08 国王と黒衣の侵入者
しちめんどうくさい言葉をこねくり回した文章が続きます。
「なんだよ、めんどくせぇな。読んでらんねぇよ」と思った方、ごめんなさい。
露台から吹き付けてきた風の気配に国王は振り返った。
上質な絹布の窓掛けが風の声に唆されて、波打つようにどこか楽しげに踊っている。
――翻る衣
漆黒に染められた夜の帳
白く冴え冴えとした月の光と、不可思議なその吸引力
唐突で正体不明の既視感にユリウスは軽い眩暈を覚えた。
どこか陶酔にも似たその感覚にほんの数瞬我を忘れる。側で自分を呼ぶ声に反応できなかった。
「……いか……国王陛下?」
ハッとしてユリウスは顔を戻した。真摯な青い目が自分を見つめている。
「どうか致しましたか? 国王陛下」
「……いや、何でもない。少し、ぼおっとしてしまったようだ。年かな?」
そう笑った国王に、ジュリアもご冗談を、と笑う。
「珍しいですね。陛下がそのように自失なさるのは」
「すまなかったな。報告を続けてくれ」
「はい。……本戦出場者は例年通り十二組二十四人。それに対して出場志願者は例年以上の八百人余り。他国からわざわざ出向いた者達が多かったようです。残った二十人の内、半分は外の者ですね。とは言え、今現在勝ち残っているのは八人四組。明日の準決勝で決勝進出者、四名二組が決定します。決勝は明後日の早朝。即日協議の結果、御前試合が催されるのなら、明々後日となります。ちなみに、今残っている八名の内、三人がマダリアの者です。ファマグスタ領、スクワード領、そして、ここ王都アレス」
マダリアには王都アレスのある直轄領の他に、四つの領がある。
すなわち、アレスのある王領を囲むように東西南北にそれぞれ位置する、ファマグスタ領、ザールラント領、スクワード領、ヘンベル領である。これがマダリア王国の四大貴族領であり、その領主を務めるのが四大公と呼ばれる者達だった。
マダリアにはこの四つの他に貴族と呼べる存在がない。現国王が今まで所々に散らばっていた諸々の貴族とその所領を全て廃し、新たにこの四つの領と公とを置いた。いわば、まだできたばかりの新興貴族であるこの四大公は、狂瀾怒涛の擾乱期を経てこの四つに纏まったのだ。
だが、貴族と言っても、それまで累代を墨守してきた由緒ある伝統貴族達と、この四大公は全く異なる存在だった。
彼ら四大公は全て王都アレスの国王に帰化している、実質的な王臣なのである。貴族という認識は、四大公のものではなく、その下にいる民によるところが大きい。
彼らは国王に代わり、王の土地を守っている。あくまで、彼らの預かっている領地は国王に帰属されるものであり、四大公は経世済民のために王を助ける王の純臣であり、顕然たる主従関係のもと、王によって統括されている存在だった。
その証拠に、四大公の決定権は中央政府である国王に委ねられており、その任期も永続的なものではなかった。つまり、旧来の貴族達のように、血統的に踏襲されていく類のものではない。王に信認された者だけがその地に就くことができ、彼らは、国のためという意識の下、与えられた領土を治めていた。
四大公は臣下として国王を慕い、王に信ある自分達に誇りを持っている。決して自己の利益に走る者はいない。そのため、この五つの地の相互佑助・親交度は相当に深く、まさしく国一丸となった状態と言えた。
直接統治を自ら行うのではなく、自身の家臣に領土を管理させながら、彼らの君主として上に立つことができる、その徳望。これこそが、二十七代目国王、ユリウス=シーザーが希代の英主と称えられる所以である。
彼は幼少時代、青年時代と、王家に生まれながら決して恵まれてはいなかった。
両親とも、彼が十代の頃には鬼籍に入り、近しい庇護者のいなかった彼は王位継承者でありながら、厄介者扱いされてきた。
強い指導者のいなかった国は、私腹を肥やすことだけに執着した家臣の専横で混乱を極めた。いくつもの派閥に分かれた権力争いの中で、民は忘れ去られ、国風は乱れて犯罪が横行した。
