<後編>
「はっ、そりゃあ災難だったなぁ」
豪快に笑って、コップに入ったお茶を飲み干した。
時折かたかたと軽く揺れる窓は年期を感じさせ、それと同時に風が穏やかだとわかる。
全体的に古ぼけた印象のこの家は、少年にとって大事な居場所。
「笑うなよ。大変だったんだって」
笑いの収まらない男をきっと睨みつけ、少年はふと首をひねる。
楽しそうな笑い声が聞こえて知らずに笑みがこぼれた。
「もうずいぶん経ったよなぁ」
男はそんな彼を見つめて苦笑した。
「ん? ――もう五年だ。つい昨日のことみたいだよな」
「そうだ、五年前は大変だったんだよ。お前がいきなりあんなこと言うから」
「いや、他に説明のしようなくてさ」
がしがしと頭をかく彼は、もう少年とは言えないほど大人びていた。
月日は早いな、と男は一人複雑な心で頷いた。
いきなり家族の前で〝心を探す旅〟に行くと言い出したのは、もう五年前の話だ。
家族揃っておかしな目で彼を見、冗談だと笑っていた数日後、少年は突然家を飛び出した。
「あとで理由聞いて、皆納得したんだよ。それでもバカだろって言う奴もいて」
「理由なんて説明してる暇なかったんだよ! なるべく早くしなきゃって思ってたし」
「早くしないと獲られるかもってか?」
男の言葉にうっと言葉を詰まらせた少年――否、青年は目の前にあったコップを掴む。
「ほかにやり方なかったのかよ?」
「……ないと思う。たぶん」
「いい加減はっきり言うとかは?」
「言った事はあるけど、冗談だって思われたみたいで笑われた」
「……それは災難だったな」
青年の言葉に男は苦笑する。
他にいくらでもやり方はあっただろうに、なぜか彼はこの道を選んだのだ。そもそも、彼の考えたその結論に達するのが不思議なくらいである。何をどう考えれば、そういう考えに行き着くのか。
だが、男にとっては弟同然の彼が日頃悩んでいたのは知っている。
幼い頃から一緒にいた少女は日に日に可愛く、綺麗になっていくのを間近で見ていた少年は、ある日意を決して旅に出た。
「ま、どっちにしろよく戻ってこれたなって話だ」
「……あぁ」
それは奇跡だっただろう。
辺り一面草原で覆われ、ひとつの町にたどり着けば何日間は次の町へはたどり着けない。
そんな中、奇跡が起こった。
いつもどおり町を目指している途中、どこからともなく地図が飛んできたのだ。
触るとパリパリと音がするその地図は少年と少女のもといた村までの地図。
だめもとでその道を辿れば、あろうことか本当に村にたどり着いたのだ。
そして、奇跡は二度起こった。
「お父さん!!」
家の外から聞こえていた楽しげな声がふと止まり、代わりにちいさな少女が顔を出す。
お父さん、そう呼ばれて自然と頬が緩む。
「……親ばかだな」
「うるさい」
ぱたぱたと走り回るのは、大切な宝物。
まだ十分に話せない、にっこりと微笑む姿が愛らしい少女を見て頬が緩まないやつなどいない。
そんな気持ちも込めて睨みつけると男は肩をすくめ、
「俺にだって子どもはいるけど、ここまでじゃない。お前みたいに鼻の下伸ばしたりしない」
「それはお前がどうかしてる」
そのとき、明るい声とともに室内がふわりと暖かくなった。
走り回る少女を呼び寄せるのは、少女と同じくらい大切な彼女。
青年と同じく少女と呼ぶにはずいぶんと成長した彼女だ。
「幸せそうで、なによりだ」
隣でふっと微かに笑う気配を感じ、青年はしっかりと頷いた。
少年と旅を共にした少女はいつしか母親になり、子どもにも恵まれて幸せな家庭を築いていた。
そしてそれを守るのは、父親となった少年。
――旅に出たのは僅か五年前。
途方もない旅を続け、いつしかその旅をする理由さえ失われることとなった。
目に見える心があればいいということではない。そう気付かせてくれたのは、いつも隣にいてくれた少女だった。
故郷の村に新しく建った家はいつも明るい声が飛び交い、暖かな空気を運んでくる。
それは五年前の二人には想像もしていなかったこと。
緩やかな風に乗って、今日も愛しい人の名を呼ぶ。