前編
どーれーにしよーかな。
積みあげられた本の背表紙を眺めて、わたしはひとつひとつに指をすべらせる。
埃っぽい本たちは、店の奥の奥にたまっていた古いものだ。ずぼらな父を急かしてようやく店の品を見直すことになり、ずーっと売れずに棚をあたためていたものを好きにしてよいと言われた。
紙が日に焼けていて表紙と裏表紙の色がぜんぜん違うもの、ちょっとカビくさいものもある。なかの紙が無事なら、表紙をはりかえればなんとかなるだろう。
修繕して売りものになるものと、ぜんぜんだめなものと、分けた山。店のカウンターの横に積んであるのだけれど。ぜんぜんだめな山に這わせた指をぴたりと止める。【朝焼けの野原】と書かれているはずのくすんだ文字。
ちらりとカウンターの前にいる人を見てから、わたしは迷わず本の山をくずした。
「好きそうなものと、あと、てきとうに何冊か入れちゃいますね。よかったら読んでみてください」
カウンターの前に立つのは、うちの店をひいきにしてくれているお客さん。
見上げるくらい高い背丈と、がっしりとした体つきの男の人なのだけれど、頭をすっぽりフードでおおっている。まとった外套も、この店とおなじくらい埃っぽくてずるずるだ。
「……すまない」
くぐもった低い声が、よけいに見た目の不審さをあおった。ずーんと影ができる。本当に大きい人。わたしなんて、この人の胸までしかない。
大きくて、顔も見えなくて、気味が悪い。けれども、この人はいつもこうなので慣れっこだ。気にしない気にしない。なにか怖いことをされたわけでもないし、ちゃんとお金を払ってくれる。わたしは努めて笑顔のまま本に手をかける。
海の生物と生態について難しく書かれた専門書を二冊、航海術を一冊、図鑑を一冊、そして最後に【朝焼けの野原】を。
ぜんぶを重ねて紙袋につめて渡すと、手袋に包まれた大きな手がぴったりのお金を置いた。ありがとうございますと頭をさげたわたしに、軽くうなずいて店を出ていく。
薄暗い店のなかに一瞬だけ町の賑わいが滑り込み、ばたんと音を立てて静かになった。また町から切り離される。しんとした本の擁壁のなかで、窓から差す光にきらきらと埃が舞って、わたしはそれに目を細めた。
好きにしてよいと言われた見切り品。わたしはそれを常連さんにあげたり、自分で読んだりしようと決めた。
さっきのお客さんに忍ばせた【朝焼けの野原】は、女の子なら誰もが読んだことがあるような有名な純愛小説である。
やわらかな文章で綴られた物語は、少女と青年のあわい恋が愛にかわるまでを描いている。読んだ少女の胸を焦がして、恋というものを夢見させる話なのだ。
貴族の青年と下働きの少女の、身分差恋愛。嫌がらせをするお嬢様や引き離そうとする青年の身内などの山あり谷ありをこえて、ようやくの大団円。よくある物語なのだけれど、女子はそういうものが大好きなのである。
それをあの、薄気味悪いお客さんは読んでくれるだろうか。読んだらどう思うだろうか。こんなものを渡されたと怒るだろうか。
店にかようくらいなので本は好きらしい。いつも、父が書くようなむずかしい専門書を買っていっては、ページに癖がつくくらい読み込んでいる。
ちなみにわたしの父は店主兼学者である。専門は海の生物だ。店主とは名ばかりで、この店のことはわたしにまかせっきり。わたしはそんな父の娘だからか本が好きで、父のことは調子がいいなと唇をとがらせたくなるけれど容認している。
父が店にいると、あのお客さんはくたくたの本を引っ張り出して、陽が暮れるまで話し込むこともある。そのときの父はものすごーくうれしそうで。だから悪い人じゃないんだろうなと思っているんだけど。
それから四日後。町の賑わいから切り離された本屋に、あのお客さんがやってきた。
いつもだと月に一度か二度来るかってところだったのに。今回はずいぶんと早い来店である。父の新しい本が出たわけでもない。その父は海に行くってるんるん出かけたので、約束もしていないはずだ。
ぬっと大きな影がこちらをうかがう気配がしたが、わたしが声をかけるよりはやく本棚の間に行ってしまった。残念。
踵が乾いた音をかすかに立てて、本棚の前を動いていく。奥までいって、違う列をまた歩いて、途中で足を止める。その繰り返し。
カウンターで本の仕分けをしていたわたしは、その足音を聞きながらめずらしいなと思う。あのお客さんはいつも、専門書の並ぶ棚のところへ一直線に向かって、しばらくページをめくる音を響かせたと思うと、数冊の本を持ってカウンターへやってくるのだ。
今日はなにか本を探しているのだろうか。声をかけようと腰を浮かせると、ぬんと大きな影が本棚の隙間から現れた。手には一冊の本。表紙から、海流と生物の関係を綴った専門書だとわかる。
