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九月になり、夏休みが明けた。
二学期は体育祭や文化祭などの行事が目白押しだが、三年生には受験に向けての補習が本格的に始まる時期でもある。
朝には自習時間――と銘打った全員強制参加の学習時間――が設けられ、来月からは放課後、そして土曜にも補習が入る。
朝のホームルームで佐々木がそれを伝えたところ、教室中からため息が漏れた。
「ため息吐きたい気持ちもわかる。だけどこればっかりはお前らが頑張らないといけないことだ。諦めろ」
書類の詰まったファイルを閉じ、佐々木は更に続ける。
「それから今月末は模試がある。体育祭と文化祭に挟まれてるから、気を抜かないようにな。連絡は以上だ。あ、進路調査のプリントは早めに出してくれ」
はいホームルーム終わり、と言って佐々木は教室を出ていった。同時に教室中がざわめき始める。
菜月は机に顎を載せ、A4サイズの紙を眺めた。
第三回進路調査、と一番上に書かれていて、その下に志望進学先や就職先を書く欄がある。
――進路か……。
菜月は未だに決めあぐねていた。進学するか就職するか、そのことですらまだ悩んでいる。
大学に行くには悲しいことに頭が足りないので、進学するとしたら専門学校になるだろう。しかし自分が何をやりたいのか分かっておらず、どのような学校に進めばいいのかも分からない。
大貴と大和は地元の大学――しかも二人とも医学部を目指すという話でびっくりだ――で、光は同じ大学の教育学部を志望していると聞いた。
皆、先を見ているんだなと、少し置いてけぼりを食らっている感じがして、言い様のない焦りに襲われた。
――とりあえず自分に向いてそうなこと探してみるか……。
菜月は目を閉じて、盛大にため息を吐く。
すると後ろから背中をトントンと叩かれ菜月は振り返った。光が教科書類を準備してこちらを見ていた。
「一時間目、生物だよ。移動しよ」
「あーそうだったねぇ」
もたもたと教科書とノートを取り出し、進路調査のプリントを鞄に突っ込んだ。
菜月が立ち上がるのと同時に光が尋ねた。
「進路決まった?」
「ううん、まだ」
「……私と同じ大学は?」
「無理無理、いつもD判定だし。それに大学行ってもやりたいことなかったら意味ないよ。まだ時間あるから、ゆっくり考える」
そう言って菜月は肩をすくめてから歩き出した。まだ時間があるといっても、タイムリミットが近いことはもちろん分かっている。
光たちと同じ大学を考えたことがないわけではない。しかし学部を見てもどれもピンとこないのだ。
教室を出て、しばらく歩いてから菜月は光へ振り返った。
「光さ、今週の日曜日って空いてる?」
「日曜? 空いてるよ。どっか行くの?」
「結婚式に着るドレス見に行きたいんだ。光も一緒に行かない?」
「ああ、栗原くんのお姉さんのだっけ。式ってクリスマスじゃなかった?」
光が不思議そうに首を傾げ、菜月は笑いながらぷらぷらと手を振った。
「まだ買わないよー。でもお母さんが早く目星つけときなさいって言ってたから、見ておこうかなって思って」
「ふぅん。わかった、いいよ」
「やったー。土曜にメールするね」
「はいはい」と頷く光の隣で、菜月はうきうきとした足取りで生物室に入っていった。
この日の放課後、菜月は大貴のアパートを訪れていた。しかし大貴は今はいない。
実は彼は、夏休みから空手道場の先生の手伝いを始めていて、夏休みが明けてからも続けていた。
菜月も中学まで通っていた道場だ。そこの先生に「小遣いやるから手伝ってくれ」と言われたらしい。まあいわゆるバイトなのだが、大きな声でバイトと言うのはよろしくないので――バイトをする際は学校の許可がいる――手伝いと言い張っている。
今日もその手伝いに行っている。聞けば大貴は高校生になってからも、何度か道場に通っているようだった。朱那も高校まで空手をやっていたし、この姉弟の性に合っているのかもしれない。
それにしても何で自分には声を掛けてくれなかったんだ、自分だって段を持っているのにと、菜月はふてくされていた。
「菜月ちゃん、コーヒー飲む?」
不意にテーブル越しに朱那が尋ねた。
彼女は珍しく早い時間に仕事から帰ってきていて、テーブルについてノートパソコンを広げている。
「私コーヒー駄目なの」
「じゃあカフェオレ作ってあげる、冷たいの」
そう言って空になったマグカップを持ち、朱那は立ち上がった。
