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いつもの帰り道  作者: 銀花
#07 幸せの花をあなたへ
29/33

 扉がゆっくり開き、看護師が付き添った一人の女性が入ってくる。

 ゆったりとしたシャツとパンツを身にまとい、長い髪を一つに結った若い女性だった。そして彼女の腕には赤ちゃんが抱えられている。

 歩み寄ってくる彼女は、もちろん菜月には面識がなく、大貴もそうだったのか、二人は無意識に視線を合わせていた。

 側まで近付いた彼女がふっと笑って頭を下げた。


「突然お伺いしてすみません。初めまして、私、加藤水穂といいます」


「……初めまして」


 大貴が会釈を返した。


「加藤さん、私はナースステーションに戻りますね。話が終わりましたら、呼んでください」


 そう言って看護師は病室から出ていった。

 それからしばらく、三人の間に沈黙が続く。水穂みずほと名乗った女性は、話し出すタイミングを見失っているようだった。

 菜月と大貴が困ったように目を見合わせた時、水穂の腕の中から小さな声が聞こえた。

 菜月は慌てて立ち上がり、座っていた椅子を彼女へ差し出しす。


「座ってください」


「あ、ありがとうございます」


 水穂はまた勢いよく頭を下げ、慎重に腰を下ろした。

 それから菜月は興味津々になって水穂に近寄ると、彼女の腕の中の赤ちゃんを見下ろした。

 目も口も手も、何もかもが驚くほど小さい。


「わあ、ちっちゃーい」


 菜月は思わず笑顔になって、もっとよく見ようと更に顔を近付けた。

 その菜月の行為に少し緊張がほぐれたのか、水穂も表情を和らげた。


「生まれて四日目なんですよ」


「四日? ホント生まれたばかりなんですね。私、新生児間近で見るの初めてです。あ、名前は決まってるんですか?」


「ええ、美優っていいます」


「美優ちゃん、女の子なんだ!」


 見ただけでは性別が分からなかったため思わず感心し、それから美優をじっと眺めた。

 保育士を目指すと決めてから、子どもを見かけるとつい観察してしまうようになっていた。

 自分もこういう風に生まれてきたのかと考えると、なんだかくすぐったい。


「……あのー、加藤さん? 話ってなんでしょうか」


 後ろから大貴の声が聞こえ、菜月と水穂はハッと顔を見合せた。

 そして水穂が慌てた様子でガタガタと立ち上がり、また頭を下げた。


「ご、ごめんなさい」


「いえ、あの座ってください。赤ちゃん産んだばかりなんだし……」


 大貴がオロオロし始め、部屋の空気がなんだか妙になってきたように菜月は感じた。


――加藤さんって、緊張しいなのかなぁ。大貴も大貴でなんか緊張してるし。ま、しょうがないか。


 やれやれと思い、菜月は水穂の顔を覗き込んだ。


「事故の件ですか?」


 そう尋ねると、水穂は数回瞬きを繰り返してからおずおずと頷き、大貴へ視線を向けた。


「すみません、こんな時に話していいのか……ずっとお礼が言いたくて……」


「……お礼? 姉にですか?」


 大貴が驚いたように尋ねた。

 菜月は話の邪魔にならないようにと、ゆっくりベッドを挟んだ向こう側に回る。


「ええ……事故のあの時……栗原さんが私を助けて下さったんです」


「え……」


 菜月は目を丸くし、大貴をちらと見やったが彼の表情は分からなかった。


「事故の時、私……栗原さんの隣に立っていたんです。私も信号待ちをしていました。それで、車が突っ込んでくる寸前に彼女が私を突き飛ばしてくれて……その……巻き込まれなかったんです」


 水穂の声が次第に萎んでいく。


「本当に有り難かったです、栗原さんには感謝してもし尽くせません……栗原さんのお陰でこの子は生まれたんですから。でも……裏を返せば私を助けたせいで、栗原さんは重傷を負って、意識も戻らないんじゃないかと思って――」


 水穂がそう言い終わったのを最後に、部屋に長い沈黙が訪れた。

 菜月は、大貴の横顔と、不安そうな表情の水穂を交互に見つめた。

 水穂の言ったこともあるかもしれないが、朱那は咄嗟にと言えども当然のことをしたまでで、水穂が恨まれるようなことは何ひとつない。それはすぐに分かるだろうが、大貴が何を考えているのか分からず、心配だった。