だが、国はその状況に何の政策も打ち立てようとはしなった。
打開策も与えられず無為無策のまま見捨てられた民の間で紛争が起きそうになった。ひとたび内乱が起きればもう歯止めは利かない。長い混乱を経て、国は滅びの道を辿るだろう。
そこで立ち上がったのがユリウスだった。
国を憂える者達が彼の下に集まった。そのほとんどは王侯貴族とは程遠い、地方の農夫や商人に職人、世過ぎの流浪人達だった。
王は、自身が王家の者でありながら、王族の生命線である血統至上主義に反駁した。
――国とは、その土地に住む、全ての民のものである。
それを搾取することは、いかに長きに亘り王家を支えてきた者達でも許されない。
国王とは国の柱となり、民のために国の進むべき道を深慮する存在であり、民を虐げ奴隷の如く扱う主人ではない。
それを差し違え、民を奴婢の如く使役する事を王の特権とし、国の体面ばかりに気を取られ考えるべき民政を疎かにして、またその愚かな誤りに気付かずそれを当然のことだと考え、民を顧みる事を忘れた者に、王を名乗る資格はない。
君主とは、人の上に立つ者の事を言う。
上に立つとは、民を虐げることではない。〝上と下〟とに固執し、他を蹴落とし己を上に持ち上げようとする者、またその己が上の地位に安住してばかりの者は、決して国を支えることはできない。
〝下〟は〝上〟を支え、〝上〟は〝下〟を先導する。
上下関係というものは本来そうしたものだ。民は王に導かれ、王もまた、民に支えられて存在している。決して、一方通行の奉仕ではない。そうして、国とは成り立つのだ。
君主とは民を束ねるためにある。そして、それは決して自己を顧みてばかりいて行えるものではない。大義のために自己を捨てる事を覚悟できない者は君主になるべきではない。
王は血によっては決まらない。
民のために、本当の意味での国のために、己を捨てて献身できる、その崇高な精神によって決まるのだ……――
この演説の後、国民は彼を支持した。圧倒的支持率を得て民衆を味方につけた彼に対して、腐敗しきった王家とその家臣達それに準じる貴族達はまさに矢のごとく倒れていった。
――王は血によって決まるのではない
――民のために、国のために、己を捨てて献身できる、その崇高な精神によって決まるのだ
ユリウスのこの発言は、その長きに亘り王族として国の上に君臨してきた者達を、根底から否定するものだった。
『理想論だ。王とは民を酷使するものであり、上下関係とは結局は従属関係。権力を持つ者は決して民を顧みたりしない。そもそも、己を捨てて他人のために働ける人間なんているものか。ただの奇麗事だ』
そんな批判があったかもしれない。
だが、新しい国の基を築くには、その理想が必要だった。
疲弊しきっていた民はその言葉に夢を見る。
王族の出身でありながら、その自身の体の中に流れる王家の血を、ユリウスは否定したのだ。
自分の中に流れる血には付加されるべき何の価値もありはしない、と。
血は、誰の体にも等しく流れるものだ。
それだけのものであり、それだけの意味がある。
持つ役職は違えども、人とは、その根本的価値において等しい存在だ。
そう彼は言った。たとえ貧富の差が生まれようとも、それは他者を貶める理由にはなりえない。身分の差がそのまま貴賎の違いに発展することは間違っている、と。
王家の血を受け継ぐ彼がそう言ったことに、意義があった。
そして、彼はその理想をただの空想で終わらせてしまうような夢想家ではなかった。理想を現実にする力のあった稀な人間といえただろう。
民は彼を讃えた。
彼こそが王の中の王だ、と。
今までの轗軻不遇の貯蓄を返すがごとく、追い風はみな彼のもとに吹いた。
彼は血統至上主義を批判したとおり、身分や生まれに頼った政治はしなかった。優秀な者であるなら、その出自は一切問わない。真に役に立つ者達を家臣に向かえた。
ユリウスは誰の許にも等しく門戸を開く騎士、〝アストラリア〟としての気風を誰よりも深く宿した人間と言えただろう。