差し出されたそれを両手で受け取り、値段を言って伝票にインクペンを走らせた。最近ペン先が引っかかるので、そろそろ新たらしいものをおねだりしようかな、なんて思って金額を書き終えると、低い小さな声が降る。
「……せ、先日の」
かすかな声に、勢いよく顔をあげてしまった。
フードの影が落ちている顔は、顎のところだけしか見えないけれど肌をおおうように布が巻かれている。あれ、今までそうだったかしら。内心で首をかしげたけれど、その人はわたしの勢いにちょっとだけひるんだみたいに言葉を切った。
わたしはあわてて微笑んだ。言葉を待つわたしに、その人は言葉がためらいがちに続ける。
「先日の、本なのだが」
「はい」
【朝焼けの野原】を読んでくれたのだろうか。ぴんと背筋を伸ばして期待をこめると、低い低い声が静かな空間にこぼれていく。
「貴重な、生態の内容で、とてもよかった」
違った……! 店の埃に埋もれていた専門書の方だった。わたしは笑顔のまま取り繕った。
「日焼けしちゃっててすみませんでした。それでも、ここで眠らせておくより、読んでくれる人のところにあるのが一番ですし」
「う、うむ」
「父も、お客さんだったら読んでくれるだろうって言っていましたよ」
「そ、そうか。ハインツ先生には、本当に世話になっている。……そ、それと、だな」
言いよどむ低い声は少しの間を挟んで、それでも控えめに先を続ける。
「あの、一番薄かった本なのだが」
【朝焼けの野原】だ!
「い、今まで、ああいったものは読んだことがなかったが、その、とてもおもしろかった」
「本当ですか!」
ぱっと笑みを浮かべると、わたしの勢いにおされつつもその人はきちんとうなずいた。
「あ、ああ。少女の健気な姿に、胸を打たれる思いだった」
「よかった! たぶん、手に取ったこともないだろうから、どうかなって思ってたんです。でも、たまにはああいうのもいいかなって。――ほかにも、おすすめの本がありますけど、よかったら読みますか?」
「そ、そうだな。よければ、一冊選んでほしい」
「はい!」
やったあ! 喜んでもらえた! 冗談半分だったけど、怒られることもなく、むしろ気に入ってもらえたなんてうれしすぎる。
わたしはぱっとカウンターから飛び出して、入口にほど近い本棚の列に滑り込んだ。
【朝焼けの野原】は万人受けするものだから、恋愛ものが嫌いでなければ読めるだろう。わたし個人的には、もうちょっと深く掘り込んだような話が好きで。どれがいいかなと、女子向けの本を並べてある棚の前で背を眺める。
横にはずーんと大きな体が控えていて、ものめずらしげに飾り文字の群集を目で追う。こんな棚は見たことがないだろうな。思いながらわたしは、お気に入りの一冊を抜き取った。
「これか、あとは」
背伸びをして、あと少しで届くそれ。も、もう、ちょっと、んん、なんだけどっ!
棚に片手をついて、ぐぐっともう片方の手を伸ばす。新しい本じゃないから、一番上の段に追いやってしまっていたのがあだとなった。踏み台を持ってこないと、と腕をおろそうとしたわたしに大きな影がかかる。手袋をはめた手が、薄い本の背を抜き取ってわたしに差し出す。
「これか?」
「は、はい」
受け取って二冊となった本を、表紙がよく見えるようにお客さんへと向けた。どちらも専門書に比べれば薄くて文字も大きい。でもおすすめの本だ。
おずおずと伸ばされた手が順番に本を受け取って、あらすじを開き、ぱらぱらとページをめくる。簡単に説明をした方がいいだろうか。口を開きかけたわたしだったが、相手の方が早かった。
「両方……い、いや、こちらだけにする」
一番上の段にあった本。わたしは笑ってうなずく。すると、お客さんはためらいがちに先を続けた。
「その、そちらは、次に来たときに」
ぼそぼそと、消え入るくらい小さな声に、わたしはうれしくなって無駄ににこにこしてしまう。
本当に【朝焼けの野原】を気に入ってくれたんだなあ。人は見かけじゃないなあ。こんなに怖そうな人が女の子向けの本を気に入ってくれて、こんなに礼儀正しく接してくれるんだから。
「わかりました。それじゃあ、こっちは取り置きしておきますね。またよかったら、読んだ感想教えてください」
「あ、ああ」
フードにおおわれた頭が大きくうなずく。
書き途中だった伝票に新たに本の名前を書き足して、金額も合計を一番下に添えれば、今日のお支払いが確定した。
大きな手がお金を用意して、わたしの包んだ本を受け取る。そのまま踵を返すと思っていたわたしを裏切って、お客さんはためらいがちに口を開いた。
「き、きみの、な、なな、名前をきいても、いいだろうか」
わたしの目が丸くなる。この人が本以外のことを口にするなんて、初めてじゃないだろうか。めずらしい出来事なうえに、わたしの名前ですって!
