00 王国暦五九八年 リヨン 朔日
「カミーユ様。お持ちいたしました」
メイドのシルヴィから、バイオリンのケースを受け取る。
「調律を行いましょうか」
「いや、いいよ。もう行くし」
「クロフト様にお会いにならないんですか?」
シルヴィが驚いた声を上げる。
「あぁ。帰ったこと、内緒にしておいてくれ」
この休みは帰らないって言ってあったし。
「あの、申し訳ありません。すでに別のメイドが…。あっ、クロフト様」
シルヴィの視線の先を見ると、兄貴が居る。
「兄貴」
「カミーユ。ちょっと来い」
「これから用事があるんだ」
後期に使うバイオリンを取りに帰っただけなのに。
「今日は剣の稽古はやって行かないのか」
「だから、用事が…」
「鍛錬はしてるのか」
「してるよ」
「なら、一本、勝負をして行け」
やっぱり、そう言われると思った。
「わかったよ。シルヴィ、預かってくれ」
「かしこまりました」
シルヴィにバイオリンと荷物を渡して、兄貴と一緒に訓練場へ行く。
毎日、体を鍛えるメニューはこなしてる。
養成所でも組手の授業があるし、その中で負けることなんてないけど。
ただ、剣を持ったのは久しぶりだ。
この前だって腕が落ちたと言われたのに、正直、勝てる気なんてしない。
剣を構える。
…が。
剣を抜かずに兄貴が俺に近づく。
「構えがなってない。背筋をもっと伸ばせ」
腕の位置を直される。
「鍛錬をしているというのは嘘だな」
「ちゃんと、やってるよ」
「身の入ってない鍛錬は、ただの運動に過ぎないぞ」
そりゃそうだ。
「今のお前じゃ話にならない。マリユスにも一本取られるぞ」
マリユスは三つ下の弟だ。
ただでさえあいつは剣術の素質があるのに…。
「やばいな。どんどん先を越されそうだ」
マリユスの方が、俺より先に騎士になるんじゃないだろうか。
騎士の叙勲を受けるには、先輩騎士の従騎士をやって修行を積まなければならない。
従騎士は、三年から五年の間、先輩騎士につきっきりで修行だ。
養成所に通うことと並行なんて無理。
それは覚悟していたこととはいえ。
俺が養成所を卒業してから従騎士をやったなら…。
いや、それ以前に、誰かの従騎士にしてもらえるだけの下積みが出来るのか?
「先を越されたくなければ、騎士を目指す志を忘れるな」
「はい」
今の俺に突き刺さる言葉だ。
「勉強はそんなに大変か」
「まぁまぁだよ」
エルとシャルロが教えてくれるから、勉強も楽しくなってきたところだ。
でも。
兄貴が勝負すらしてくれないほど鈍ってるのはまずい。
腕が落ちる一方だ。
でも。
「後期からは剣の稽古も始まる。そうすれば、兄貴から一本取るのだって夢じゃないぜ」
ようやく授業で騎士に繋がる科目が出てくるのだ。
そうすれば、勉強と並行して…。
兄貴が笑って、俺の頭を小突く。
「稽古じゃなくて、授業、だろ?」
「そうだった」
「ほら、用事があるならもう行け。勉強頑張れよ」
「わかってるよ」
いつもいつもそればかり。
剣を鞘におさめて、訓練場を出る。
「ありがとう、シルヴィ」
シルヴィから荷物とバイオリンを受け取ると、シルヴィが後ろからついて来る。
「カミーユ様」
「なんだ?」
「クロフト様は心配されているんです」
「心配?」
「カミーユ様の養成所へのご入学を、ずっと反対されておいででした」
「兄貴が?」
帰る度に、養成所で頑張れって言っているのに?
「魔法使いの才能を持ったが為に、魔法剣士になることを押し付けていると」
確かに。
最初は勉強なんてうんざりだって思ってた。
けど。
「別に、押し付けられてるなんて思ってないぜ。魔法使いの騎士なんて、今時珍しくないだろ」
国王陛下の近衛騎士だって、魔法使いが何人か居るはずだ。
「俺は俺で楽しくやってるよ。じゃあな、シルヴィ」
「カミーユ様…」
次来るまでに、兄貴と勝負できるぐらいに鍛えておかないと。
年末にはマリユスも王都に遊びに来る。
弟に負けるなんて、ごめんだからな。
※
今日はエルの家に行く約束をしてる。
本当は昨日でも良かったんだけど、テスト明けで補習があったから仕方ない。
補習は今日の午前で終わり。
思ったより少なかったのは、エルとシャルロがテスト勉強に付き合ってくれたからだろう。
待ち合わせは、王都の中央広場、噴水の東側。
…って約束だったけど。
噴水の近くに人だかりができている。
もめ事か?