〝新しい国〟と言われる理由がここにある。
隷属関係という、支配者と被支配者との間で長きに亘り培われてきた澱を、完全に水に流して白紙に戻したのだ。王族に準じて民を使役してきた貴族達は解体され、市民に返された。民は生まれに縛られた人生から解き放たれ、己の道を自力で切り開く機会を与えられた。
彼が国王として即位してから国の体制は大きく変わった。全く別の国になったと言っても過言ではない。現国王は天下の情勢を一新し、彼一代で新しいマダリアを創り上げたのだ。国名を改正しなかったのは、彼が今まで国の頂点にいた王家の血を受け継いでいる存在だったからだろう。
〝雨降って地固まる〟
その背景には確かに混乱があった。
民が皆国王を慕うのは、その混乱を平定し、新しい国の下に自分たちを導いてくれたからだ。
そう、まさに伝説の勇者ユリウス=アストラハンと同じように。
生まれてくるべき時に、生まれてくるべくして、生まれてきた男。
その国民の熱い想いに支えられ、ユリウスは一国を統治していた。
「ほぉ、あとの五人は遠路はるばる他国より我が国へやってきてくれた者達か。光栄なことだな。それにしても内訳が他国五に対して自国三とは…、国王としては嘆くべきかね?」
ユリウスは面白そうに笑った。
「笑い事ではありません。その中に不届き者の刺客でもいたらいかがなさいます」
「隣国に恨みを買った覚えはないが、まぁ、いつの時代にも統治者には敵がつき物だろう。外と内とに関わらず、な。厄介なのはむしろ内癰の方だ。私も若い頃は散々煮え湯を飲まされてきたからな」
どこか自嘲するような主の苦笑に、自分の知らない王の顔があることを意識してジュリアは落ち着かなくなった。
「それで? 私の前でお前達と戦えそうな者はいるのか?」
「……はい。おそらく」
「ほお、おもしろい。五年振りか。どんな者達だ?」
「黒衣の二人組みです」
「黒衣?」
「はい。全身黒尽くめの外套で、その容貌も窺えません。一人は剣を使い、一人は短刀」
「随分と怪しげだな。強いのか?」
そう訊く王はどこか楽しげである。
「……と思います。私もちゃんと見た訳ではありませんが、何しろ開始三分と経たぬうちに勝敗がついてしまうらしいですから」
「興味深い。戦い方は?」
「一人はそれなりの使い手だということです。もう一人短刀を扱う者の方は、捉えどころがない――、と」
ユリウスは首を傾げた。先を促す。
「自分からは全く攻めようとしないのだそうです。とにかくよけるのがうまいらしく、いつの間にか後ろをとられ、気付いた時には首筋に刃を当てられている。まるで剣を避けながら舞っているようだった、というのが実際に見た人間の言葉です。唯一の武器である短刀も最後の降参を相手に迫るためにしか抜かない、と」
対戦者と対峙した時、自分よりリーチの長い武器に対しては後手に回ってしまうのが常識だ。
一般的な戦闘において、得物が短刀だというのは明らかに不利な条件である。なんにしろ、攻めにくく、また攻められやすい。相手の攻撃を避ける技量が要求されるし、間合いの短い短刀では攻撃を避けながら相手に近づかなくてはいけない。加えて、的確に急所を狙うためにもかなり近くまで接近しなくてはならず、相手の振るう剣をかいくぐって懐に飛び込むには速度も必要だ。投げて使うにしても、動く人間相手では相当の修練がいるだろう。どっちにしろ、素人の使用する武器ではない。短刀だけで最後まで勝ちあがってくるのだとしたら、その者は相当の手練だ。
「……舞うように、か。なるほど。――さて、それはそれでいいとして」
厚い髭に覆われた顎をさすりながら、ユリウスは急に話題を変えた。
「お前はまだドリスを探しているのか?」
分かりやすく体を固めた臣下に苦笑し、ユリウスは続ける。
「相棒探しに忙しく、大会のほうはあまり見ていないのだろう。あ奴のことは放って置けと言ったろうが。気を揉まずとも、この前ドリスはここに来たのだぞ」
