいつらは全員すぐさま放校処分ものの欠陥人種ばかりだ。けれど、見方を変えれば、彼女たちほどこの学園の理念に適った人材はいないとも云える。ここは、少女たちに生き抜く術、勝ち残る力、繁栄と安寧を約束する学び舎だ。彼女たちは強い。人並み外れて。だから彼女たちはここが適している。故に、ここしか居場所がないのだ。時に、コニ――」
彼女は眼鏡を外し、眉間を抓みながら云った。「おまえは、〈魔女〉を知っているか」
誰も微動だにしない、暫しの沈黙。
やがて、私は低い声で答えた。「単なるおとぎ話上の種族、と云うには知り過ぎています。けれど、現実の存在と認識するには、何も知らなさ過ぎます」
「〈魔女〉が寝物語の領域を脱した切っ掛けはなんだ」
「……父です」
無言で続きを促すサム。
私は意を決して答えた。「父は元々司法省の役人でした。ド=ルーン家は代々中堅どころの役職を担っていたのですが、ある日を境に――そう、わたし達が離れ離れになる二年ほど前だったかしら。その頃から、父はおかしくなりました。いや、別にわたしに対しては、常日頃と変わらない、不器用ながらも優しい父で有り続けたのですが、まず、公私問わず人付き合いというものがめっきり少なくなりました。風の噂で聞いたところによると、司法の表舞台からは遠ざかり、誰もよく知らない部署へと移された。わたしは母を早くに亡くしていますから、大抵夕食後は父と二人きりの時間でした。そんな折、彼はよく、ポツリポツリとこうした事を云うようになったのです――『〈魔女〉はこの国にいる。彼女たちこそ、この国の繁栄の立役者たちだ。そして、彼女らは決して生れながらにして〈魔女〉だった訳ではない』、と」
重々しい沈黙が一座を包んだ。
やがて口を開いたのは、エリだった。「奇しくも、ビーチェさんの云った通りになりましたね」
ディアがイライラとした調子で返す。「あいつが未だ嘗て間違っていたことがあったか? あの狸、いつもニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら、八卦見を仕掛けちゃほくそ笑んでるんだ。まったくクソ忌々しい――で? 親父殿は他に何か云っていたか? もっと具体的な何かを」
私は頭を振った。「いえ。勿論、私も不思議に思い幾度となく問い返したのですが、結局いつもはぐらかされるばかりで。そんなこんなの内に、父はある日突然逮捕、あっという間に父娘はバラバラですよ」
学園長代理は懐から葉巻を取り出して一本吸いつけると、一蒸かしするだけであっという間にそれを揉み消してしまった。「その疑問、そしてこの学園の成り立ちを説明するには、ある一つの事柄の講義をすれば良いということが判った。少々長くなるから、各々、好きにテーブルの上のご馳走を突っつきながら聴いてくれればいい――それは、この国そのものの物語なんだ」
小さなグラスに注がれた食前酒をグイと飲み干すと、サムは語り始めた。
〈至高天宮女学園〉、大食堂。
学園長代理サマンサ・ジャストの言の葉を引き鉄に、七色の装束の乙女たちは一体となり、宵闇に縁どられた歴史の門扉に吸い込まれていった。
それは私にとって、〈至高天宮女学園〉で授けられる最初の『智慧』であり、初めて詳らかになる『真実』だった。
* * *
ヘリア王国。
大陸の国々が国土を争い、その都度国境線を変え、時に国が亡び、時に新たに国家が誕生する歴史を築いている中、海峡と云う天然の城壁に護られたヘリアは、千年以上に渡り安定した繁栄の道を歩んでおり、近隣諸国の中でも随一の古豪として知られていた。
