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『やっほー菜月ちゃん。今向かい側にいるよん』
「えっ? あ、ホントだ」
横断歩道を挟んだ向かい側に目を向けると、信号待ちする人の群れの真ん中辺りに朱那が立っていた。
彼女が軽く手を振り、菜月は手を振り返しながら尋ねる。
「朱那さんも買い物?」
『うん、友達と遊んでたの。菜月ちゃんはいいドレス見つかった?』
「そうそう、かわいいの見つけたからもう買っちゃった」
遠くにいる朱那に見せるように白い紙袋を持ち上げ、嬉々と告げる。
「今度お披露目しに朱那さん家行くね」
『あはは、楽しみにして――』
不意に朱那の声が途切れた。同時に悲鳴のような、ギリギリと耳をつんざく音が轟く。
菜月がそちらに目をやると、一台の乗用車が猛スピードで向かいの歩道へ突っ込んでいった――。
音が消えた。
耳に当てていたケータイも、周りの人たちも静かになった。何台もの車が通り過ぎていったが、その音すら聞こえない。
目の前の光景が、菜月には理解できなかった。
向かい側に立っていたはずの朱那の姿が、どこにもないのだ。
「…………うそでしょ……」
隣から光の息を呑む声が聞こえたのを皮切りに、周囲の音がどっと菜月の耳に飛び込んできた。
――事故だ!
――人が轢かれた!?
――大丈夫なの!?
喧騒が頭でガンガン響き、熱を帯びて考えることができない。
菜月はその場でよろめきながら、状況を呑み込むためにゆっくり首を振った。しかし、目の前の現実を頭から追い出すように視線は揺らいでいる。
菜月は混乱したまま、ふらりと一歩足を踏み出した。
「……菜月!? 何してるの!」
光が叫び、菜月の腕を掴んだ。菜月はそれを弱々しく振り払おうとする。
「あ……朱那さんが……っ!」
「わかってる! でもまだ信号赤だから!」
「でも……でも朱那さんが!!」
「落ち着いてよ! あんたまで事故起こす気!?」
光の怒鳴りにも近い声に、菜月はハッと口を閉じた。腕を引っ張るのを止め、信号が変わるのを歯を食いしばって待ち続けた。
こんなにも赤信号は長かっただろうか。時間が止まってしまったかのようだ。
何だか息も苦しい。
光に握られた手を、菜月は力一杯握り返していた。
大丈夫。朱那さんは大丈夫。
そう言い聞かせていなければ、自分が信じていなければ。
大貴に何と説明すれば良いの。
* * * * *
突然、全身の血の気が失せていくのを感じ、目眩を起こした大貴は倒れるようにテーブルに突っ伏した。頭の中がぐるぐる回り、息が上がる。
「どうした?」
テーブルの向かい側に座って参考書を広げていた大和が不審そうに尋ねる。
「……貧血……かも」
シャツの胸元をギュッと握り締め、深呼吸を繰り返すがなかなか治まらない。そして同時に押し寄せてくる、奇妙な不安感。
生唾を飲み込んだ時、カタンと音を立てて大和が立ち上がる気配がした。
「ちょっと横になってろよ。休憩休憩、麦茶勝手に取るぞ」
「あ……うん」
落ち着かせるように息を吐き出してから大貴はゆっくり顔を上げる。
その時突然、大貴のケータイの着信が大きく鳴り響き、思わず肩を震わせた。
菜月からの着信だ。
大貴は座り直し、恐る恐るケータイの通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『もしもしっ、栗原くん? 私、奥村です』
「……奥村さん?」
電話口から聞こえてきた声に僅かに拍子抜けしながら、軽くケータイを持ち直す。まだ動悸も目眩も治まっていない。
吐きそうになりつつも、電話口に問いかけた。
「今日菜月と遊んでるんだっけ」
『うん、あの……菜月、今ちょっと動転してて電話できそうになかったから、代わりに私が……あのね栗原くん、落ち着いて聞いて』
そう言う光の口調はどこか切迫していて、大貴の胸の内はざわざわと波打っている。
聞きたくないことを聞かされる、と瞬時に気付かされた。大貴の心構えも整わぬ内に、光が告げる。