その言葉にジュリアは目を見開いた。
「……どう、なされたんですか?」
「別にどうも? 少し世間話をした位だ。すぐに出て行った」
「そのまま行かせたんですか?」
「ああ」
「……いつ頃です?」
「ちょうどお前が私のお姫様とデートにしけこんでた時かな」
「……」
複雑な表情で黙ってしまったジュリアを見て王はおかしそうに笑った。それから思い出したように言う。
「そういえば、ドリスが期日越えで予選会出場を受理された者が今年はいるとか言っていたな」
「え?」
「なんだ、知らなかったのか」
「……」
「まぁ、何をしてるのかは知らんが好きにさせておけ。その内戻ってくるだろう。あ奴もどうやら今回ばかりは、何の考えもなしに行動している訳ではなさそうだ」
「……分かりました。陛下がそうおっしゃられるのなら」
信じる王の言葉だ。たとえ、探し人に憤懣やるかたない思いを抱いていようが、そんな己の感情は二の次である。
その時、不意に国王が後ろの露台へと気を逸らした。
その表情が一瞬、緊張したものへと変わる。
夜風でカーテンが揺れている。
先ほどからなんら変わらない光景にユリウスは口を開いた。
「もう退がってよいぞ、ジュリア」
向き直ってそう言った顔は穏やかなものへと変わっているが、ジュリアはすぐに違和感に気がついた。
何かが変だ。
「陛下、」
「――退がれ」
「……」
じっとその顔を見守った。そこに、己の命令が実行されるのを泰然と待つ王者のそれを認め、ジュリアは無言で一礼して扉の前まで下がった。振り返らずに背を向けたまま言う。
「外で待機しております。お声をかけてください」
――もし、何かあるようなら……
ユリウスは口元に笑みを浮かべると、目を閉じて分かったと言った。
承諾を受けてジュリアは振り返り、いつもと同じように恭しく一礼を返すと王の御寝室を出て行った。
「それで…、――何の用かな?」
広い室内に王の深い声が響いた。
ジュリアが出て行ったその部屋には、主以外の人影は見当たらない。重厚感漂う豪奢なつくりの中に立つ王は、簡素な身なりでもそこに見劣りすることはなかった。着飾った王などよりもよほど映えて見えるのが不思議だ。派手な衣装はかえって部屋の装飾と一体化して王ごとその中に埋没していたかもしれない。
「こんな無闇にだだっ広い場所で独り言を言っていたら馬鹿みたいじゃないか。隠れてないで出てくるといい。まさかここまで忍び込んでおいて対面するのは恥ずかしいとは言うまい?」
諧謔を忍ばせた余裕を隠さない口調とは裏腹に、王は全神経を集中させて露台の先の闇を見据えていた。すると、スッと、夜の帳の中で影が動いた。来訪を告げるかのように真紅のカーテンがうねりを上げて大きく舞い上がる。木々はざわめき、夜風の香りが室内にどっと押し寄せた。
鋭い旋風の中で、緑の葉が舞う。
「!?」
吹きつけてくる風の感触に、腕を顔面に翳して王は瞼を閉ざした。
夜の匂いが鼻腔をくすぐる。
風がやみ、ゆっくりと目を開いた時には、辺りは奇妙な静寂に包まれていた。
静止して動かないカーテンの隣、月の光を戴いて恭しく頭を垂れる人影が浮かび上がった。
「――夜分遅くに申し訳ない。しかし、さすがだと言っておこう。うまく気配を断っていたつもりだが……。どうやら貴殿は私の心まで読めるらしい」
静かな、しかし、どこか凛とした力のある声が響いた。
「……どういう意味だ?」
警戒を解かずそう訊き返しながら、ユリウスは目の前の人物をまるで闇夜の使者のようだと思った。黒い外套にフードを被ったまま頭を下げられては肌の色さえ窺えない。ともすれば、本当に人間なのか疑いたくなるほどだ。
黒衣の人物は頭を下げたまま続ける。
「いえ、お声をかけてくださってよかった。人払いまでしていただいて恭悦至極。貴殿のおっしゃるとおり、私は少々羞恥心が強すぎる故、このような格好で御前を汚すことをお許しいただきたい」
慇懃無礼とも取れるその態度に、ユリウスは眉こそひそめなかったが、興深いというように眉尻を上げた。