島国故に領土拡張をそうそう望めないヘリアは、海事に長けた船乗りたちであり、優れた調停官、商人たちでもあった。派手な政変はないが、堅実で敵に回しにくい国。歴史の表舞台に立つことは少ないが、地味ながらも軽んじられることのない、外交の上では一癖も二癖もある食えない国だった。
そんな中、百五十年ほど前から始まった産業革命は、ヘリアを歴史と情緒ある古の王国から、一気に黄金期へと導いた。元々造船技術に長けていた国である。植民地政策にもいち早く乗り出し、資源に恵まれた遠い未開の地をその傘下にいれることに成功した。輸入主体だった貿易が、売り手へと変わった瞬間である。
勿論、大陸諸国もただ手をこまねいていた訳ではない。以来一世紀に渡る、侵略者による統治と原住民との血みどろの争い、そして列強間での陣取り合戦が、幾度となく繰り返されてきた。蛮族と殉教者たちの血が、その新しい国土を潤し、莫大な富を築くに至ったと語られる。
ところが十数年前。
植民地に依る経済発展にもそろそろ翳りが見えてきたという頃、新たな火種が、全世界を再度産業競争に駆り立てる事となるものが、あろうことかヘリア本土から発見された。
〈火翔石〉(ヴェスタイト)である。
否、この鉱石は大昔よりヘリア本土特有のものとして、認知はされていた。ただ、材質的に脆すぎて建築資材としての価値はなく、見た目も地味なので宝飾品の需要もない、ただの特別だけど不必要な石ころ、としての認識しかなかった。けれどある時、石炭に代わる新たな蒸気機関のエネルギー源を求めて彷徨っていた工学者が、やけっぱちにもこの石を特殊な装置にて圧力を掛けてみたところ、すぐさまパッと燃え上がり、小さな欠片からは想像を絶するほどの膨大な熱量を放出した。当初、この報告書は学会にて懐疑的な冷笑を浴びせ掛けられたものの、現にその工学者が学会で実演をすると、頭の堅いお偉方の学者先生たちの顔色が変わった。以来、ヘリアでは驚異的な速度でその検証が進められ、僅か数年後には従来の工業観を根底から覆す最先端技術として、主に軍事工学の分野で受け入れられるようになった。
例えば、巨大な空飛ぶ戦艦。
例えば、精鋭部隊に於ける新兵器の動力源。
箒星のように突如としてヘリア史に現れた〈火翔石〉は、文字通りその燃えカスである白銀の粉塵が尾となって、再度一気に世界情勢の覇者となったヘリアの威光を彩る軌跡として、世界中の人々に畏怖と感謝の念を向けられるようになったのである。
現在、ヴェスタイト機関は未だ軍事と、国家機関と、一部の超富裕層のみの使用に限られている。しかし、〈火翔石〉の鉱床が尽きぬ限り、それらが近い将来、国民全員のものとなり、豊かな暮らしを約束するということは、まさに約束された成功と云えた。
ところが、ここで一つの思わぬ障碍が立ち塞がった。
今でこそ、ヘリアは島内に於ける唯一無二の国家だったが、旧くよりこの地にはもう一つ国があった。プルジア公国である。
元よりヘリアとは、文化、民族、宗教などの観点で相容れないところのあったプルジアは、半世紀以上も前の戦争に負けて以来、ヘリアの属国として連合王国の一員のポジションを受け入れざるを得なかった。ヘリアは外交的な権謀策略の類に慣れ親しんだ国だったから、ヘリアを宗主国とする限り、一定の自治権を認めるという折衷案で、戦後のゴタゴタを最小限に食い止めることに成功した。プルジアは経済的にも、産業的にも、資源的にもヘリアには劣ることがあった。だからこそ、敗戦国として最低限のプライドを保つため、その要求を呑んだのである。
ところが。
〈火翔石〉の鉱床は、あろうことか本島の境界線の北側、プルジア側に密集していることが判明したのである。
そして極右政党のクーデターに依り、ヘリア色を一掃されたプルジアは、新生プルジア公国としてヘリア王国に叛乱を仕掛けたのである。五年前のことだった。
