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いつもの帰り道  作者: 銀花
#01 夏の放課後
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 窓の外に目をやると、空と地面の境目に大きな入道雲が見えた。夕刻になり始めているというのに空は夏の青さに輝いていて、太陽が校庭に校舎の黒い影を落としている。

 時折、野球部の元気な声が四階まで届いてくる。


 菜月は机に頬杖をつき、ぼんやりと外を眺めながら器用にシャーペンを回していた。

 まだまだ暑いというのに教室のクーラーは消されていて、夕方といえども額にはじんわり汗が浮かんでくる。べたべたと髪が張り付いて気持ちが悪い。


 菜月の学校のエアコンは最後の授業が終わると自動的に止められてしまうのだ。だから夏の放課後は、死ぬほど暑い。文化部は大変極まりないだろう。


 そんなことを考えながら机の上に目を落とした。腕の下敷きになっていた真っ白な数学のプリントは夏独特の湿気で少し湿っている。


「はぁ……全然分からん」


 ポツンと呟き、椅子の背もたれに寄りかかって家から持参していたうちわで扇ぎ始めた。肩より少し上までの長さの色素の薄い髪が風になびく。


 扇ぎながらズルズルと下がっていき、だらしない座り方で背もたれに頭をのせ天井を見上げた。

 何もない白い天井に、クラスの男子が頑張って描いていたチョークの落書きがあった。その時の事を思い出して菜月は口元を緩ませた。担任の先生も最初は怒ってその男子生徒に「消しておけ」とか言っていたけど、結局は残ったままなのだ。


「篠原ー、プリントできたかー?」


「ぅぎゃっ」


 急な担任の登場に菜月は驚き、椅子からずり落ちた。

 それも気にせずに担任は背後から菜月のプリントを取った。菜月は床にあぐらを掻いて椅子で打った頭を撫でている。


「おーまーえーなー、プリント真っ白かよ。寝てたな」


 低い声で言いながら、担任は菜月の頭に拳を食らわせた。


「いたっ! そこ打ったとこだって! この体罰教師!」


 殴られた箇所を押さえて菜月が喚く。


 菜月のクラスの担任・佐々木は若くてかっこよく、女子生徒に人気があるらしいが、数学でことごとく世話になっている菜月にとって彼はトラウマにも近い存在である。

 一方佐々木も彼女には手を焼かされていて、自分の教え子の中では彼女だけがいつも赤点を取るため、定期テストが来るたび胃が痛むのだ。


 佐々木は額に青筋を浮かべながら菜月の腕を掴み、椅子の上へ引っ張り上げた。


「何が体罰教師だ。お前は万年赤点生徒だろうが。せっかく俺が数学の追試を無しにしてプリント提出で大目に見てやってんのに……何だ、追試の方が良いってか」


「いやっ、そんなことないですって! 今からやるんですよ! あー、追試なくてうれしいなー、ありがとー先生、大好き」


 慌てて佐々木からプリントを奪い返し、机に覆い被さった。


 一問目……出来ない、飛ばして二問目……分からない、飛ばす。三問目……本当に高校生の問題なのだろうか。四問目……数学って何?


 しばらく様子を見ていた佐々木はため息を吐いて菜月の頭を片手でガシリと掴んだ。菜月はビクッと体を震わせた。


「お前な……」


「出来るほうがおかしいんすよ」


 菜月は不服そうに頬を最大限まで膨らませた。


「出来るやつはいるんだよ、お前以外全員な」


「い、痛い痛いーっ!」


 佐々木が手に力を入れ、その痛みに菜月はまた喚いた。


「それ宿題にするからな。良いか、明日持ってこなかったら……殺す」


「殺すってあんたー、生徒にそんなこと言って良いと……ってさらに力入れんなぁぁ!」


 ギャアギャアと女らしくない悲鳴を上げる菜月の姿が面白くて、佐々木は思わず吹き出してしまった。


「まーたこの二人は騒いでるよ」


 急に笑い声がして、菜月は涙目でそっちを見た。そこにいたのは肩にスポーツバッグを掛けた男子生徒だった。


「救世主ー!」


 菜月が嬉しそうに叫ぶ。


「良いとこにきた栗原。こいつの補習プリント宿題にしたからよ、篠原が全部やるまで見張っててくれな」


 佐々木は疲れた様子をして栗原と呼ばれた生徒を手招いた。菜月は顔がパッと輝かせ、胸の前でパンと手の平を合わせた。


「それ良い! 頼むよ大貴ー!」


 菜月の懇願に、大貴はあからさまに嫌だという表情になる。


「何で俺が……」


「お前、篠原と長い付き合いなんだろ。それぐらい良いじゃないか……て言うか俺はこいつの数学の出来なさに涙が出るよ」


 佐々木が泣き真似をしながら大貴の肩を叩くと、彼は苦笑いを見せた。


「しょうがないなー」


「よっしゃ!」


 菜月がガッツポーズをする。


「……篠原。それ全部、一人で、やれよ。分かったな」


 まるで菜月が大貴に答えを聞こうとしている魂胆を見透かしたように、佐々木は言葉に力を込めた。菜月はギクッとしたが、笑って「はーい」と返事をした。一人で全部やる気など毛頭ある訳ないではないか。