台所へ向かう彼女を見送り、菜月は短くため息を吐いた。菜月もテーブルについて、進路調査のプリントを眺めていた。
今日は珍しく数学以外に宿題はなく、のんびりと漫画を読んだりしているのだが、やはりこれが気になってしまう。
マグカップとグラスを手に、朱那が戻ってきた。
「はい、朱那さん特製とっても美味しいカフェオレどうぞ」
「あはは、ありがとう」
菜月は笑いながらグラスを受け取り、椅子に腰掛けながら朱那が尋ねた。
「さっきから何眺めてるの? 宿題?」
「ううん、進路調査」
「ああ、菜月ちゃん進学だっけ?」
「んー……まだ決まってなくて」
グラスを両手で掴み、視線を落とした。「そう」と呟き、朱那はコーヒーを口に含んだ。
「……朱那さんってさ、就活はいつ頃から始めた?」
「そうだね……秋……冬前ぐらいだったかな。本当は進学する予定だったから、ちょっとバタバタ気味に始めたよ」
「……そっか」
朱那と大貴の両親は、六年前のちょうどこの時期に亡くなった。朱那は高校三年生だった。
彼女が大学進学を希望していたことは菜月も聞いていたし、大学生になる彼女を幼いながら憧れていた。しかし朱那は就職を選んだ。大貴の面倒を見ると決めたのだ。
「でもやっぱ何か資格を持ってた方がいいんじゃない? 農業とか商業ならまだしも、普通科は強みがないからね」
「そうかなぁ、私何がしたいかもわかってないんだよね」
「えー? 夢とかないの?」
そう言って朱那が笑い、菜月はうーんと唸った。
「……お嫁さん」
「大貴の?」
「ち、ちが、う」
ニヤニヤとする朱那に、菜月はかぶりを振ってみせた。しかし顔はほんのり赤くなっている。
「だってあんな仲良しじゃない。菜月ちゃんがうちの弟貰ってくれないと、私死んでも死にきれないな」
「死んでもって……朱那さんからかってるでしょ」
「ふふふ、さあ」
にこりと笑って朱那は頬杖をつき、話を戻す。
「菜月ちゃん、人と関わるお仕事が向いてると思うな」
「人と? 例えば?」
菜月は興味津々に身を乗り出す。
「保育士とか、看護師とかさ。そういうの合ってそう」
「なるほど。OLよりは想像しやすいかも。あ、動物相手も楽しそうだな」
「ああ、トリマーとか、よさそうだね」
朱那がうんうんと頷きながら答えてくれ、菜月はホッと笑みを漏らした。
「そっかー。そういうのも有りなんだ。明日学校行ったら専門学校のパンフ見てみよ」
そう意気込むと、朱那が優しく微笑んだ。
「この時期、三年生はみんな悩むものだよ。菜月ちゃんなら大丈夫、頑張って」
「えへへ、ありがとう」
菜月はぽりぽりと頭を掻いた。すると唐突に朱那がため息を吐く。
「私は菜月ちゃんより大貴の方が心配だよ……医学部って、そんな頭あるのかあいつ……」
「私よりは遥かに頭良いけどねぇ。判定はAとBを行ったり来たりしてるって言ってたし、大丈夫なんじゃない?」
「その不安定な感じがイヤなのよぅ。受験が終わるまで私の胃は痛み続けるんだわ」
「あはは、大貴も頑張るって。何とかなるよ」
笑い声を上げ、菜月はグラスに口を付けた。朱那が作ったカフェオレは、牛乳が濃くてほんのり甘く、コーヒーが苦手な菜月でも美味しく飲むことができた。
「あれ……今年って七回忌だっけ」
何やら考え込みながら朱那が呟き、菜月は首を傾げる。
「あ、うちの親のこと。法事って面倒だよね……おばあちゃんが勝手にやってくれるかな」
ふうと疲れたようなため息を吐く朱那を見つめ、思考を巡らす。
両親が亡くなってから、栗原姉弟は親戚の家に引き取られていた時期があった。しかし諸々の事情があり、親戚の家を出てこっちに戻ってきた。それ以来、親戚たちとは疎遠になってしまったと聞いている。
実のところ、朱那が高校を卒業するまで二人は菜月の家族と共に暮らしていた。
互いの両親は古くからの親友同士で、家も隣同士で、家族ぐるみで交流してきた。その縁もあって、菜月の家が二人を引き取ったのだった。 菜月の両親は自分の子どものように二人を可愛がり、そして今でも何かと世話を焼いている。
菜月はテーブルに視線を落とし、申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめんね朱那さん……イヤなこと思い出させちゃった……?」
「ううん、大丈夫よ。菜月ちゃんこそ、気分悪くなったりしてない? トラウマになってるんじゃないかって、私ちょっと心配してたんだけど」
朱那が首を傾げる。