これに対して、ヘリア王国は既存の絶大な軍事力を以って応戦。プルジア側も王立陸軍内に紛れ込んだ親プルジア派の軍人の支持や、地の利を活かして善戦したものの、結局は押し切られ敗戦した。これが、俗に云う〈普赫戦争〉(ふかくせんそう)である。
常勝王国ヘリアとしては、これは近年稀に見る苦難と波乱に満ちた戦争と云えた。何せ、敵が海峡を越えた向こうでなく、領土内にも多数いたのだ。例えば、最初にプルジア側に陥落し、また奪還して以降は重要な進軍の拠点となった最前線のセントザヴィエ基地も、元はと云えば親プルジア派の軍人が多い旧プルジア領だったことに起因する。国民も、軍人も、誰が敵で誰が味方か判らない、暗黒の戦争。それが〈普赫戦争〉だった。
〈魔女〉だが、これは箒に乗って空を飛んだり、大窯で何かをグツグツ煮込んで呪いを掛けたりする、という子供騙しの伝承だったら、太古の昔から存在した。しかし、この段になって、新機軸の〈魔女〉伝説が、戦争の混乱と不安に満ちた巷に流布し始めたのである。
五年前、数か月に及んだ内戦も、いよいよ形勢逆転、後半戦となりセントザヴィエを前線基地としたヘリア軍が、公都エドナへの歩兵に依る進軍を開始し、途中セントザヴィエ湿地帯の最北端の街ダイトに差し掛かった頃。
突如として夕霧の中から現れたうら若き少女が、その耳まで裂けた大口から火を吐き、一中隊を恐怖と混乱の渦に叩き落し、足並みを崩した兵士たちはルートを踏み外して底なし沼に足を取られ、その異形の少女に首を裂かれて死んでいったというもので、これは戦意喪失し命からがら逃げ出して保護されたある兵士の口に依り、怪奇譚として瞬く間に広まった。
ヘリア軍はそんな根も葉もない噂話を、と一笑に付しながらも得体の知れぬ敵に戦々恐々とし、またプルジアの市民たちは新たな英雄の誕生に喝采を送った。現に、後続で送り込まれた小隊がその亡骸を発見し、首を裂かれた他には一切の外傷もなく、また雨季のジメジメとしてまるで火を起こすには不適切な環境で、軍服がやけに焼け焦げていたことを報告すると、その伝説は一層の真実味を増した。
結局、その英雄は二度と現れる事なく、戦争はヘリア優勢のまま終了。
しかし、そんな頃からだっただろうか。セントザヴィエを中心とした鉱山町や、プルジアのありとあらゆる箇所で千差万別の〈魔女伝説〉が語られ始めたのは。大抵は、ある労働者の娘が素手で大きな鉄鍋をどろどろに溶かしてしまった、赤ん坊の身体が夜中にボウっと白い光を放っているのを見たという、当り障りのないもので、大抵はオリジナルの〈魔女伝説〉に肖った作り話や見間違いの類だとして片づけられていた。
それは、私、コンスタンス・ド=ルーンの多感な少女期の傍らにも、常に噂話の類として付き纏っていた。それが二年前、急遽父の変貌に依り、単なる伝説として片づけるには奇妙な様相を呈してきた。そしてそれから一年後の父の逮捕。関連付けるには些か根拠薄弱にしても、どこか〈魔女伝説〉は私の心のしこりとして、この一年間、私と共にあった。
長い講義を終え、ようやく自らもすっかり冷めきった肉にナイフに切れ込みを入れ始めたサム・ジャストが、無作法にも口に物を頬張りながら云った。「戦争終結後のドタバタの中、政府はその伝説の真相解明に一定の人員を裂くことを怠らなかった。当時着任したばかりのライオネル法務長官の命により、ある組織が結成された。ヘリア王立国家保安警察公安七課。公文書にはほとんど登記されていない、秘密機関だ。メンバーは僅か四人。課長のバージット・ゲーブル=テンペ。研究者として――サマンサ・ジャスト、エリアナ・ワイズ、そして情報統制にビーチェ・ヴァージル」