「顔を上げてはどうか? できればどうやってここまで来たのか教えてもらいたいな。私は自分の臣下を叱責すべきだろうか」
この宮殿は王城の内奥に位置し、外部の者は簡単に侵入できない。加えて、ここは地上からずっと離れた階上に位置する部屋だ。どうやって忍び込んできたのか、甚だ疑問だった。
黒衣の人物は顔を上げた。顔の下半分を覆う覆面でその容貌はいまだ窺えない。しかし、そのフードの下の目がじっと自分に据えられていることをユリウスは感じ取っていた。
「貴方の忠実なる僕達はまじめに務めを果たしておられる。もちろん、私が彼らに危害を加えるようなまねもしてはいない。ご安心なされよ。警備の不備という訳ではなく、私には私にしか分からぬ道がある。それを辿ってきたまで」
ゆらりと黒衣の人物は立ち上がった。外套の下から手を出し、それを胸に当てて頭を下げ、再度起敬の意を表した。
「貴公にしか分からぬ道?」
「……風に乗って花の香りに誘われるまま、闇の中を参りました」
口を覆った布の下からでも声はくぐもることなく王の耳にはっきりと届いた。
ユリウスは神経を凝らして、相手の動向に視線を注ぐ。
外套の布が動き、ゆっくりと人差し指が現れる。花台を指したその先には、生け花にされた白く清楚に咲くダフネラの花が強い芳香を漂わせていた。
「奥方様の好んだ花だったとか…。たとえ真っ暗闇の中でも花は香る。それを辿れば、貴方の部屋も自ずと知れようというもの」
ダフネラは別名、「睡香」「香夢」「千里香」などとも言い、闇の中でも馥郁とした香気を放つことで有名だ。
「……なるほど。ずいぶんと鼻が利くらしい」
「……」
「〝名を尋ねるときはまず自分から〟だったが必要かね?」
「いいや、マダリア国王ユリウス=シーザー陛下。それには及ばない」
「では、貴公の名を聞かせていただこうか」
「申し訳ないが、今はまだその時機ではない。今日はほんの挨拶に上がったまで。この身についての口上はしかるべき時に申し上げたい」
ユリウスの瞳が鋭く光った。
「随分一方的な話だな。しかるべき時?」
「……ええ、そうです」
国王はその返答に肩を竦ませると、突然不審者に対して背を向けた。
無用心にも背を向けられた方は驚きに軽く目を瞠る。
王は馴れた手つきで配膳台の上のポットを傾けると、傍らに置かれていたティーカップにその中身を注いだ。紅茶の香りに混じって、ブランデーの匂いが離れたところに立っている黒衣の人物のもとまで漂ってくる。それは常人であれば嗅ぎ取れないほどほんの微かなものだったが。
――故意に(わざと)隙を見せている
突如現れた侵入者の前に後ろを見せながら、マダリア国王は少しも肩に力を入れていなかった。背中ががらあきだ。こちらの出方を待っているのだと、直感で覚った。
にわかにくるりと振り返り、片手に受け皿、片手に茶杯を持ち上げて国王は言う。
「……貴公もどうか? 就寝前に飲むとすんなり眠れる」
「……結構です」
戸惑いのまじった答えに笑みを返し、口元に杯を運ぶと、あくまで自然に王は続けた。
「では、用件を聞こうか。まどろっこしいのは嫌いでね」
依然、両手は塞がったまま平然と見返してくる王の姿に、緊張感が高まった。
今襲い掛かられたらどうするつもりなのだろうか。両手の塞がった状態では、剣を抜くにも遅れが出てしまうのは否めないだろうに。襲ってくる意思はないと判断したのか、それとも隙を見せておいて尚、敗れない自身の技量を確信しているのか。案外その両方かもしれない。
そんなことを考えながらも、黒衣の訪問者は尋ねずにはおれなかった。
「……捕えなくてよろしいのか? 無断でこんな所まで忍び込んできたというのに」
いたって単純、かつ強烈な好奇心がそう尋ねさせた。
王はティーカップを持ったまま片眉を上げる。
「だからその理由を尋ねたい、と言っているのだ。捕えるのはそれからでも遅くあるまい。衛兵に捕まりたいが為に忍び込んだ、というのならここじゃなくて余所へ出頭してくれ。私も暇な訳ではないのでな」
