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体育祭や文化祭も既に想い出となり、すごしやすい気温が続き、季節はすっかり秋めいている。
朱那の事故から何日も過ぎていった十月上旬。彼女の意識はまだ戻っていない。
進路指導室の片隅の床に座り込み、菜月は専門学校のパンフレットを広げ、それらを見比べては唸っていた。
進路指導室には大学や短大、専門学校の資料がたくさん集められており、生徒は自由に閲覧、そして持ち帰ることができるようになっていた。他にはパソコンも二台設置されていて、それを使って学校の検索をすることもできる。
なんとなく就職の棚も見てみたが、進学校故か、就職情報は少ないように思えた。
菜月は二学期に入って数回この部屋に通い、ようやく学校を二つに絞った。
「うーん、卒業と同時に保育士資格はもらえるのかな……」
口の中でもごもごと呟く。
パンフレットを読んでもそこのところがいまいち判断できず、困っているのだ。
持っていたパンフレットを置き、別のをパラパラ捲ったとき、進路指導室の扉が軋みながら開いた。
「珍しいな、篠原がここにいるなんて」
タイミングがいいのか悪いのか、現れたのは佐々木だった。
「先生、聞きたいことがあるんだけど」
「ああ、何だ?」
目の前にしゃがみ込む佐々木を見上げ、菜月は首を傾げた。
「保育士の専門学校って、どの学校でも卒業と同時に資格もらえるんですか?」
「ほう、保育士目指すのか。そういやお前まだ進路調査出してなかったな」
「うん……まだちょっと悩んでるんだけどね」
「栗原のことでか?」
その問いに、菜月は一瞬黙り込んだが、微かに首を横に振った。
「何に悩んでるのか自分でもよくわからないの。でも、大貴もうちの親も、相談したら“やってごらん”って言ってくれたから――」
ふと菜月は言葉を切り、視線を落とした。
佐々木が菜月の周りに広げられているパンフレットを一冊拾い、一ページずつ捲る。
菜月は膝を抱えてため息を吐く。
「私……人に頼ってばっかで、何で自分で決められないんだろうって、ここんとこそんなことばっか考えてて……なんか落ち込んじゃう」
「……そうか。でも篠原は人に意見を聞いて、悩みながらも保育士を選んだんだろ。それは自分で決めたことじゃないか。自信持て」
佐々木に優しい口調で励まされ、少し泣きそうになったが深呼吸をして何とか堪えた。
最近、やたら涙腺がゆるくて困っている。
「それで、どの学校にするつもりだ?」
「あ、えっと、これかこれで迷って、ます」
菜月は散らばるパンフレットの中から二冊を選び持ち上げた。それを佐々木に差し出すと、彼は片方を取って読み始めた。
その様子を窺いながら、ぽつぽつと話す。
「どっちとも受験するつもりです、一応。そっちは場所がちょっと遠いけど、自転車でも行ける距離で。こっちは幼稚園教諭も取れるらしいです」
佐々木はもう一冊も受け取り、更に目を通す。
「内容は大体同じだな。へー、学校がバイト先に保育園を紹介してくれるのか。ああ、あと卒業したら資格は貰えるぞ。政府……保育士だから厚労省か、そこに認可されてる学校は全部そうなってんだ。これはどっちも認可されてる」
「ほんとに? よかった。んー、でもどっちにしよう。先生ならどうやって選ぶ?」
「そうだな、家からの距離で選ぶやつも多そうだが、俺だったら面白そうかどうかで選ぶかな」
「就職率とかじゃなくて?」
菜月は意外とばかりに目をしばたいた。
「面白くなかったら、その職自体が嫌になりそうなんだよ俺は。まあ篠原は自分の肌に合いそうな方を選べばいいさ。オープンキャンパスにでも行ってみたらどうだ、パソコンで調べてみろ」
「あ、そうかパソコン、ってチャイム鳴ったし」
スピーカーから流れる昼休みの終わりを告げるチャイムに菜月は肩を落とした。
佐々木はパンフレット二冊を菜月に手渡し、他のパンフレットをまとめ始めた。
「続きは放課後かまた明日な。進路調査書いたら早目に出してくれよ」
「はーい、相談のってくれてありがとう先生」
「ああ。またなんかあったら聞きにこい。あと推薦書とか調査書とかも要るだろ。推薦考えてるか?」
「むしろ推薦しか考えてないというか?」
だって推薦なら書類審査だけだし、と楽観的に言うと、佐々木が「お前らしいわ」と苦笑した。
「わかった。願書取り寄せも早目にな」
「うん」
頷きながら、菜月は内心ホッと息を吐いた。