私は息を呑んだ。この学園の関係者が、七割強を占めている。
「判っただろう、〈公安七課〉こそが、〈至高天宮女学園〉の前身なのだ」
エリアナ・ワイズこと軍事工学の権威エリが、サマンサ・ジャストの言葉を引き継いだ。「あなたがまだお会いになっていないクロイさん――〈土星天〉(サトゥルノ)の方の本名は、クロイ・テンペ。課長のバージット・ゲーブル=テンペの従妹にあたる方です。そっくりそのまま、今の学園の関係者と親族ということになりますわね」
学園長代理――否、公安七課の元職員サマンサ・ジャストは、再度深刻な顔をしていた。
「そして、私らの活動は、大きな成果を以って迎え入れられた。〈魔女〉は実在した。〈魔女伝説〉は本物だった。政府の次なる勅命は、〈魔女〉が〈魔女〉たるその由縁だった。私たちはそのギミックすらも、明らかにし、また実践し再現した。その成果が〈至高天宮女学園〉だ」
サム・ジャストの声が低く落ち込むにつれ、私に脳裏に信じられない考えが浮かぶ。言葉――魔女、公安、情報統制に秘密機関と云った耳慣れないキーワードの数々が、ぐるぐると意識を巡って行く。
まさか――。
私の声にならなかった言葉を察し、重々しく頷いた。「そう。そのまさかだ。ここは――〈エンピリアン女学園〉は〈魔女〉を人為的に創り出す、政府直属の諜報機関なのだ」
ここは檻だ。
薄灰色の石塀の中に揃う宝石たち。同時に、そこは市井の人の与り知らぬ事象の温床でもある。一見、ただの寂れた情緒のある廃墟。けれど、その中では伝説が生き続けている。
私は擦れる声を振り絞って云った。「それを――それをわたしに告げると云うことは、一体何を意味しているのでしょうか」
「それは決まっている」と、サマンサ。「知ったが最後、おまえの生がこの世にある限り、私たちとの因縁は断ち切れないということだ。今すぐ、ここを立ち去り、自由な世界で生きるのもよかろう。けれど、おまえの一挙手一投足は、四六時中見張られ続けることになる。仮に、ここの目的を知ったうえで、我々に忠誠を誓うというのなら、その対価は必ず払われる。優雅な暮らし、生涯の安寧、余生を静かに過ごすには多すぎる退職金――すべてを約束しよう。つまり、外の世界での束縛か、檻の中での自由と繁栄か。不幸にも、おまえにはその二者択一が迫られている」
エリが重い口を開いた。「あなたのお父様は、与えられた職務遂行に必要な情報を、遥かに上回る多くの事を知り過ぎました。それでいて尚、彼は政府の意向に背こうとしたのです。御父上は今現在も、とある施設の中で、厳重な監視下の軟禁生活にあります。ご心配なく。決して手荒な、御父上を傷つけるような真似はしておりません。取調の結果、ド=ルーン氏は我々が得ていた彼が知り得る情報以上のものを掴んでいることが発覚。故に、急遽内々にも伝え聞いている可能性のあるあなたを、一度調べるためにここへお招きした筈なのですが――」
そう云って、彼女は学園長代理の方をチラリと見ると、サム・ジャストは肩をそびやかした。「責任者の私としては、仮に一回の聴取であなたが大した事情を知らないという判断が下されても、最悪のケースを想定しなければならないのだ。だから、私はおまえを罠に嵌めた。本来知るべきではない禁断の知恵を授けることで、運命が我々の手中に収まるようにした」
冷徹に響き渡るサマンサ・ジャストの言葉に、私はどうしようもない絶望的な感情を得ていた。
哀しみ。怒り。勿論そうした感情の欠片はどこかに紛れ込んでいるのだろうが、それよりも私を強く支配したのは虚無感である。私は既に家族を失い、修道院を追われ、行き場を失っていた。そんな私に、その思惑を汚いなどと罵って反発する気力は残されている筈もなく、またそうする道理もなかった。私の世界は二度奪われていた。そして、第三の世界は今、この眼の前に広がろうとしている。
