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どんどん日は過ぎ行き、気が付いたら夏休みが始まっていた。
しかし菜月の学校は全学年に夏期補習があり、まだ暫くは学校が続く。三年の菜月達には進学受験が待ち受けているため、補習授業と通常授業との時間割に大差はない。体育がないくらいだ。
板書を取り終えた菜月は、軽くため息を吐いてシャーペンを置いた。この授業を乗り切れば、今日の補習が終わる。ノートの上に頬杖をつき、窓越しにぼんやりと空を見上げた。雲一つなく、相変わらずの快晴だ。
進学のために補習を受けている。しかし菜月は進学先を決めている訳でもなく、やりたい事が見つかっている訳でもなかった。
だから菜月にはこの補習が意味のないものとしか受け取れられず、ただの学校行事のようなものと思いながら教室にいた。
聞くところによると、大貴も光も、あの大和さえも大学進学を目指しているとのことだった。 菜月は自分のペースを守ろうと思ってはいるが、身近な人達が進路を決定していると知ると、自ずと焦りのような感覚がこみ上がってくる。
自分のやりたい事って何だろう。
それが授業中ふとした時によく考える事だった。その内見つかるだろうといつも放っていた自分が、少しだけ悔やまれる。
悶々と考え込んでいたら授業終了のチャイムが鳴った。菜月はもう一度ため息を吐いた。
宿題の量にうんざりしながら、菜月は校庭を歩いていた。特に数学にうんざりしていた。どうして自分が理系を選んだのか、不思議でならない。
菜月は少し前を歩く大貴と大和の姿に目をやり、大きく肩を落とした。二人の頭脳をちょっとずつ分けてもらいたいとさえ思った。
俯き加減に歩いていたら大和が立ち止まったことに気付かず、菜月はそのまま彼にぶつかった。
「……ちょっと、痛いんだけど……大和?」
菜月がぶつかったにも関わらず、大和は振り向きもせずにただ立っていた。菜月は首を傾げて背後から大和の顔を覗いた。彼は一点を見つめて動かない。
大和の視線の先を追って菜月も目を向けると、校門の前に女の子が一人佇んでいるのに気付いた。どうやら大和はあの女の子を見ているようだ。
大和の顔を見上げ、菜月はもう一度彼女を見た。
「あの人知ってる人?どこの制服だっけ、この辺じゃ見なくない?」
大和の袖を引っ張りながら、菜月は尋ねた。大貴の方もチラと窺ってみたが、大貴もあの女の子が誰なのか知らないようで怪訝そうに大和を見ていた。
大和は大和で何も喋ろうとしない。
しばらくが経ち、それでも動こうとしない大和を不思議に思いながら、菜月と大貴は目を合わせた。
「――――そんなとこに立ち止まって、三人共何してるの?」
突然背後から光の声がして、菜月は振り返った。
「帰らないの?」
近寄って来た光が首を傾げる。
「だって大和が動かないんだもん」
そう菜月が告げると、光は怪訝そうに大和の背中を見上げた。途端、大和が口を開いた。
「…………めぐみ!」
大和が怒鳴るように名前を呼ぶと、校門前の女の子がビクリと身体を震わせた。めぐみと呼ばれた彼女は、驚いた顔で菜月達の方へ振り向いた。
「めぐみ?」
菜月がポツリと呟くと、大和が少しだけ振り返った。
「先に帰るわ俺……話は明日にでもするから」
大和の顔には困惑の色が見て取れた。不審に思った菜月が口を開きかけた時、大貴は片手を上げてそれを制した。
「わかった」
大貴がそう一言頷き、大和は大貴と目配せし合ってからめぐみの方へと歩いて行った。
その後ろ姿を菜月と光は無言で見送った。
めぐみの下に大和が辿り着くと、二人は何かを言い合い、大和がめぐみの腕を引っ張って足早に去って行ってしまった。
菜月はポカンとして、彼らの様子を見つめていた。そして二人が見えなくなってすぐに大貴の腕を掴んだ。
「何? 何あれ! めぐみって誰!?」
菜月が騒ぎ立てると、大貴は少し困ったように顔を向けた。そして躊躇いがちに口を開く。
「多分だけど……大和がこっち来る前にいた中学ん時の彼女……だったはず」
「は!? 元カノ!?」
菜月は驚愕の表情で大貴を見上げた。
「何で今更!?」
