2
「何でこんな鈍感なんだよ。ったく、これだから……もういい、詳しくは今度いう」
「な、何なのよ。すごいバカにされた気分なんだけど」
「今度いうっつったろ。あと、今日は勝手に帰るなよ」
「……まさか一緒に帰るとか言うんじゃないでしょうね」
光がわなわなと唇を震わせるも、大和は平然と頷く。
「そう」
「はあ!? どうして私があんたと帰らなきゃならないのよ!」
僅かに顔を赤らめ、光は思わず腰を浮かせた。一方で大和は呆れたような表情をしていた。
「もう少し自覚しろよ……放課後も俺はここで勉強する、お前もどっかで勉強してろ。人がいなくなってから帰った方が都合いいだろ」
「そうだけど……って勝手に決めないで」
「今日だけだから。場合によっちゃ明日もそうなるかもしれないけど」
「……菜月はいちゃダメなの?」
そうだ、菜月がいればまだ気は楽だ。しかし大和はうーんと唸って頭を掻いた。
「菜月がいると話こじれるんだよな。それにもしもの時あいつのことまで面倒見れないし……いやその必要はないと思うがあいつに何かあったら俺の身が危うい」
大貴的な意味で、と大和はぶつぶつと呟く。
彼が何を言っているのか光にはさっぱり分からなかった。
「とにかく、今日は一人で帰るな」
もう一度念を押され、光は頷くしかなかった。
放課後、誰もいない教室で光は勉学に励んでいた。
ホームルームが終わって菜月もしばらくは残っていた。彼女に昼の旨を話したら何故か笑われ、「がんばれ」と一言いわれただけだった。菜月と大貴は先に帰ってしまった。
光はシャーペンを置いて、頬杖をつく。
日は沈んでいるが窓から見える空はまだ明るい。夕方を過ぎてもやはり空気は熱を帯び、クーラーの止まった教室は蒸し暑かった。
日が沈む前には戻ってくると大和は言ったのだが、未だに姿を見せなかった。
もう先に帰ってしまおうか。
そう投げやりに考えたとき、教室前方のドアが開いた。目をやると、そこにはクラスメイトの男子生徒が立っていた。名前は西川といい、見た目は優しげだが活発的な――クラスのムードメーカーの一員を担えるような――類の生徒だった。
彼は光を見て微かに笑う。
「奥村さん、まだ帰らないの? 勉強、偉いね」
「勉強もだけど、人を待ってるの……なかなか戻ってこなくて」
光は肩をすくめた。一方で西川は尋ねながら近寄ってくる。
「待ってるって、南を?」
ピンポイントで名を当てられ、光は奇妙な声を発した。
「……否定しないんだね」
低く呟かれた西川の言葉を光はよく聞き取れなかった。
側に立つ彼を見上げてふと気付いた。自分は男子と親しくすることにあまり慣れていない。
大和や大貴とはよく話すのにおかしくないかと思ったが、それは単に二人と接するのに慣れているからで、二人に慣れることができたのは菜月という橋渡し的存在があったからだ。
他の男子生徒と一対一で話をするのは今までほとんどなかった。何とも希な境遇に自分はいたものだと、少しおかしくなった。
しかしそれに気付いたからといってすぐに打ち解けられる訳もなく、逆に居心地悪さすら感じてしまった。西川もあまり喋ったことのない相手だった。
光が無意識に座り直すと、西川はまた口を開いた。
「奥村さん、本気で南と付き合うの?」
「えっ?」
唐突な問いに顔が熱くなるのを感じた。
光が当惑しているのにも関わらず、西川はなおも続ける。
「南って昔から暴力沙汰起こしてたって聞くし、今でも恐喝してるって噂だよ。南が学年トップで居続けられてるのは、成績上位の人たちを脅してるからだって」
「な――」
光は絶句した。そのような噂が立っているとは思いもよらなかった。
大和の中学時の暴力沙汰については知っているし、高校に上がってからは菜月から笑い話として聞かされたこともある。そう、もうすでに笑って済ませる話なのだ。
その話をこうやって別の人から聞かされ、光は驚いていた。
しかし高校で彼が悪事を働いているとは聞いたことはなく、脅しだとか恐喝だとか、そんなことをしていたらまず菜月や大貴が許さないだろう。
第一、大和のことはそれなりに近くで見ているのだから、何かあれば光でも気付くはずだ。