「昔、わたしが捜索したある反政府団体の標語にこう云うものがあったわ」
その言葉を発したのは、驚いたことにヴェス・ラヴジョイだった。そのキリリと引き締まった華やかな目鼻立ちは、キッと虚空を睨んだまま、誰に話しかけるでもない、けれど決然とした響きを含んだ声音ではっきりと、
「『この門を潜る者、希望を持つべからず』。皮肉にも、それはここにも当て嵌まる」
私は押し黙った。
その顔を、十人十色の思惑を胸にして見つめる女たち。
――アンフェアだわ。
私は思った。
こんな御膳立てされたら、乗らないという選択肢があるかさえ怪しいじゃない。
「判りました。あなた達の口車に乗せられてあげようじゃない。私には失うものも、護るべきものもないのだから――」
その言葉もまた、千差万別な作用を一同に及ぼした。サム・ジャストは、微かに口角を吊り上げ笑った。メアリは、無表情ながらも率先して拍手をし、歓迎の意を表した。ディアは、どこはかとなくほっとした表情を見せた。エリは、母性に満ち溢れた温かい面持ちで迎え入れた。ヴェスは、相変わらず眼を合わせようとはしないものの、コーヒーを飲む動作を止め、険しい表情のまま微かに頷いた。
コニは、喜びの余りはち切れんばかりの満面の笑みを浮かべて、私に跳びかかった。
「ありがとう! アタシ、うれしい! 今日からよろしくね、コニ!」
「ちょっ、ちょっとハーム! うわぁ!」
私は小さな彼女にもみくちゃにされながら、やっとの思いで振り切ると、乱れた髪を掻き上げながら云った。
「学園の理念には賛成しました。けれど、わたしはまだ厳密に、〈魔女〉がどのようにして創られるか、知らされてはいないんですよ。もし、その方法っていうのが、身体をバラバラにしたり、脳に何かを埋め込むといったりしたものだとしたら――」
私の不安を逸早く察したエリが、安心させるような口調で口を挟んだ。
「ああ、それに関しましては、御心配には及びませんわ。まだ発展途上の技術ですし、実験にも被験者の同意なしには決して行わないルールにしています。現に、当学園でも完全な魔女化を果たしたのは、私を含めて二人だけですので」
再度、元の騒々しい調子を取り戻したサム・ジャストが、杯を高く掲げて声を張り上げた。
「それでは! 我らが新しい家族、コンスタンス・ド=ルーン改めコニ、〈月天〉(ルーナ)のコニの仲間入りを祝して! かんぱぁーい!」
宴は真夜中近くまで続き、私は何人かの新しい家族との親睦を深めた。
お開きは、ほぼ酔い潰れる寸前の学園長代理の一声によって告げられ、私は早くも明日の朝から始まる学科の時間割をメアリから受け取り、ハームと連れ立ち寮に戻り、戸口の所で「また明日ね」と女学生のような挨拶を交わして別れた。
私は疲れ切っていたが、セレナが私の帰りを待ち、部屋の寝台の片隅に腰を下ろし続けていることをどこか期待していた。けれど、現実には部屋はもぬけの殻で、〈月天〉の間は小窓から射し込む月明かりを受け、明るい影を落としていた。
私は、ボロの修道服を脱ぎ棄て、だらしなく下着姿のまま、ベッドの上に倒れ込んだ。
部屋は蒸し暑く、薄掛けは要らないと思われていたが、翌日訊いた話に依ると、どうやら明け方にかけて冷え込んだらしい。
けれど、私が風邪を引くこともなく、お腹を冷やす事も無かったのは、全く記憶にないが、朝、鳥の囀りに起こされた時にはいつの間にか掛かっていた、見慣れぬ薄手の毛布のお陰なのかもしれなかった。
私の波乱に満ちた永遠の安息は、斯くして始まった。