「いや俺に聞かれても……」
菜月と大貴は恐る恐る、光の様子を伺った。
大和達のいなくなった校門を見つめていた光は二人の視線に気付き、眉間に皺を寄せた。
「……何よ」
「や、気になるかな、と思って、元カノ」
菜月は途切れ途切れ尋ねた。光がため息を吐く。
「私には関係ないことでしょ、どうでもいい」
そう冷たく言い放ち、光は校門へと歩き始めた。すぐに光の姿も見えなくなった。
取り残された菜月と大貴は、お互いに目配せしてから同時に歩き出した。
「……修羅場に遭ってしまった気分」
ボソリと菜月が呟く。隣で大貴が苦笑した。その彼の横顔を菜月は覗き込んだ。
「大貴は聞いてたんだね、大和の元カノのこと」
「あー、たまに大和にメールがきてるからね……今でも」
「あの元カノから?」
「そう」
大貴が頷く横で菜月は愕然とする。
「どれだけ大和に未練があるの……あの大和に」
「別れた理由は聞いてないけど……お互いに嫌いになって別れた、とかではなさそうだよなぁ」
考えを巡らせるように大貴が空を仰ぐ。菜月も同じように夕空を見上げた。
「そうなのかなぁ……何か一波乱ありそうな予感」
菜月がぐったりと呟いた。
「……ないことを祈っとこう」
大貴は自分に言い聞かせるように、しかし頷きながら返した。
そのまま何も喋らずに歩き続けた二人は、暫くしてから同時に口を開いた。
「光が……」
「奥村さんが……」
菜月と大貴が考えていたことは同じだった。二人はまた同時にため息を吐いたのだった。
翌日、大貴のアパートの部屋で大和はうつ伏せに倒れていた。
朝早くに大和は大貴の下を訪れ、それからずっとこの状態である。今日は土曜日であり学校の補習はない。朱那は既に仕事へ出た後だったため、やかましくならずに済んだことが何よりである。
しかし大貴は自分だけでは対処不能と判断し、思わず菜月にメールを送った。返信はなかったが、今菜月は倒れる大和を見下ろしている。
「ねぇ、ちょっと。私まで巻き込むってどういうこと。今日土曜日だよ? 学校ないんだよ? 昼まで寝てたかったんだけど!」
倒れたままの大和に向かって菜月はイライラと文句垂れた。その後ろで麦茶の入ったグラスを片手に大貴は苦笑した。
「ごめんメールして、はい麦茶」
「ホントだよね、何で私呼ぶかな、ご飯も食べてないんだけど」
そうブツブツ言いながら菜月はグラスを受け取り、それに口を付けた。
「だからごめん、て」
大貴は短く息を吐き、大和の傍らにしゃがみ込んだ。そして大和の頭をポンポンと軽く叩く。
「おーい、大和、いつまでもそうしてないでさ。話あるなら聞くから、起きろよ」
そう言って大貴が大和の顔を覗き込む様子を、菜月は麦茶を飲みながら眺めていた。
大和がここまで疲弊しきっているのは初めて見たかもしれない。いつも横柄なあの大和が。弱りきった大和には、正直違和感を覚える。しかし理由の大体は予想出来ていた。
菜月はため息を吐いてグラスをテーブルに置いた。そして大和を挟む形で大貴の向かいにしゃがんだ。
「大和ー、めぐみって子と何かあったの?」
菜月がそう尋ねると大和の手がピクと動いた。だが大和は沈黙を貫いている。菜月は大貴と一度視線を合わせた。
「……大和、大貴も困ってる。いつまでもだんまりしてるなら追い出すよ」
語尾に力を、もとい怒りを込めて菜月は言った。途端、大和の口から長い大きなため息が漏れた。二人は、大和が何かを話すのを静かに待った。
暫くしてから大和がゆっくりと大貴の方へ顔を向け、口を開いた。
「……夏休みいっぱい……こっちにいるって言い出しやがって……」
「はぁ? 何でまた」
聞き返したのは菜月だった。
「俺が聞きてぇよ……」
大和は低く唸って床に額をごりごり当てていた。
「もう昨日ずっと説得してて疲れた」
菜月はまた大貴と視線を合わせた。どうやら大和は余程疲れているらしい。良く良く見るとそれが顔にも表れている。
それにしても何故今更、何年も前に付き合っていた元カノがまた大和に言い寄ってきているのか、菜月には疑問だった。大貴が言ったようにお互い嫌いになって別れた訳でなかったにしても、数年も経てば諦めもつくものじゃないだろうか。