その答えについ失笑がもれた。
王は静かに見守っている。
「……失礼。突然の参上、心底申し訳なく存ずる。厚顔にも過分な温情に甘え、今宵の来訪の意を告げさせていただくことには――、私と賭けをしてくれまいか」
「賭け?」
「お嫌いか?」
「さあな。私の人生、そればっかりだったと言える気もするが……。悪運は強い方だな」
そう笑って、王は先を促した。
「私は今、アレスの武闘大会に参加している」
「騎士の位が欲しいとでも?」
「いいや…。だが、私は再び貴方の前に現れるだろう。御前試合の招待客として……」
「……なるほど。騎士以外のものを所望か。だが、国王は魔法使いでもなんでもないのでな。どんな願いでも叶えられると思うのは大きな間違いだ。私はこの国に不益になることは、一切するつもりはない」
断固とした発言をまるでなんでもないことのように軽々と言い放って、笑った。
だが、瞳の奥は寸毫たりとも笑ってはいない。
「……いや、私の望みはそう大層なことではない。私が用あるのは国ではない」
優に一呼吸おいてから、闖入者は宣った。
「――貴方個人だ」
「……ほう、この命が欲しいとでも?」
国王の顔に凄絶とも言える微笑が浮かぶ。
先刻の笑みより喜色の濃いその笑顔は先ほどの何倍も肌が粟立つものだった。
「……貴方に卑しきこの身を明かすための、二人だけの場を改めて設けてほしい。貴方の時間を、私は望む」
そう言った直後、数秒考えるようにしてから頭を振ると、言い直した。
「……いや、そのためのチャンスをくれさえすれば、それで、いい」
「……チャンス?」
ゆっくりと、黒衣の人物は頭を下げる。
「私が貴方の騎士に勝利したのなら、貴方に問おう。貴方には諾否の有無を下してもらいたい」
王は相手の意図を理解しかねて眉をひそめる。
黒衣の訪問者は構わず続けた。
「もし〝諾〟と応じたのなら、次の満月の晩、今日と同じ刻限に、私はここへ貴方を訪ねてこよう。貴方はここで私を待っていてくれればいい」
黒衣の裾から人差し指を出すと、夜空を背景に手を掲げて白々と輝く夜の月を示した。
「もし貴方が〝否〟と判じたのなら、私は貴方の前から消えて、二度と姿を現さない。貴方は怪しい侵入者のことなど、春の夜の夢だったと忘れてしまえばいい」
上げていた手を外套の中にしまうと、黒衣を揺らして一歩後ろへ後ずさった。
「待て。それは賭けではない。御前試合の勝敗を賭けるのではないのか? 貴殿が勝ったら私が望みを聞き、貴殿が負けたら私の望みを貴殿が聞く……」
「それはやめた」
あっさりと黒衣の人物は言った。王は目を丸くする。
「私は貴方という人間に興味がある。だが、私が貴方と見えることが果たして正しいのか、私にはそれが分からない。だから、貴方の判断に任せたいのだ。私の戦いを目にして、話を聞いてもいいと思ったのなら〝諾〟と、関わり合いになりたくないと感じたのなら〝否〟と。最後に選んでいただきたい。
私は、御前試合に勝利することで貴方に問う機会を与えられる。
私が負けた時はそれまで。私は諦めてこの国を去る。
試合に勝利し、貴方に〝諾〟と言わせたのなら私の勝ち。試合に負けるか、あるいは貴方が〝否〟と言った場合は、私の負けだ。
要するに貴方は、私が貴方の騎士相手に試合に勝つ事で私に負けても、私を拒む権利がある」
「異なことを言う」
話を反芻しながら、国王は言った。
「一方的にこちらが有利に思えるが……、ふむ、それで、私が賭けに勝った暁には?」
「貴方に贈り物をしよう」
「贈り物?」
「貴方は望む」
「悪いが金品の類にならさして心惹かれぬぞ。貪らざるを宝と為しているものでな」
「貴方にとって価値あるものだ」
含みのあるその言い方に、ユリウスは眉をひそめた。
「…なんだ、それは」
「それはまだ言えない」
ユリウスは呆れた。
それでは賭けは成立しない。自分にどんな益があるかも分からないような賭けに誰が乗るというのだろう。