驚いて見上げたわたしに、一瞬言葉を詰まらせたお客さん。けれどもすぐに言葉を足した。
「お、おお俺は、ディ、ディー……そうだ、ディーと呼んでくれ」
「ディー、さん」
「ああ」
フードに隠された顔。そこからまっすぐと向けられる視線。
わたしは姿勢を正した。
「わたしは、ロナです」
「ロナ、嬢」
小さくくりかえして、彼――ディーさんはまじまじとわたしを眺める。
「ありがとう。また、来る」
低い声がそう言って、足早に店を出ていく大きな背中。
その後ろ姿をわたしは呆気にとられて見ていたけれど、扉が閉まって静かになると思わずくすりと笑ってしまった。
次にディーさんがやってきたのは、七日を数えたころだった。
この日は父が海に出かけずに、店の隣の部屋で原稿に向き合っていた。山積みになった本たちと、くしゃくしゃに丸められた紙、びっちりと文字で埋まったノート。それらに埋もれた背中に、わたしはお客さんの訪れを知らせる。そしてすぐにディーさんを奥へとおした。
本の感想も聞きたかったけれど、邪魔をするわけにはいかない。
ディーさんもなんだか物言いたげにわたしを見たけれど、父が出てくるともう頭のなかは切り替わってしまったようで、さっそく海の専門的な話を始めてしまった。
わたしは店番をしながら、熱の入ったやり取りをなんの気はなしに聞いている。新しく潮のたまる場所ができていたから、そこにいる魚の種類がなんとかで、水温が何度で、海藻の生え方がどうたらで。図面でも広げているのだろう。紙のたてる音とペンが走る音が混ざる。父の調査結果に低い声が質問を重ねて、どんどん話が盛り上がっていく。
これは、恋愛小説の話どころじゃないなあ。残念。わたしは唇をとがらせて、カウンターに用意しておいた本をぱらぱらとめくった。取り置きをしておいた、もう一冊の本。
没落した王家と、実権を握った家臣の治める異国の物語。聡明な姫君と家臣の青年が、互いの身分を知らずに幼いころ出会ったところから始まっている。
なぜ王家に権力がないのか。なぜ王家がこんなにも貧しく、家臣である貴族たちは潤っているのか。小さな姫君は、自分とたいして年のかわらない彼と話すことで国を治めるということを学んでいく。ひたむきで健気な姫を愛おしく思う彼が成人の儀を迎えたとき、姫として、家臣として出会ってしまう。結ばれることは許されないふたり。それでも、想うことはとめられない。そんな、切ない物語だ。
【白詰草】という題名のそれを読んでため息をこぼしていると、窓からひょいと影が入り込んだ。
「ルーン」
にゃあと鳴いたのは、町猫のルーンだ。誰が飼っているわけでもなく、気まぐれに家々を渡り歩いている大きなトラ猫。町の猫たちの親分らしく、彼相手だと毛を逆立てるどころか逃げ出す猫が多い。
たまにこの店にもやってきて、カウンターの近くの本棚の上に座る。飽きると降りてくるので、そのときのためにわたしはいったんカウンターを離れてミルクを用意した。
「あの猫は、ここで飼っていたのか」
器を持ってカウンターに戻ると、後ろから低い声がかけられた。振り返るとディーさんがルーンを見上げている。
「ルーンは、町の猫ですよ」
くすりと笑うと、ディーさんはほんのちょっとだけ首をかしげた。
「特定の棲家はないということか」
「そうですね。ひとつのところなんて、ルーンは満足できないんじゃないかしら」
「……それで、あちこちで見かけるのか」
低い声は納得したものの、どこか憮然としているように思えて、わたしはまじまじとフードの奥を見上げる。
「もしかしてディーさん、猫が嫌いなんですか?」
ぴたり、と彼の動きが止まった。ひと呼吸おいて、ルーンに向けられていた視線がわたしにすえられる。
「……す、好きではないだけだ」
「嫌いなんですね」