人だかりの中に入ると、その中央で待ち合わせの相手が短剣を抜いて戦っていた。
「エル?」
紅の瞳が、一瞬だけこちらを見た。
倒れているのは二人。
エルの周りを三人の男が剣を抜いて囲んでいる。
「何、絡まれてるんだよ」
バイオリンのケースを左手に持ち、自分の剣を抜いて、エルの後ろに居た相手に切りかかる。
相手と鍔迫り合い。
「なんだ、お前!」
「売られた喧嘩は買ってやる」
剣を引いて、相手が振り払った攻撃をかわし、胴体を薙ぎ払う。
「大人相手に手加減しねーぞ」
薙ぎ払った部分を思い切り足で蹴る。
相手は呻き声を上げてその場にうずくまった。
振り返って、エルに切りかかろうとする一人の剣に、自分の剣を当てる。
「こいつはまかせろ」
エルが頷く。
「お前も吸血鬼の仲間か!」
あぁ、それで絡まれてんのか。
「馬鹿じゃねーの?」
力で押し切って、相手が引いたところで自分の剣を相手の首に当てる。
ちょろいな。
「謝れよ。吸血鬼種ってのは黒髪だ」
「くっ」
「斬るぞ」
左腕が引かれる。
「エル」
エルが俺を見上げる。
もう一人は片付いたらしい。
なんだよ。少しぐらい痛い目に合わせてやった方が良いんじゃないのか?
…なんで。
「ちっ。おっさん、殺されたくなかったら、降参しろ」
相手が、剣を落とす。
それを見て、自分の剣を鞘に収める。
「行こうぜ」
エルと一緒に、人だかりを抜ける。
「守備隊が来たぞー!」
遠くから、王都の守備隊が走ってくるのが見える。
やばい。
「逃げるぞ」
エルの腕を引っ張って、広場から裏通りを目指す。
いくつかの角を曲がって。
ここ、どこだ。
適当に進んでたから、場所が解らない。
守備隊は追いかけてきてないようだけど…。
息を切らしながら、エルが俺の顔を見る。
あぁ。もしかして、知らないのか?
「守備隊ってのは、王都を守ってる連中だ。あんな広場のど真ん中で戦ってたら、必ず飛んでくる。捕まったらいろいろ尋問されるぜ」
エルは納得したように頷くと、歩き出す。
「おい、どこ行くんだよ」
エルが振り返って、手招きをする。
「表通りに出たら、捕まるぜ」
無視して、エルは歩き出す。
まぁ、いつものことだけど。
ついて行くしかないか。
※
ラングリオンの王都の構造は単純だ。
王都の中央部に中央広場があり、そこから東に延びている大通りがイーストストリート、西がウエストストリート、南がサウスストリート。
中央広場から北がセントラルと呼ばれる富裕区で、その更に北に王城がある。
そして、大通りに区切られた東南がイースト、西南はウエストだ。
南に行けばいくほど治安は悪化し、それぞれの外れはイーストエンド、ウエストエンドと呼ばれている。
用事もないから、行ったことなんてないけど。
エルが俺を連れて来たのは、イーストの一角にある家。
庭先に色とりどりの花を飾ったプランターがある。
中央広場からそう離れてない場所だ。
ここがエルの家か?
先に行ったエルに続いて、家に入る。
と。
「遅かったな」
「シャルロ?」
シャルロが、のんびり本を眺めながらコーヒーを飲んでいる。
なんで?
そう思っていると、奥から…。
「おかえり、エル。いらっしゃい。君がカミーユだね」
金髪碧眼の、綺麗な女性。
切れ長の瞳や顔立ちはアレクシス様と良く似ている。
「フラーダリー?」
会うのは初めてだ。
めちゃくちゃ美人。
「そうだよ。はじめまして」
「はじめまして、カミーユ・エグドラです」
頭を下げる。
「よろしくね」
フラーダリーが微笑む。
と。
「エル?」
急に驚いた顔をして、フラーダリーがエルの元に走り寄る。
「怪我をしているじゃないか。どうしたの」
エルは気まずそうに、フラーダリーから視線を外す。
「また、誰かに絡まれたの?」
エルが首を横に振る。
また?