よっぽどの酔狂だ。見るからに怪しい誰とも知らぬ輩が持ちかけてきた、訳の分からない賭けに乗るなど。相手の求めるものもまた漠然としているというのに。内容もそうだったが、賭けの対象物があまりにも曖昧過ぎる。
「……読めぬな。結局、お前の望みは何なのだ? 私と世間話がしたいとでも? 貴公が刺客でないという証拠がどこにある」
「……それは私を信じてもらうより他はない」
「……その容貌も名も秘したまま、目と目を合わせて話そうとしない輩を、いかにして信じろと?」
「今すぐ、判断してくれとは言ってはいない。この面をあらわにするのは、貴方が〝諾〟と答えた時のみ。貴方と二人っきりになる次の機会にお目にかけよう」
黒衣の人は続ける。
「……マダリア国王は人を見る目があると聞いた。その風聞どおり己の判断に自信があるのならそれを信ずればよいだけのこと。私は貴公のその目を信じる者だが、己を信じてくれとは言わない。全てを貴方の審判に委ねよう」
王は黙ったままだ。
「今現在、私を疑っており、信じられぬと既に心が決まっているのなら、今すぐ衛兵を呼べばいい。それで私との縁は切れる。二度と会うこともないだろう。賭けには乗らぬ、この国から出て行け、と言うのなら、今ここで言ってくれ。ここで拒否するのも、後で拒否するのも貴方の勝手だ。私は諦めて、武闘大会も辞退しよう。二度とこの地に足は踏み入れぬ」
「……何故そこまで譲歩する?」
王はじっと黒衣の訪問者を見据えた。
相手の心を見ようとするように。
「……ここまで乗り込んで来はしたが、最後は天の采配に任せたいらしい。貴公と私は見ゆるべきか否か、……天を相手に賭けをする。私はそれに従おう」
「天を相手に?」
それには答えず、黒衣の人物はさっと後方に跳んだ。次第にその輪郭が闇の中へと溶けてゆく。
「もし縁があるのなら、またその時に。この後、追っ手がつかないことを祈っている」
そう言うと一陣の風が部屋の中を通り過ぎた。
そして、それが静まった時にはユリウスの目の前には誰もいない。
ただ、真紅のカーテンが名残惜しそうに、ささやかに揺れていた。
奇妙な喪失感を覚えてユリウスは眉をひそめた。その寂寞の意味に、彼はまだ気が付いていない。
予言になってしまった言葉がふと思い出される。
『貴方に会いたがっている人間がいるらしいのです』
それは先日、予告なしに現れたジュリアの相棒が王に残していった言葉だった。
真摯【しんし】…真面目でひたむきなさま。
狂瀾怒涛【きょうらんどとう】…物事が激しく乱れることのたとえ。
擾乱【じょうらん】…入り乱れること。乱れ騒ぐこと。乱し騒ぐこと。
累代【るいだい】…代を重ねること。代々。
墨守【ぼくしゅ】…古い習慣や自説を固く守り続けること。融通が利かないこと。
経世済民【けいせいさいみん】…世の中を治め、人民の苦しみを救うこと。
顕然【けんぜん】…はっきりとしているさま。
佑助【ゆうじょ】…助けること。
無為無策【むいむさく】…何一つ対策を講じないで、ただ傍観しているようす。
反駁【はんばく】…他人の意見に反対し、その非を論じ攻撃すること。
奴婢【どひ/ぬひ】…下男と下女。
轗軻不遇【かんかふぐう】…才能がありながら、それにふさわしい地位にいないこと。また、物事が自分の思うようにいかず、地位や境遇に恵まれていないこと。
内癰【ないよう】…身体の内部に生ずる腫れ物。ここでは国内の騒乱を指す。
得物【えもの】…得意の武器。自分に適した武器。
慇懃無礼【いんぎんぶれい】…うわべは丁寧なようで、実は尊大であること。
起敬【きけい】…敬う気持ちを持つ。
馥郁【ふくいく】…よい香りの漂うさま。
時機【じき】…適当な機会。ちょうどよい時。ころあい。
寸毫【すんごう】…きわめてわずかなこと。
貪らざるを宝と為す【むさぼらざわるをたからとなす】…欲張らないことを自分の宝とするの意。金銭に清潔な人生観を示す。
寂寞【せきばく/じゃくまく】…物寂しいさま。ひっそりしたさま。