『栗原くんのお姉さんが事故に遭ったの。私たち、偶然そこに居合わせてね……それで病院にも付き添ってきたんだけど――』
呆然とするあまり、光の声が遠退いたようだった。
お姉さんが事故に遭ったの。
その言葉だけが気持ち悪くなるくらい頭に響いていた。
長いこと何も喋らずに硬直している自分を見かねたのか、大和がケータイを奪い耳に当てた。
「もしもし、俺だ。こいつ固まったぞ。何があった?」
頭上で大和が何かを話しているのが聞こえたが、思考が働かず理解できなかった。
ただケータイが耳を離れる瞬間まで光が自分を呼んでいたのは、遠い意識の中で聞いていた。
朱那が事故に遭った。事故とはどういうことだろう。よくわからない――。
俯いていると大和にくしゃりと頭を撫でられた。それだけで僅かに落ち着いた自分がいた。
偶然でも、大和が一緒にいて良かった。一人では動転して何もできなかっただろう。
落ち着かなければ。
大貴は冷や汗の浮かんだ額を拭って身体を起こし、一度大きな深呼吸をした。
自分は落ち着いていなければ。
大貴は大和へと振り返り、
「まだ繋がってる?」
と尋ねた。その声が思いもよらず弱々しいもので内心苦笑してしまった。
大和が電話を代わる旨を光に告げ、ケータイを差し出した。
「奥村さん? さっきはごめん。今から俺も行くよ」
『ううん、いいのよ。病院は南くんに伝えてあるから……無理しないで』
「うん……ありがと。あ、菜月は近くにいるの?」
『菜月? ちょっと待って、今代わる――』
言い終わらない内に光の声が遠くなり、向こうで何か話している。
大貴はケータイを耳に当てたまま立ち上がり、ソファに置いてある鞄から財布を取り出し、それをズボンのポケットに突っ込んだ。
他に何が必要だろうと考え何気なく振り返ると、大和が自分の荷物をまとめ始めていた。
帰ってしまうのだろうか。
そうぼんやり考えた時、ケータイ越しにガサッと擦れる音が聞こえた。次いで鼻をすする音も。
「菜月?」
尋ねてみたが返事はない。
「……菜月、すぐそっち行くから。俺が着くまで、姉ちゃんの側にいてやってな」
なるべく落ち着いた、穏やかな声になるように心掛ける自分がいた。
菜月に泣かれると、正直どうしたらいいのかわからないのだ。
『…………うん』
消え入りそうな涙声で彼女が頷き、大貴はホッと息を吐いた。
自分の声は、ちゃんと届いている。
通話を切って顔を上げると、鞄を持った大和がこちらを見ていた。大貴はケータイをポケットに仕舞いながら彼に歩み寄る。
「ごめん、俺病院行かなきゃ。大和帰るだろ? あ、その前に病院教えて」
「いや、俺も病院まで行く。タクシー拾ってこう」
「え?」
キョトンとした大貴を置いて、大和は玄関へと歩いていく。
大貴は慌てて彼を追った。
「何で大和も? ……病院教えてくれたら一人で行けるのに」
「まあいいじゃん、俺も行けばタクシー代安くなるし」
スニーカーを履きながら大和は淡々と答えた。
一方で大貴は僅かに腑に落ちない表情を浮かべて大和を見つめていた。その視線に気付いた彼は、やれやれといった風に肩をすくめた。
「心配なだけ」
「……姉ちゃんが?」
「どちらかというと、お前が」
俺が? 何で?
尋ねようとしたが、それをかわすように大和はドアを開けてすり抜けて行ってしまった。
大貴は一層不可解な心持ちで彼に続いたのだった。
* * * * *
病院の待合室――手術する患者の身内が待つための部屋のようで、十人程度が座れるテーブルと椅子が置かれ、テレビも設置されていた。
そこに通された菜月は窓際にある白いソファに座って、ぼんやりと壁に掛けられた時計を眺めていた。
あの秒針が規則正しく一周するのをもう何度見ただろう。何時間も過ぎていったような気がするが、実際はまだ一時間も経っていない。
朱那は手術室に入り、今も治療を受けている。
菜月たちが朱那の下に辿り着いた時、路上に倒れた彼女の意識はなかった。
気が動転していたため朱那がどのような状態だったかほとんど記憶にないが、流れる血はしっかり目に映っていた。