そして手の中に収まるパンフレットを見下ろし、微笑む。
――がんばろう。
ようやく一歩踏み出せることが嬉しかった。
進路指導室を出て佐々木と喋りながら廊下を歩いていると、階段を下りてきた大貴と鉢合わせた。
「菜月、奥村さんが探してたよ」
「あれ、次移動だっけ」
「英語だろ。現国と入れ替わったんだから」
「ああそうだった」
忘れてた、と菜月は頭を掻いた。
それから少し急いだ様子で大貴は用件を続ける。
「あと、今日学校終わったら俺直で病院行くから」
「そなの? あっ、朱那さんが目を覚ましたとか?」
菜月は期待のあまり大貴に詰め寄ったが、彼は首を横に振った。
「いや違う。なんか姉ちゃんとその家族に会いたいって人がいるって、病院から電話が」
「朱那の身内以外は面会できないようにしてるだろ」
傍らで話を聞いていた佐々木が訝しげに口を挟んだ。彼に目を向け大貴が頷く。
「うん……報道関係者とかではないはずです。そこは一応弁護士さんに協力してもらってるから。でも、誰なのか見当がつかなくて」
「電話ではなんて?」
「女の人……えっと確か“加藤さん”って人らしいです。あと同じ病院の患者さんとか言ってたような」
「患者? じゃあ事故の被害者かな。会うって言ったのか?」
顎に手を当てて首を傾げる佐々木に、大貴は「うん」と言った。
――事故の被害者。
菜月は事故のあの日を思い返してみたが、当然、朱那以外は誰一人覚えていなかった。
まあ通行人も入り乱れていたのだ、覚えてる方が不思議だろう。
ふむ、と佐々木が考え込みながら言う。
「まあ聞いた感じ、会っても大丈夫そうだとは思うが。栗原が嫌だったら、代わりに俺がその人に会ってもいいんだぞ」
「……いえ、俺が行きます。先生忙しいでしょ、テスト前だし」
ふるりと首を振った大貴は、また菜月に向き合った。
「そんで菜月は家に帰ったらおばさんたちにそう伝え――」
「私も行く」
「あー、うん、そうくると思ってた」
菜月が言葉を遮ったところ、大貴はどこか諦めたような表情を浮かべた。
「じゃあおばさんたちに連絡して」
「うん」
そう頷いた時、授業開始五分前を示すチャイムが鳴り響いた。
すると佐々木が二人の肩を掴み、くるりと身体の向きを反転させる。
「とりあえず今はここまでだ。何かあったら俺にも連絡しろ。ほら、授業遅れんなよ」
ぽんと背中を押され、菜月と大貴は同時に、足早に歩き始めた。
菜月は大貴の横顔を見つめ、首を捻る。
「誰だろうね、その人」
「……さあ、わかんねえ」
そう返した彼の声には少しの緊張が混じっていて、菜月は心配に思いながら眉を下げた。
病室のベッドの縁に頬杖をつき、菜月は眠り続ける朱那の顔を見下ろしていた。
頭には包帯が巻かれ、頬には大きな絆創膏。何度か見舞いにくる内に、外傷は段々治ってきていた。
しかし彼女が意識を戻さないのは、頭を打っているからなのか、それとも違う何かなのか、菜月には分からなかった。
「朱那さん、早く起きなきゃ、結婚式間に合わないよ」
小さく呟いて朱那の手をぎゅっと握りしめる。
「私ね、保育士の専門学校受験するんだ。やっと進路決まったの。……朱那さんにも、もっと相談したいのに」
彼女の少し冷えた手をゆっくり撫でて、菜月はベッドに突っ伏した。
何を報告しても朱那から返事がないことが結構こたえる。寝ているだけだと分かっているが、もしこのまま朱那が亡くなってしまったらと思うと、怖くてしょうがない。
一人でいるとすぐに泣きそうになってしまうほど、菜月の心は弱っていた。今までこのような状態になることがなかったため、菜月自身も戸惑いを隠せなかった。
不意に病室の扉が開き、菜月は顔を上げた。
大貴が喋りながら近寄ってくる。
「今から看護師さんが連れてくるって――また泣いてる」
隣に立ってこちらを見下ろす大貴が苦笑し、菜月は頬を膨らませた。
「泣いてないもん」
「ほんと情緒不安定だな。大丈夫だから、落ち着け」
優しく頭を撫でられ菜月は俯いた。
大貴に触れられることが、この前から何故か気恥ずかしかった。意識しないようにしているが、顔に出ている気がして、いたたまれない。
大貴と一緒にいる間、自分がどのような表情をしているのか、全く分からなくなっていた。
「栗原さん、入りますね」
突然、病室の扉の向こうから女性の声がして、菜月と大貴は思わず顔を見合わせた。それからこくりと頷き合い、緊張の面持ちで大貴が「どうぞ」と声をかける。




