忘れ去られるもの
いつの間にか、外は薄暗くなっていた。立夏が過ぎて一カ月たつのに、冷たい風がぼくの体をなめまわしていく。腕にかけていた上着をあわてて羽織る。
それにしても今日は、ものすごい数の歌を熱唱した。もうどんな曲を歌っていたのか、全部は思いだせない。時計を見ると、午後七時すぎをさしていた。ああ、結局六時間もカラオケボックスにいたのか。
「それじゃ、また明日!」
家が反対方向の友人と別れ、ぼくは足早に歩く。今日は温かいみそ汁が飲みたいな。
少し歩くと、大学の門が見えてきた。地方の大学といっても、さすがに迫力あるゲートだ。
明日通ることになる門を見て少しげんなりしながら、いつものように通り過ぎる。
ふとぼくは、閉じ込められたら一時間で弱音を吐きそうになるものを見つけた。それは、電話ボックスだった。
ここは大通りだから、街灯やスーパーの明りのおかげで子どもでも怖がることなく歩けそうなところだ。だが、ちょうど道路に沿って植えられている木の陰に隠れて、その電話ボックスには光がほとんど届いていない。ただ、中にある小さな蛍光灯だけが、その存在を知らせていた。でも、その光でさえ今にも消えてしまいそうだ。
「ブルル」とケータイが震えた。思わず立ち止まる。「これから電話してもいい?」という彼女からのメールだった。ぼくは「もちろんOK!」と返信した。
ケータイをポケットに仕舞うと、ぼくはその電話ボックスを見つめた。
一人一台ケータイを持っているこの時代、電話ボックスは年々姿を消している。大学の近くにあるコンビニの隣に「まだまだ若い奴には負けんわい!」とばかりに設置してあった公衆電話も、とうとう先週撤去されてしまった。クレーン車で持ち上げられたその姿は、疲れきってリタイアした老人を連想させた。
「まだこんなところにあったんだなぁ」
誰もが素通りしてしまいそうなところに、その電話ボックスはあった。毎日見ていると、案外その存在は記憶に残らないものだ。一人さびしく立って、訪れる人をひたすら待ち続けているその姿に、なんだか寂しさを感じた。
「がんばれよ」
ドアを開けて中に入り、電話をさすりながらぼくは一言つぶやいた。今ペンキを持っていたら塗りなおしたくなるほど、メッキがはがれている電話がそこにあった。
「ピリリリ」とケータイが鳴り始めた。ぼくは急いで耳に当てる。
「――あ、もしもし! 何の用?」
彼女が用件をたんたんと話してくる。ぼくは足でドアを開けて外に出、アパートへと歩く。
「――うん、今度の日曜? 空いてるよ。――え、遊園地? 行く行く! 待ち合わせは何時にする?」
朝九時に駅で待ち合わせ、と言って彼女は電話を切った。まったく、ぼくに「お休み」の一言も言わせてくれないんだから。……あとでメールしておこうか。顔文字は無しで。彼女、メールを飾り付けるのは好きじゃないみたいだし。
あれ、さっき何かに感動していたような気がするんだけど、なんだったかなぁ? ――まあいっか。そんなことより、デートプランをしっかり練らないとね。
ぼくの頭の中は、彼女のきれいな顔でいっぱいだ。いつの間にか、寒さが気にならなくなっていた。