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それが少し疲れた笑顔であるのに菜月は気付いたが、視線をそらして見なかったことにした。
自分が心配しても「大丈夫だ」なんて言ってはぐらかすに決まってる。大人はいつも妙なところで強がるんだ。
「あら、先生、いらっしゃいませ」
突然、背後から母の声がして菜月は振り返った。
腰のエプロンを外しながら現れた菜月の母・純子は、ショートヘアで小柄で、よく幼く見られがちの四十代である。
「どうぞ上がってください。ってここ私の家じゃないんですけど、おほほ」
口に手を当てて純子が笑い、菜月も引きつった笑みを浮かべた。
「朝ごはん作ってますよ、先生もよかったら召し上がってください」
「本当ですか、ありがたいです」
佐々木が軽く頭を下げるのを菜月は横目で見ていた。
「いえいえ。ほら、菜月は学校行くんでしょ、何突っ立ってるの? 準備したの?」
「したよ、鞄持てばいつでも行けるの」
「じゃあ早く行きなさい」
「まだ時間あるもん」
プイッとそっぽを向いて歩き出すと、後ろから「まあ反抗期」と母の呆れた声がした。それを無視して菜月は居間へ足を踏み入れる。
そこでは大貴がテーブルについて既に朝食を取り始めていたが、その箸の進みは遅く、うつらうつらしているのが見てとれた。
彼の向かいに無言で腰掛け、菜月は頬杖をつく。
視線に気付いた大貴が眠そうな目をこちらに向けた。
「何?」
「……別に」
「変な顔」
「……変な顔してんのは大貴でしょ」
むうと頬を膨らませて睨み付けると、彼は微かに笑っていた。それからすぐに、佐々木と純子が話をしながら訪れた。
「朱那ちゃんの入院の準備はしておきましたから、病院に行くまでゆっくりしててください」
「はい……何から何まですみません」
「いいんですよ、朱那ちゃんは私たちの家族ですから」
純子が誇らしげに告げるのを菜月は背を向けたまま聞いていた。
純子は台所に行って佐々木の分の朝食を準備し始め、佐々木は大貴の隣に「よっこらしょ」とじじ臭い掛け声と共に腰掛ける。
「あ、そうそう、大貴くん」
「……はい?」
不意に純子に声をかけられ、口に運ぼうとしていた箸を止めて大貴は顔を上げた。
対面式の台所から顔を覗かせ、純子はにこりと笑って話す。
「ご飯食べたら、お泊まりの用意してね」
「お泊まり?」
あまりに唐突で理解できなかったのか、大貴はポカンとして尋ね返した。
「うん、朱那ちゃんがいない間、一人じゃ大変でしょう。だから、うちにおいで」
まるでそれが当たり前とばかりに、菜月の母はさらりと言った。
一方大貴は唖然としたまま固まっている。それに気付く様子もなく純子は直も続ける。
「学校の教科書と、制服と、それから着替えは一週間分……もいるかしら? まあ必要なものは全部持ってね」
「なるほど、篠原ん家なら俺も安心だな」
大貴の傍らで、顎に手を当てた佐々木がふむふむと賛成するように呟く。
未だ状況が呑み込めていない大貴は純子を見、佐々木を見、そして菜月に目を向けた。
別に菜月がこれを提案した訳ではなかった。両親が何も言わなかったら、その時は大貴を招いたらどうかと相談したかもしれない。
しかし純子が先に話を持ち出してくれたおかげで、菜月が行動に移す必要はなくなった。
でも無理に勧めることもしない。選ぶのは大貴だ。
その意味も込めて、菜月は視線を合わせたまま微苦笑した。
台所から出てきた純子が佐々木の前に白飯と味噌汁、塩鮭、それに玉子焼きを並べながら、大貴に向かって首を傾げた。
その様子を、菜月は黙って見守った。
テーブルに視線を落としていた彼は、しばらくしてから口を開いた。
「その……お世話になります」
大貴がポツリと呟いて頭を下げ、純子が微笑みながら「はい」と頷く。
菜月はひそめていた息をほっと吐き出した。
大貴が一人で抱え込む選択をしなくて良かった。彼に人を頼ろうとする意思があるなら、大丈夫だ。
そう安堵した途端、急に自身の気が緩みそうになり、菜月は慌てて立ち上がった。
泣きそうになった顔をそらすようにソファのところまで行き、そこに置いてあった学校鞄を持ち上げる。
「じゃあ私は学校いってきまーす」
「いってらっしゃい。気を付けるのよ」
「はーい」
居間を出ながらテーブルの三人へ明るく手を振り、菜月はスニーカーを履いて外に出た。
晴れ渡った空を仰ぎ見て、眩しさに手をかざす。降り注ぐ日の光が目に染みた。
アパートの階段を下りていると、スカートのポケットに仕舞っていたケータイが大きく鳴り響き、思わず飛び上がった。
取り出して画面を確認すれば、新着メールのマークが出ている。誰からのメールかは、着信音で分かっていた。
菜月は少し躊躇ってから、件名のないそのメールを開いた。
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泣きそうな顔してたけど大丈夫か?