 自分が何か話した方がいいのだろうか。そう思って口を開きかけた時、大貴の声に遮られた。


「そんなことないです」


 大貴がふるりと首を振った。


「姉も助けられてよかったって、きっと思ってます。加藤さんが悩む必要はないですよ」


 そう大貴が優しく言うのを聞きながら、水穂が涙ぐんでいる。

 大貴は苦笑し、頬を掻いた。


「それにむしろ姉らしくてホッとしました。……っていうか、突き飛ばしたんですか? 妊婦さんを? 大丈夫だったんですか?」


 急に大貴が顔色を変え、水穂は目をぱちくりとさせ、そしてクスリと微笑む。


「ええ、全く。こうして美優が元気に生まれてきたことが証拠です」


「それなら、よかったです……姉ちゃんももっと他に助けようがあっただろうに」


 大貴がため息を吐く間も、水穂はクスクスと笑っていた。


「信号待ちしてる時に私がお腹の子を撫でてたら、栗原さん、笑いかけてくれたんです。その時に何となく優しく方だなって思いました」


「……そうですか」


「あなたも、お姉さんに似て、優しい方ですね」


 水穂がふわりと笑って言い、大貴は照れたように頭を掻いた。

 それから水穂が頭を深々と下げて再度礼を言う。


「このご恩は一生忘れません」


「いえ、そんな大したことじゃないですし……」


「私にとっては大したことなんです。この子が大きくなったら、話して聞かせようと思います」


 一瞬、水穂が母親らしい顔付きになったように見えた。

 それも束の間、美優がぐずりだし、仕舞いには大声で泣き始め、菜月は驚いた。

 思わず大貴と顔を見合せていると、水穂が苦笑して立ち上がった。


「すみません、授乳の時間なんです。ご迷惑になるので、そろそろ失礼します」


 ぺこと頭を下げて病室を後にする彼女を見送ろうと、菜月と大貴も廊下へ出た。

 二人に向き直り、水穂が口を開く。


「栗原さんの意識が戻ったら、またお見舞いにきますね」


「はい、ぜひ」


 大貴が微笑みながら頷き、菜月は手を振って歩き出す母娘を見送った。

 赤ちゃんの泣き声が遠ざかっていくのを聞きながら、菜月は大貴へ振り返る。


「なんか、思ってたよりいいこと聞いたね」


「ホント、姉ちゃんらしいよ。自分のことはそっちのけでさ」


「あはは、昔からそんなんだよねぇ朱那さんって」


「人にばっか構ってるから苦労するんだよ」


 やれやれと呟いた大貴は、踵を返して病室に入っていった。

 ゆっくり彼に続きながら菜月は考える。


 最後の言葉は、たぶん、姉に呆れているから出た言葉ではなくて、大貴が彼自身を無意識に責めているから出たのではないだろうか。

 朱那に苦労かけていることを大貴が悩んでいる節は、側にいてよく見受けられた。

 大貴がバイトをするようになったのも、きっとそのことがあったからだ。

 でも大貴はまだ高校生だし、自分でどうにかできる内容でもないしで、菜月にはフォローのしようがない。


――こればっかりはどうにもできないよ……。


 肩を落として俯きながら歩いていると、大貴が立ち止まっているのに気付かず菜月は思いっきり体当たりしてしまった。


「あたた、びっくりした。どしたの――」


 背後から彼の視線の先を追い、菜月は目を見開いた。

 ベッドの上で朱那が上半身を起こし、頭を押さえている。

 驚きのあまり菜月は両手で口を覆い、言葉を失った。


 朱那が目を覚ました。


 この目で見ているのに、嘘のようだった。


「朱那さん……!」


 佇んだままの大貴を追い越してベッドへ駆け寄り、菜月は朱那の顔を覗き込んだ。


「朱那さん! 大丈夫!?」


「う……菜月ちゃん……? 何かあったの……頭痛いし……ふらふらする……」


 朱那は俯いたまま額に拳を当て、目をきつく閉じて歯を食いしばっている。菜月は慌てて彼女の肩に手を置いた。


「朱那さん、起きちゃダメだよ! 横になってなきゃ」


「うぅ……ここどこ……? 大貴いる……?」


「病院だよ。朱那さん、事故に遭って運ばれてきたの。大貴もいるよ――」


 そう答えて振り返ると、大貴はまだ呆然とした表情で立ち尽くしていた。

 菜月は思わず眉をひそめた。朱那が目を覚ましたのに、何故そんな離れた場所に立っているのか。


「大貴」


 菜月の呼ぶ声に、彼はハッとして瞬きを繰り返す。しかし凍りついたかのように、彼はその場に突っ立ったままだ。


「……さっき……大貴が泣いてる声が聞こえた気がしたんだけど……」


 俯く朱那が囁くように呟き、菜月は首を捻った。

 ここに来て大貴は一度も泣いていない。というか、大貴が泣いているところなんてそうそう見たことがない。


――あ、もしかして赤ちゃんの泣き声……。


 菜月が加藤母娘を思い返していると、不意に朱那が何かを探るように右手を上げた。


「……大貴」


 彼女の言動に菜月は折っていた腰を伸ばし、大股で大貴に近寄るなり彼の手を取って引っ張った。

 そして朱那の下に連れていき、彼女の手に大貴の手をのせる。


 その間、大貴の顔は見ないようにした。見てはいけないような気がした。


 大貴の手を握り締めて、朱那が問いかける。

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