3
「大貴……怒ってる……?」
大貴は何も言わない。
菜月は数歩下がって二人を見守った。
「大貴ごめん……姉ちゃん……ごめんね」
事故のことを思い出したのだろう。朱那は何度も何度も謝り続けた。
たぶん、事故だけではなくて、六年前に二人の両親が死んだことも――。
そしてようやく大貴も口を開く。
「……死ぬのかと思った」
彼の声は震えていた。怒りなのか、悲しみなのかよくわからないが、泣きそうになるのを堪えているということは伝わってくる。
菜月の鼻の奥がつんと匂った。
「ごめん、大貴……。私……あんた残して死んだりしないから……」
朱那の声も掠れていた。大貴もそれ以上は何も言わない。
菜月は目を拭って少し微笑み、そっと病室を後にする。残る姉弟の手は繋がれたままだった。
それから菜月は看護師に朱那が目覚めたことを伝え、佐々木と両親に連絡するために外に出た。
夜空には星が瞬き、それらを見上げてホッと息を吐く。
安心のあまり今にも涙が溢れそうだった。
菜月は大きく息を吸い込んでケータイを取り出し、操作する。
――よかった。ほんとによかった。
もう一度深呼吸してからケータイを耳に当て、二度、安堵と喜びが混じる声を聞くのだった。
朱那の意識が戻り、しばらく経ったある日曜日。寝坊して起きた菜月は、居間に入って目を丸くした。
「よう篠原」
テーブルの椅子に腰掛けてにこやかに手を上げたのは、佐々木だった。
想定外のことに菜月はあわあわとしながら彼を指差す。
「な、なな、なななんで先生が」
「いやー、篠原家に折り入って相談があってな」
いつもの緩い調子で彼は言い、菜月は首を傾げた。
「相談?」
「ああ、朱那のことでもあるんだ」
「ふぅん」と呟いた時、背後から純子がドアを開けて現れる。
「あら菜月、起きてたの」
「うん。先生いるからびっくりした」
「朝ご飯準備するから、顔洗って着替えてらっしゃい。先生の前で、恥ずかしいわよその格好」
純子が菜月の全身を視線で指し、菜月はポリポリと頭を掻いた。
「しょうがないじゃん。お父さん――はさっき見たや。大貴は?」
その問いに純子は答えず、肩をすくめるだけだった。
――あ、バイトか。
危ない危ないと思いながら菜月は台所へ行き、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出した。
その時、佐々木に向かって純子が話す声が聞こえた。
「先生、大貴くん呼び戻しましたから。すぐ帰ってくると思いますので、もう少し待っててください」
「いえ、お手数かけてすみません」
佐々木の返事を聞き、菜月は内心首を捻った。
朱那だけでなく、大貴も関わる話なのだろうか。
麦茶を注いだグラスを持って、純子と入れ替わりに佐々木へ近寄る。
「先生、大貴にも話あるの?」
「ああ、まあな。栗原にも許可は取っておかないと」
「許可?」と眉をひそめた時、菜月の朝食を持って純子が現れる。
「話はみんな揃ってから。早く着替えなさい」
「ちぇー」
唇を尖らせ、菜月は居間を後にした。
十数分後、篠原夫妻と佐々木、それから呼び戻された大貴はテーブルについて穏やかに談笑している。
椅子が足りずテーブルからあぶれた菜月はソファに座って朝食を取っていた。
もちろん、何の相談なのか気になるので極力ゆっくりと食べ進める。
そんな中で、ようやく佐々木が本題を切り出した。
「それで、今回ご相談したいことなんですが」
菜月は口を動かすのをやめ、耳をそばだてる。
「朱那が退院して、入籍したら、居住をここの隣に移そうと思っています」
彼の申し出に菜月は驚いたのだが、他の三人はそれぞれ落ち着いた反応を見せた。
ここの隣の家ということは、大貴たちの実家に住むということだ。事件があった、あの家に。
いつになく真剣な面持ちで佐々木は続ける。
「朱那とも話したんです。彼女、完治するまでしばらく生活が大変だと思うので、階段が多いアパートよりもこっちの方がいいんじゃないかと」
「まあ、そうですね。近くに住んでたら、何かあった時に私たちもすぐ行けますし」