「栗原、こいつに何聞かれても答えるなよ。南にも言っとけ。じゃ、俺は部活に行くから。気ーつけて帰れやー」


 ヒラリと手を振り、佐々木は教室から出て行った。菜月は彼の背中を睨んでからべーっと舌を出した。何も大貴に釘打ちしなくても良いじゃないか。


 大貴はバッグを肩に掛けたまま菜月の前の席の椅子を引っ張り出し、それを跨ぐ格好で後ろ向きに座った。


「じゃ、今からプリントやるよ」


「へ? 今から? 帰ろうよ」


 菜月はポカンとして大貴の顔をマジマジと見つめた。彼は机の上に置いてあるプリントに視線を落とし、頬杖をついた。


「菜月が補習やってる間に大和がコンビニ行くつってまだ帰ってきてないんだ。だから大和が帰ってくるまで、はい第一問」


「うううう……大和めぇ、ハーゲンダッツおごらせてやる」


 菜月は唸りながらもシャーペンを手に持ち、プリントに目を向けた。問題を読んでしばらく考え込む。


「あの大貴さん……コサインて何ですか」


 早速、菜月は大貴に質問を投げかけた。大貴が見た彼女の顔はいたって真面目だった。


「お前……そこからかよ。授業中何し……寝てるとこしか見たことないけどさ」


「えぇ寝てますが」


 何か問題でも、と言わんばかりに菜月がニコリと微笑む。大貴は脱力して机に置いた腕に頭を乗せた。


「先生が哀れだ」


「いやいや私を哀れんでほしいんだけど。もーね、サインとかコサインとかルートとか、訳分からんのよ」


「いっそ小学生からやり直せば?」


 大貴がからかうように笑った。その笑い方は幼い頃と全く変わらなかった。


 彼、栗原大貴は菜月の幼馴染だ。真っ黒なストレートの髪が印象的で、優しい表情が似合って、身長は菜月とも然程変わらない。今は訳あって離れてはいるが、昔は家も隣同士で何かと互いに出入りし合ったし、家族ぐるみで仲が良かった。ちなみに幼稚園から高校までずっと同じ学校である。

 生まれた時からほとんど一緒にいるから、お互いいて当たり前のような存在だった。


「大貴ぃ、お願いだからさー、せめて解き方教えて」


 菜月は大貴と目の高さを合わせるように屈み、「ね?」と小首を傾げた。すると急に大貴は真剣な顔になった。


「先生に何聞かれても答えるなって言われたし」


「うわっ、薄情者! 可愛い幼馴染が留年しても良いって言うのか、こんちくしょー! これだから頭が良いやつは! ムカつく! あんたもバカになれ!」


 菜月は怨念を込めながらバシバシと大貴の頭を叩いた。


「ちょ、こら、マジでバカになりそうだからやめろ」


 大貴は頭を起こして菜月の手から逃れるように、身体を遠ざけた。


「いーもん、もうやらないもん、帰ってからやるもん」


 ムスッと頬を膨らませ、菜月はプリントを乱暴に折り曲げ空っぽの鞄に突っ込んだ。何も入っていない菜月の鞄の中身を見て大貴は笑う。


「何も入れてないってお前、学校に何しに来てんだ」


「弁当食べに」


「小学生か。せめてノートとか持っとけよ」


「ふんだ、教科書もノートも全部ここに入れてるもん」


 そう言って菜月は自分の机の中を指差した。そこにはギュウギュウに詰め込まれた教科書があり、無残な姿になっていた。


「教室掃除のやつらが言ってるぞ、菜月の机はいつも重いってさ」


「筋トレになるじゃん?」


 全く悪びれてない様子で、菜月がニヤリと笑う。大貴も声にして笑った。


「筋トレって。まあ、俺教室掃除じゃないから別に良いんだけどな」


「あはは、私も違う。てゆか大和いつになったら帰ってくるんだろ。エロ本でも立ち読みしてたりして」


 菜月がそう言うと、大貴は笑ったまま何も言わなかった。


「誰がするかボケ」


 背後から大和の声がして菜月は飛び上がらんばかりに驚き、慌てて振り返った。


「うわ、ビックリしたぁ、もう。いつからいたの」


「さっきから」


 大貴の隣の席に座って大和はコンビニの袋を広げた。


「ほら、大貴の」


 袋からアイスを取り出し大貴に渡した。


「サンキュー」


「あーっ! ちょっと! ハーゲンダッツじゃん! 私には!? 私にはないの!?」


 菜月は大和のほうへ身体を乗り出し、彼から袋を奪おうとした。しかし伸ばした手は空を切った。大和がハッと鼻で笑う。


「ねぇよ。誰がお前に買ってくるか」


「ケチー! 黙ってバイトしてること先生に言うからねー!」


「言えるもんなら言ってみろ」


 言い合う二人を見て、大貴は苦笑した。いつもケンカ腰で接する菜月と大和は、仲が良いと言えるのか不明だった。


「むぅー、待たせたのそっちのくせにーっ」


「元はと言えば菜月のその中身のない頭のせいだろ、赤点なんか取りやがって」


 大和がそう言うと、急に大貴が吹き出した。


「笑うなそこ!」


 菜月が怒った表情で大貴を指差した。


「ごめん、会話がバカっぽくて。大和、早くしないとアイス溶ける」


「バカっぽいって俺もセットかよ」


 大和が不満そうに大貴に目をやった。彼はすでにアイスの包みを開け、一人食べ始めていた。大和はため息を吐いて袋から自分の分を取り出し、袋ごと残りを菜月に放り投げた。


「え、え、何?」


「あ? アイスだよ。いらねえなら返せ」


「え、え、うわっ! ホントだ! さすが! てゆか当たり前だけどね」


 ビニール袋の中にはハーゲンダッツが一つ入っていた。

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