無理するなよ。
いってらっしゃい。
大和たちにもよろしく。
―――――――――――――――
たった四行の絵文字すらない簡素なメール。それが菜月の我慢していたものを一瞬で溶かしてしまった。
不安を誰にも見せないようにと明るく振る舞っても、大貴にはいつも気付かれてしまう。
大貴の方が辛いに決まってるのに、自分が支えてあげなきゃならないのに、彼には助けられてばかりだ。
――こういうの隠すの下手だもんな、私……。
涙の浮かぶ目を何度も擦りながら、菜月は返事を打ち、送信した。
そして一度大きく深呼吸をし、気持ちを落ち着かせてから、ゆっくりと歩き出すのだった。
「……体育祭って気分じゃないのになぁ」
窓枠に顎を載せて、菜月はぼやいた。
眼下のグラウンドでは応援団や団体競技を練習する生徒で賑わいを見せている。
朱那の事故ですっかり忘れていたが、体育祭まであと一週間もなかった。
行事前の浮かれた雰囲気は、放課後になった今でも学校中に漂い続ける。
教室には菜月と大和の他に数人残っているだけで、他の生徒は大体がグラウンドに下りていった。光も委員会による体育祭関連の集まりがあるとかで、今はいない。
高校最後の体育祭を心から楽しもうとする彼らが、少し羨ましくて、少し妬ましい。
菜月は盛大なため息を漏らした。
「ため息何回目だ」
後ろの席に座っている大和がイライラと言う。
「ごめーん、ため息しか出ないんだもん」
そう言ってまたふうと小さくため息を吐いたら、大和に睨まれた。
その時、教室に残っていた男子生徒二人が何やらバタバタと慌てた様子でこちらに近付いてきた。
「なあ南、篠原さんも。今こいつから聞いたんだけどさ」
そう言って一方がもう一方を指差す。その指差された方の男子は、菜月と小学からの顔見知りだった。
彼を見て、菜月は急に嫌な予感を覚えた。
頬杖をついた大和が訝しげに眉をひそめた。
「なんだよ」
待って、聞かないで。
その言葉は声にならなかった。
男子生徒らは椅子に座りながら噂話をするように声を小さくした。
「栗原の親、殺されたっての、マジ?」
「マジだって言ってんのにさ、こいつ信じねえんだよ。確か強盗に入られたんだよな」
「ニュースにもなったの? 俺記憶にねえわ、そんな前のこと」
その会話にサッと全身の血の気が引いていったのがわかった。
彼らの好奇心の眼差しが怖いものにしか見えず、菜月はぶるりと震えた。
まさかこんなところで、こんな無防備に過去のことを聞かれるとは思わなかった。
一番触れられたくないことだというのに――。
俯いて両手を握り締めていると、突然ガタガタと机が動く音がし、更には誰かの悲鳴に近い声がした。
顔を上げると、驚いたことに大和が片方の男子生徒の胸ぐらを掴んで引っ張り上げていた。
「興味本意で、詮索なんかするな。聞いていいことと悪いことの区別もつかねえのか」
大和の声に、腹立たしさがにじみ出ていた。
彼の背を見つめる菜月の胸中は、感謝の気持ちでいっぱいだった。
大貴のために怒ってくれる人がいる。それだけで満たされる思いだ。
菜月は大和のシャツを掴み引っ張った。
「大和……いいよ、ありがとう。……私、帰るね」
そう告げるなり菜月は立ち上がって足早に教室を後にした。
帰り道をとぼとぼ歩いてると、突然後頭部に衝撃が走り、菜月は頭を押さえて振り返った。
いつの間に追い付いたのか、そこには大和の姿があった。どうやらまた彼が頭を殴ったらしい。
「……痛いんですけど」
「らしくねーぞ」
大和の一言に菜月はグッと息を詰まらせ、顔をそむけた。