恋愛小説はお気に召したのに、猫は受け付けないのか。女子は猫も好きな子が多いと思うんだけどなあ。いや、ディーさんが女子っぽいとは思わないけど。
気まり悪げに視線をそらしたディーさんに呆れた声をあげたところで、突然視界に影が横切った。
「わっ!」
「あぶない!」
ガシャンと器が割れて、床にミルクが広がる。
強く腕をひかれて目の前が真っ暗になってしまった。なにが起こったのかわからずに目を白黒させていると、にゃあとルーンが鳴いて、わたしの上からは舌打ちが聞こえた。
「これだから、猫は」
忌々しげな声に、ルーンがわたしめがけて飛び降りたのだとようやく察した。
顔をあげると、ディーさんがわたしをかばって抱きかかえてくれていた。がっしりと太い腕が回されて、硬い体に押しつけられる。フードの影に、琥珀色の瞳が鋭い色をたたえていた。ほかは布がぐるぐると巻かれていたけど、初めて見る彼の顔に言葉を忘れる。
ぎゅっと力の込められた腕のおかげで、布ごしでもひんやりとした感覚が伝わる。わたしはぱちりとまたたいた。
「ロナ嬢、大丈夫か」
「は、はい」
なにかが頭をよぎったけれど、心配そうな声にあわててわたしはうなずく。すると相手ははっと息をのんで手を離した。
「す、すす、すまない」
かわいそうなくらい焦る彼は、一歩さがってわたしと距離を取ると、ぶんぶんと手を振って他意はないのだと必死だ。絵に描いたような動揺っぷりである。わたしは驚きながらもかろうじて首を振る。
「いいえ、ディーさんありがとうございました」
「け、怪我がないなら、よ、よかった」
ふうと息をついて、肩が動くくらいに胸をなでおろした彼にこっそり笑って、わたしは大きな背中をカウンターへとうながした。この様子だと、父との話は終わったのだろう。
「今日は、なにか買われていきますか?」
カウンターで我が物顔のルーンがくつろいでいるのをちらりと見たディーさんは、わたしに視線を戻すと小さくうなずく。もういつもの落ち着きを取り戻したようである。
「今日は、そ、その、先日買おうとした一冊を」
「はい、この本ですね。よかった、とってもおすすめだったから」
先日の本もよかった、とごにょごにょ言っているディーさんは、この調子だとわたしと趣味が合うのかもしれない。ますますうれしくなってしまう。
「ま、また来る」
感想を聞き出せないまま、ディーさんは会計をすませて足早に帰っていた。
こぼれたままだったミルクと器の破片を片付けながら、わたしはディーさんを思い浮かべる。
ディーさんがかばってくれなかったら、さすがにルーンが直撃したかもしれない。のそりとした体は思いのほか俊敏だった。
まるで、鎧をつけているみたいに硬くて、ひんやりしていて、大きくて――。
そこではっとわたしは顔をあげる。
鱗人さんなんだ! どうして気づかなかったんだろう。
大きな体で、肌を鱗がおおっていて、水の扱いに長けた種族。海にかこまれたこの島国の警備は、彼らがほとんどを占める海上騎士団にまかされている。
それに、あの金色の瞳。
あそこまで素顔を隠す鱗人に、心当たりがあった。
月みたいに輝く琥珀色の瞳、光沢をおびる瑠璃色の鱗、さめざめとした銀色の髪。町の女の子たちがこぞって憧れる、騎士団団長のディアルド様である。
硬派で女嫌いと言われている彼が、まさか純愛小説にはまってしまっただなんて誰も思わないはずだし、本人だって知られたくないはずだ。だからあんなに不気味な格好をして正体をひた隠しにしているんだと、思い至ったわたしは友達にも言わないと決めた。
そっと父の部屋を覘く。鼻歌混じりに紙にうもれている背中は、きっと彼が誰であるか知っていたに違いない。
もう彼が店にかようようになって何年か経つのに、恨めしい気持ちと、それでも口の堅い父を誇らしく思うのと、気づかなかった自分の鈍さにため息がこぼれるのだった。