純子が頬に手を当てて、少し悩むような相槌を打つ。誠は腕を組んだまま口をむすんでいる。
「朱那に実家のことを聞いたら、篠原さんに管理を任せていると聞きまして。まずは、お二人と、あと栗原に相談するべきだと」
佐々木がちらりと大貴に目をやる。
「栗原の実家ですから、俺が勝手に住むわけにはいきませんし」
「……朱那ちゃんは何て? そこに住むと言ってるのか?」
黙っていた誠が慎重に尋ね、佐々木が頷く。
「彼女も承諾しています。栗原姉弟があの家を遠ざけていた理由は知っていますし、その気持ちも分かっているつもりです。だから朱那の負担にならないように心がけます」
大貴と朱那があの家に戻らなかったのは、単に恐かったからだ。
あの家にいると、両親の遺体の様子を鮮明に思い出すらしく、辛いのだと聞いたことがある。
菜月自身も隣の家はなるべく視界に入れないようにすることが癖になっている程だから、二人にとっては余程なのかもしれない。
菜月がぼんやりしながら牛乳を口に含んだ時、不意に大貴が話し出した。
「俺は構いません。姉ちゃんがそれでいいって言うなら、好きにしてください」
「……そうか」
佐々木がホッとしたように微かに表情を和らげた。
「でもちょっと心配ねぇ。トラウマっていうのは、すぐに治るものでもないと思うの」
純子が不安げに言い、隣で誠も頷いた。
「とりあえず、試しに一度あの家に入ってみるといい」
「そうね、それがいいわ」
「じゃあ俺が今から行ってきますよ」
唐突に名乗り出たのは大貴だった。それにはさすがに皆が驚いた。菜月も思わず腰を浮かせ彼を凝視した。
皆の視線を特に気に留める様子もなく、大貴は淡々と続ける。
「姉ちゃんの退院はまだ先ですし。それに俺がどうということもなかったら、姉ちゃんもそれほど辛くはないんじゃないかなって」
「大貴、本当に大丈夫なんだな?」
誠が心配そうに尋ね、大貴は肩をすくめた。
「大丈夫かどうかは行ってみないとわかりません。ただ、ここが節目なんだろうなとは思ってます」
「節目、か。そうかもな」
どこか納得した様子で誠が言った。
――節目ってなに。
そう声を上げたかったが、菜月は俯いてパンをかじり、言葉と一緒に飲み込んだ。
テーブルからあぶれた時点でそうなのだが、何だか蚊帳の外にされている気分だ。
すると突然、純子が立ち上がりテレビの横にある棚の引き出しを探り、何かを持って戻ってくる。
「これ、大貴くんの実家の鍵よ。たまに掃除しに行ってるから私が持ってたの」
そう言って、鈴のキーホルダーが付いた鍵を大貴に差し出す。
「辛いこともあったけど、あの家は大貴くんの実家なの。思い出もいっぱい詰まってるわ。だからきっと大丈夫、いってらっしゃい」
鍵を受け取る大貴に、純子は微笑んで言った。大貴も微かに笑いかけてから腰を上げ、佐々木を見る。
「先生も行きませんか」
「ん? ああ、じゃあそうさせてもらおうか」
佐々木も立ち上がって居間を出ていく。
菜月は座ったまま二人を見つめていた。すると、居間を出る直前の大貴と視線が重なった。
その彼の目が何かを訴えているように見え、菜月は僅かに首を傾げたが、彼は何も告げずにドアをすり抜けていってしまった。
閉じられたドアをしばらく眺めた菜月は、パンを全部口に押し込み、牛乳を一気飲みした。そしてグラス等を台所に置き、バタバタと居間を後にした。
走って隣の家に行くと、ちょうど大貴が鍵を開けたところだった。
「うわー、久しぶりにこっち来た」
ボソリとそう呟いたところ、二人が同時に振り返り、大貴が僅かに眉をひそめる。
「なんで菜月まで来んの」
「え、えー……なんででもいいじゃん、減るもんじゃないし」
唇を尖らせ菜月はぷいとそっぽを向いた。
さっき大貴が意味ありげな視線を向けたからついてきたのに。そんな風に言われたら返答に困るじゃない。
拗ねたまま後ろ手でドアを閉めて靴を脱いでいると、不意に大貴に頭を撫でられ、菜月は顔を上げた。
彼は困ったような笑みで、声にはせずに口を開く。
――ありがとう。
そして彼は身体の向きを変え、先に上がった佐々木の後に続いた。




