未来へ
『未来へ』
「写真が好きなんですよ」
照れくさそうにタケル君が言った。相手の反応を窺う、不安まじりな頬の赤さだった。
「そう」
気付いていながら、だからこそ、私は努めて素っ気なく返す。
「あ、ほら、この足も、ファインダー覗いてたせいで、曲がってくる自転車に気付かなくて」
ぎこちなく笑いながら、ギプスの巻かれた左足をぷらぷら。
「馬鹿なのね」
私が言うと、彼はなぜか嬉しそうに頷いた。
「はい。俺馬鹿なんです」
「私馬鹿は嫌い」
目を丸くして凍り付くタケル君。すれ違った看護婦さんたちがクスリとした。
「あー、善処します!」
へこたれずに意気込んだ少年に、私はわざとらしく溜め息をついてみせた。
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タケル君は最近私と同じ病院に入院して来た男子高校生だ。来年受験生と言っていたから、私より四つほど年下ということになる。身軽そうな体付きに、さっぱりした顔立ち。さわやかって言葉は彼みたいな男の子のためにある。
彼はなぜだか私に付きまとった。どうやら、そういうことらしい。足を骨折した彼は外科病棟に入院しているはずなのに、毎日わざわざ、別棟の内科棟まで私を捜しにくる。
大体トイレにいった帰りに廊下で掴まって、下らない話に付き合わされる。可能な限り素っ気なくあしらっているつもりなのに、彼はなかなか諦めなかった。最近では、私たちを見つめる看護婦たちの視線が妙に優しい。彼女たちが期待するような進展は一切ないのだけれど、まあ、きっと彼の健気な嫌われっぷりが可愛らしいのだろう。
そう、私は、正直言って彼のことが苦手だった。彼のような、明るくて、前向きで、馬鹿な男は嫌いだ。
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ある日、タケル君はニコニコしながら雑誌片手に現れた。それは、ロビーによく置いてある、婦人向けの料理雑誌だった。悪い予感がして眉を寄せる。私の不機嫌な顔などすっかり見馴れた彼は、臆することなくページを開き、無遠慮にぐいっと見せつけてきた。
「これ、どうですか、スミレさん」
「どうって、何が」
「ほら、これ、可愛らしくて美味しそうじゃないですか?」
彼が指し示したのは、ラズベリーシロップのかかったベイクドチーズケーキだった。シロップの赤、ケーキの薄いクリーム色、ミントの緑、フロストシュガーの白。確かにそれは愛らしく、素敵だった。もたれていた壁の手すりを後ろ手にぎゅっと掴み、ほころびそうになる口元を、私は必死で抑える。そうしているうちに、胸の痛みが、自然と顔をしかめさせてくれた。
「それが美味しそうだったら、なんなの」
「俺、こういうお菓子を出す、洒落たカフェを開くのが夢なんですよ。そこで、美味しいって笑うお客さんの写真を撮るんです」
そう言って、タケル君は目を細めた。どこか遠くを見るような目だった。未来を見ているんだな、と私は思った。
麻痺したように痛みが遠のいて、今度は酷く空虚に。どうして彼は、私にそれを話そうと思ったのだろう。どうして私なんかが、彼と、こんな風に。
「知ったことじゃないわよ、あなたの将来なんて」
自嘲とか、拒絶とか、精一杯気丈な感情を込めて、私は言った。早口の、冷たい声で、どうか恐がって欲しいと願って。
「じゃあ、スミレさんのこと、聞かせてもらえますか?」
思いがけず真摯な声で、彼は尋ね返して来た。初めて見せる表情だった。面食らった私が返事に窮していると、彼は構わず問うた。
「例えば、そう、スミレさんは、どうして入院されてるんですか?」
「癌」
抑え込む間もなく、口から言葉が溢れた。今度はタケル君が言葉に詰まる番だった。
「聞えてる? 癌よ。私もうすぐ死ぬの」
矢継ぎ早に告げる声は反射的なものだった。けれど、自分の真意に気付けないほど、私は子供じゃない。狡い、醜い、厭になる。
「冗談やめてくださいよ」
そう言って彼は、私の前で初めて、心底不快そうな顔をした。
「へえ、せっかく話してあげたのに、信じてくれないんだ」
「信じたくないんです」
叱りつけるような声で低く告げると、彼は静かに会釈し、私から離れていった。反省、期待、自己嫌悪。唇を噛む元気すらない。
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中庭のベンチに座り、ぼんやりと空を眺めていた。シュークリームみたいな丸い雲が二つ、真っ青な空に浮かんでいた。
「空が好きなんですか?」
声をかけられ、私は頷く。二つのシュークリームがくっついて、今度はエクレアみたいになってきた。
「そうね、空は好きよ」
タケル君は微笑んだらしかった。優しい息づかいが仄かに聞えた。
「隣、座っていいですか」
「嫌。近よらないで」
今度は苦笑。昨日の今日でまた声をかけてくるなんて、大した子だと感心した。自然と口もとが緩む。酷く静かな心地。
「なんで、抗癌剤の治療、受けないんですか」
律儀に立ったまま、タケル君は尋ねた。
「信じたの? ああ、誰かに確かめたんだ?」
横目で見上げれば、悪びれもしない笑顔。
「二人の恋路を応援してくれる、優しい大人が病院にはいっぱいいるんです」
おどける彼の言葉は、多分事実だろう。この病院の大人たちは、どうやらこういう形で私の余生を幸せにしてくれるつもりらしい。
「嫌なのよ。大して希望もないのに、だらだら生き延びようとあがくの。薬使って、弱り果てて、髪の毛とか抜けながら頑張ったって、何になるの?」
「治るかも、知れないんですよ?」
「いいよ、もう。別に今更、未来なんかなくても。苦しいの嫌だよ。男子高校生に一目惚れされるくらい綺麗なまま、サクッと死んじゃいたいの」
初めて冗句を口にしてあげたのに、タケル君はにこりともせず、わかりました、と神妙に頷いた。
「でも、全部、聞かなかったことにします。病気のことは」
「どうして?」
問うてから恥ずかしくなり、私は視線をそらした。微かな目眩。息を止める。後悔すると思って、やっぱりちゃんと彼の目を見た。
「同情とか、憐れみとかで、口説いていると思われたら、困りますから」
澄ました顔で、さらりとそんなことを言う。私は思わず吹き出して笑ってしまった。
「馬鹿ね」
罵られているのに、タケル君は嬉しそうに微笑んだ。馬鹿、馬鹿、と、確かめるように何度も呟く。穏やかな声しか出せない。もう、だめだった。
「料理はできるの?」
「え?」
私の言葉に、彼は驚いた様子だった。
「タケル君、料理なんて出来そうに見えないんだけど」
「ああ、はい。全然出来ませんよ」
妙に自信満々の、憎たらしい笑みで、タケル君は頷いた。
「だから、誰か料理の好きな美人の女性と結婚しないと、俺困るんです。夢のためにも」
「私が料理好きだってことも、調べたんだ」
睨みつけると、彼は肩をすくめて誤摩化した。
「昔の話よ。お菓子作りを仕事にしたいなんて夢見ていた頃もあったけど、今はもうやめたわ」
「また、これから好きになってくれたら良いですよ」
歩み寄り、跪くと、彼は私の手をとり言った。
「未来の話をしましょうよ、スミレさん」
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やがて、タケル君は退院の日を迎えた。これからも会いに来ていいかと問う彼に、絶対嫌だと私は答えた。
「私これから、無様にやつれて、髪の毛とかも抜けちゃう予定だから。好きな男の子には、見られたくないの」
『未来へ』終わり