…そうか。瞳のせいで絡まれるのは、今日が初めてじゃないのか。
「俺が、ちょっと絡まれてたところを、エルが助けてくれたんだ。…バイオリンケースをひったくられそうになって」
持っていたケースを見せると、フラーダリーが微笑む。
「そうだったの。怪我を治してあげようね」
フラーダリーがエルに魔法を使う。
癒しの魔法なんだろう。
フラーダリーは優秀な魔法使いだ。
「カミーユ。君は大丈夫?」
「俺は大丈夫です」
あんな連中相手に怪我なんてした日には。兄貴に怒られる。
「さぁ、座って。コーヒーで良いかな」
「はい」
フラーダリーがシャルロの前に置いてあった空のコップを持つ。
「シャルロも、コーヒーは好きかな」
「はい」
「うん。じゃあ、待っていて」
エルとフラーダリーが台所へ行く。
「エルも、バイオリンを持って行くの忘れないようにね」
エルがフラーダリーに向かって口を開く。
「ふふふ。おかえり」
ただいま、と言ったのだろう。
二人が奥の部屋に入るのを見送って、シャルロの向かいのソファーに座る。
あぁ、緊張した。
「カミーユ、もう少しましな嘘はつけないのか」
「なんだよ」
「どうしてひったくりがお前に絡むんだ。ひったくりに失敗したら、普通、ひったくり犯は逃げるだけだろ」
あ。
多分、フラーダリーも気づいてるよな。
「嘘を吐くのが下手だな」
「悪かったな」
会長と話した時のことを思い出す。
シャルロは状況に見合った嘘を平然と吐ける。
「シャルロだったら何て言ってた?」
「遊びで蹴ったら転んだ」
なんだ、それ。
「それこそ無理があるだろ」
「その場しのぎの嘘なんて、矛盾がなければ良いんだ。エルが怪我していたのは腕だ。転んですりむいた傷と変わらない。何に絡まれたんだ?」
「吸血鬼だって絡まれてたんだよ」
「また、それか」
「またって。知ってるのか?」
「アレクシス様が助けたらしい。この前家に帰った時に父から聞いた」
アレクシス様が吸血鬼種の少年を助けたって話しなら、貴族連中の間で話題になるかもしれない。
いや。だから、エルは吸血鬼なんかじゃないんだけど。
「っていうか。なんで先に来てるんだよ」
噴水で待ち合わせだったのに。
「俺は王都に住んで長いんだ。住所を聞けばわかる」
そうか?
まぁ、俺が王都で暮らすことになったのなんて、今年に入ってからだからな。
イーストの枝道なんてわからない。
「お待たせ」
フラーダリーが来て、俺とシャルロの前にコーヒーを置く。
エルは一緒じゃないな。
「二人とも、来てくれてありがとう。エルは元気にやっている?」
「はい。元気にやってます」
シャルロが読んでいた本を閉じて、テーブルに置く。
「あの通り無口ですが、クラスにも馴染んでいますし、授業も問題なく受けているようです」
まるで教師みたいな言い方だな。
「良かった。あの会長が無茶をしようとしたって聞いたから、心配していたんだ」
「あの件は俺にも責任があります。もともと、テストを受けさせたのは俺ですから」
「アレクから聞いているよ。君に責任はない。それよりも、エルを助けてくれてありがとう」
「本人の意思を尊重しただけです」
そういえば。なんだかんだで聞きそびれたな。
エルが本当に、クラスに残りたかったのか。
あの時はそう思ったけど…。
「うん。エルの気持ちを汲んでくれてありがとう。君たちのような友人に出会えたことは、エルにとって大切なことだから。この先もエルをよろしくね」
「はい」
「はい」
エルのこと、心配してるんだな。
「聞きたいことがあります」
「何かな」
「エルの出身は砂漠ですか」
シャルロの質問に、フラーダリーは驚く。
「エルから聞いたの?」
「いいえ」
「なら、答えられない。あの子が自分から話すまで、待ってあげて欲しい」
会長が、砂漠と言った瞬間。
エルが急に感情を露わにして怒ったのを思い出す。
どうしても触れられたくなかったことらしい。
っていうか。
出身が砂漠なのか。
「気づいていると思うけど、エルには少し、複雑な事情がある。詳しく話せなくて申し訳ないのだけど。あの通り良い子なんだ。どうか、他の子と変わらないように接してあげてほしい」
良い子?
それ、どういう基準で言ってるんだ。
素直って意味なら、正しいと思うんだけど。
とにかく、エルは人の話しを聞かない。聞かないどころか、無視だ。相手の事情にはお構いなしに自分の意志を突き通そうとする。
そしてそれが、当然通ると思ってる。
喋れないからある程度の意思表示には付き合うけど。
こいつの性格を一言で表すなら、良い子じゃなくて我儘だ。
「何故、養成所に入れたんですか。しかも中途入学なんて強引な方法を使って」
え?