それに何より、大和は光にとってはライバルでもある――と思っている。脅しでトップに立つような人間をライバル視するはずもなければ、負けるはずもない。
光は微かに眉を上げ、西川を見つめた。
「その噂は事実なの?」
「さあ、噂は噂だよ。でもそんな噂を立てられるなんて、俺はあいつの人間性を疑うね」
悪びれもせずに彼はずけずけと言う。
光はあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
「ただの噂かもしれないのに、それを広める貴方はどうなの? 貴方はあの人の何を見てそう言ってるのよ」
光の言葉に西川はぐっと息を詰まらせたようだった。
光は盛大にため息を吐き、シャーペンをペンケースに仕舞った。そして鞄に参考書等を放り込み、立ち上がった。
「私、陰口って嫌いなの。じゃあね」
そう言って立ち去ろうとすると、突然腕を掴まれ光は仰天した。慌てて振り返ると、西川が険しい表情でこちらを見ていた。
「俺は奥村さんのことを思って……」
「心配ご無用よ、離して」
「離したら南のところに行くんだろ。そんなの許せない」
「何で貴方の許可がいるの? おかしいでしょ」
腕を振り払おうともがいてみるが、余計に力を入れられ西川の指が食い込んだ。痛みに光の顔が歪む。
「俺、奥村さんのことが好きなんだ。南になんか渡したくない」
「痛い、離してよ」
「離したら、俺と付き合ってくれる?」
――何言ってるのよこの人は……。
理不尽な要求に光の憤りは募っていく一方だ。話し方にもつい刺が混じる。
「貴方と付き合うことなんて、一生ないでしょうね」
ふんと鼻で笑うと、突然西川は光の顎を乱暴に掴んだ。そして僅かに顔を近付けるとニヤリといやらしく口の端を上げる。急に豹変した彼に光はたじろいだ。
「なら力付くで手に入れるしかないじゃん」
そう言って、西川が唇を寄せる。
慌てて顔を引きキスから逃れるが、それでも西川は強引に迫ってくる。光は自由な方の手で西川の顔を押し退けようとした。
「ちょっ、やめてよ!」
片手では敵いそうになかった。顔をそらそうにも顎を固定されていて不可能だった。避けようと身体を捻ると腰が机に当たり、体勢を崩してしまって余計に逃げ場を失った。
息がかかるくらいにまで西川の顔が近付いてきて、光の全身があわ立つ。
――気持ち悪い……!
光はじたばたと抵抗した。
「やだっ!」
そう叫んだとき、急に西川の手の力が弱まった。
顔を上げると、西川の背後に立つ大和が、西川の首に腕を回しギリギリと締め上げている。
「嫌がってる女に無理やり迫るなんて、クズがやることだろ」
「ぎ、ギブギブ……!」
息ができないのか西川の顔は今や青ざめ、大和の腕を弱々しく叩いている。その様子を光は呆然と見ていた。
大和は爽やかに笑い、腕に更に力を入れた。
「どんな噂流そうが、それはただの負け惜しみだろ。関心すら持てないな。ああそうだ、これは流してくれてもいい」
そう言って大和は西川の耳に口を近付け低く呟いた。
「奥村に手を出すやつは俺が殺す。特に男子共に広めてくれよな、よろしく頼むよ」
パッと西川を離し、大和は光に目をやる。
「おい、帰るぞ」
「えっ、あ、うん」
教室のドアへと向かう大和を、光は慌てて追った。
西川のむせて咳き込む音が遠くから聞こえたような気がした。
「戻ってくるの遅くない?」
大和の隣に並びながら光は尋ねた。大和が早く戻っていればあのようなことは起こらなかっただろうに。
「俺も捕まってたんだって……何で女子ってあんな群がるんだ」
「知らないわよそんなこと」
つっけんどんに言って光はぷいとそっぽを向いた。
手が、震えていた。
男の人に詰め寄られるなんて生まれて初めてだった。しかもあんな、キスを迫られるなんて――思い出すだけでぞっとした。
腕を擦っていると、くしゃくしゃと頭を撫でられ光は大和を見上げた。そして少し頬を膨らます。
「……何なの」
「別に、何か泣きそうな顔してたから」
最後にポンポンと優しく撫でてから大和は手を下ろした。
「泣いたりなんかしない。ちょっと……怖かっただけだもん」
「そっか」と呟いた彼は微かに笑ったようだった。
本当は恐怖を抱いたことよりも、大和の顔を見て安堵したことが大きかった。