強引な方法?
そういえば、シャルロはエルが入学する時に、中途入学の理由を気にしてたな。
「君は聡いね、シャルロ」
「理由があるんですね」
「エルを守るためには、エルを養成所に入れるしか方法がなかったんだ」
「守る為?」
「教えていただけますか」
「その理由については教えられない。ただ、コンセルまでかかった理由なら説明できるよ」
「構いません」
「エルを王都に連れて来たのはベリエだ。君たちが入学したポアソンには間に合わなかった。そこから更にコンセルまで時間がかかってしまったのは、エルに勉強をさせていたからだよ。養成所へ通えるぐらいの最低限の知識と、あの会長のテストに合格させるための実力を。…これで良いかな」
最低限の知識って。
俺が養成所に入学するまでにどれだけ勉強したと思ってるんだよ。
一体どんな勉強のさせ方したんだ?
あれ?もしかして…。
「勉強を教えたのって、アレクシス様?」
「そうだよ。私は仕事が忙しいからね。アレクが見てくれていたんだ」
だから、あんなに仲が良いのか。
「…エル」
シャルロの方からは見えるのだろう。
振り返ると、服を着替えたエルが、バイオリンのケースと大量の本を抱えて戻ってきた。
「それ、全部養成所に持ってくつもりか?」
抱えていたものをテーブルに置いて、エルが頷く。
十冊はあるだろう。
一体何の本だ?
「持っていく予定だったのなら、養成所に運んでおいたのに。運ぶのを手伝ってあげよう」
手伝って、あげよう?
わざわざ?
エルが首を横に振る。
「俺たちが手伝います」
「三人も居れば十分運べます」
この後、三人で養成所に帰る予定だ。
フラーダリーの手を煩わせることなんてないだろう。
「そうか。ありがとう。…エル、この前、美味しいジャムをもらったんだ。クレープを焼いてあげるから待っていて」
エルは俺の隣に座って、テーブルの上に置いてある焼き菓子を食べる。
なんていうか。
「激甘だな」
「そうだな」
「?」
エルが首を傾げる。
何のことか、わかってないんだろう。
信じられないぐらい過保護だ。
腕を擦りむいたぐらいで心配して、養成所まで本を運んでやるって言って。菓子なら十分テーブルにあるのに、これからエルの為にクレープを焼くらしい。
今時、どこかのご令嬢だってこんなに甘やかされてないんじゃないだろうか。
「本当に甘い物が好きだな、お前」
エルは焼き菓子を食べながら、右手でバイオリンケースに積んだ一番上の本を取って、俺とシャルロの前に置く。
「なんだこれ。チェスの棋譜?」
「チェスでもやるのか?」
持っていた菓子を全部食べきると、エルは部屋の棚からチェス盤を持ってくる。
「チェスのやり方なんて知らないぜ」
「俺も知らない」
シャルロも知らないのか。
エルは適当なページを開くと、チェスの駒を並べ始める。
「お前は知ってるのか?」
エルは首を横に振った。
「はぁ?じゃあ、なんでいきなり棋譜なんだよ。ルールも知らずにできるわけないだろ」
一通り並べ終えると、俺とシャルロを指さす。
「棋譜の通りに対局して欲しいのか?」
シャルロが棋譜を見る。
「借りるぞ」
そして、本の最初のページを読む。
「白が先だ」
「良くわかるな」
「書いてある。ポーンをここに動かせ」
チェスの駒の名前は知ってる。
でも、やったことはない。
「チェスなんて、キングを取れば勝ちってことしか知らないぞ」
「キングは、これか…」
「あぁ、そうだよ」
シャルロに俺より知らないことがあるなんて、意外だ。
っていうか。
何でこんなもんやらせるんだよ。
エルはフラーダリーが残したコーヒーを飲みながら、俺とシャルロが動かす駒を眺めている。
「これで、チェックメイト。黒の勝ちだ」
どうあがいてもキングが取られる状況。白の詰みらしい。
チェス盤の横に皿が置かれる。
旬の果物とジャムを巻いたクレープ。
「楽しそうだから、手で食べれるようにしておいたからね。夕飯も食べていくだろう。何かリクエストはある?」
エルがフラーダリーの方を見る。
「わかった。ビスクも作ろうね」
エルが頷く。
アレクシス様といい。
良く、エルの言いたいことがわかるよな。
さっそくクレープを手に取っているエルを見る。
このまま喋れなくても問題ないって思ってないよな?お前。