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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
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62 鎮魂の笛

 夜になって、月が出た。

 満月になるにはまだ日を要するだろう月が、(おぼろ)げに夜空に浮かんでいる。

 城の辺涯(へんがい)、数日前一人の男が死んだその場所に、サントは立っていた。

 白茶けた石の上に赤黒く変色した血痕を見つけて、そこにしゃがみこむ。

 指先でなぞると、ここで一人の人間が死んだという事実が生々しくよみがえってきた。

 それが、過去の記憶と重なって、サントは唇を噛み締める。

 もし、死に方が選べるのなら、彼のように誰かの命を守って死ねたらいい。

 それが駄目なら、自分が死ぬ時は、跡形も無く消え去りたい。

 こんな風に、痕跡を残すことなく、死体も残さず、誰の記憶にも留まることなく、己が生きてきた軌跡ごとこの世界から消えて無くなればいい。

 あの時も、そう思った。

 それが何よりも難しいことだと、嫌というほど知っていたけれど。


 サントはそっと黒衣の中から一本の横笛を出した。

 口元に歌口を当てて、そっと息吹を吹き込むと、全長四十センチメートルほどの木でできた(くだ)が唄い出す。

 流れは途切れることなく、緩やかに色を変えながら、細く太く、高く低く、縦横無尽に夜空を飛翔する。

 まるでそれ自体が生きているかのような音色だった。

 音に(あお)られ、空気が動く。

 風が音を拾うのではなく、笛の声が風を促していた。

 それは、彼女があの舞踏会の夜に(うそぶ)いた音に似ている。

 人々の高揚を誘うような音ではない。

 しんと心の奥底に染み入っていくような、ひたすら内へ内へと引きこもっていくような、またはどこかに置き忘れてきた敬虔(けいけん)な気持ちをふっと思いださせるような、不思議と静かな、余韻のような音色。

 喧騒を遠ざけ静寂を身にまとう音。

 音楽というには素朴すぎる、それはどこか鳴き声のようにも聴こえた。


 不意に音が途切れた。

 風とともに和していた音の流れが消えて、無声が戻った。

 少し前より辺りの空気が澄んでいる。

「…何か、私に御用ですか」

 黒衣の背中から発せられた声に、彼は苦笑した。

「すまない。邪魔をしてしまったな」

 サントはゆっくりと振り返る。

 そこには、離れた所から柱に身を寄せてこちらを見つめる王の姿があった。

「続けてくれないか」

「…私の笛は、人に聞かせられるほどのものではありませんので」

 そう言って、サントが黒衣の中へ笛をしまってしまうと、ユリウスは残念そうに笑った。

 サントの目の前まで歩いてくると、その隣に腰を下ろす。

「それでは、話をしようか。最後の夜だ。できれば、君の顔を見納めておきたい」

 そっと溜息をついて、サントはかぶっていたフードを取った。

 下から見上げられ、座ったらどうだと勧められて、腰を下ろす。

 小さく丸まるように膝を抱えて、月を見上げた。

「見事な笛の音だったが、誰に習った?」

「…特別誰かに師事した覚えはありません。……私に、この笛をくれた人が吹きすさぶのを聞いているうちに、自然に覚えていました」

「それは、すごいな」

 感嘆の声に、サントはゆるゆると首を振った。

 もともと聴覚に優れているラト族にとって、耳で拾った音をそっくりそのまま再現させることは、さほど難しいことではない。

「思うに任せて適当に鳴らしているだけです。褒められるほどのものじゃない」

「適当であそこまでこなすなら、尚更すごいと私は思うぞ。ああいう音は、単純に技巧によって生まれるものではない。……サムドロスの魂も慰められたことだろう」

「……ありがとうございます」

 控えめな礼の言葉に、ユリウスは笑った。

「訊いていいかな」

「…なにか」

 ユリウスはまっすぐ上空を向いたままのサントの横顔を見つめた。

 赤い髪に、緑の眼。

 持っている色も、その造作も、寸分たりとも(たが)うことなく、記憶の中の彼女と重なるのに、どうしてそこから受ける印象が、こうも違うのだろう。

 この娘は、笑わない。

「君は、サラハとよく似たその顔を、(いと)うているのか?」

 硬く閉ざされた横顔が、ほんの少し強張ったようだった。

 ゆっくりと、サントは瞼を落とした。

「…昔は、それが、嬉しくて仕方がなかった。……母のように、慕っていた方でしたので……」

「…今は?」

「私はあの方のように美しくは生きられない。私のようなものがあの方の写しであることは、あの方に対する冒涜(ぼうとく)だ。到底受け入れられません」

 ユリウスは何か言おうとして、だが、すぐに開きかけた口を閉ざした。

 ややあってからぽつりと零す。

「…罪過の痕が刻まれている、と、言っていたな」

 サントの唇が震えた。

 ゆっくりとユリウスを見ると、視線を真っ直ぐ彼に据えた。

「――それについて、貴方にお話しすることは何もない」

「…そう、か」

 悲しげに笑う顔と目を合わせることができず、サントはすぐに視線を逸らした。

 ユリウスは気を取り直したように続ける。

「実は、見て欲しいものがあるんだ」

 畳まれた懐紙を渡され、サントはそれを開いた。中から出てきたのは一本の針だ。

「これは?」

「動く屍の首の後ろに埋め込まれていたらしい。中央に細かい文様があるだろう。何かの文字のようにも見えるんだが…」


《…――》


「なに?」

 聞き取れなかった音にユリウスが視線をやると、サントの顔は見るからに強張っていた。

「…行尸走肉(こうしそうにく)、魂のない肉体だけの存在という意味です」

「…」

「――生きている人間には精神を支える気である「(こん)」と、肉体を支える気である「(はく)」があるといいます。〝魂〟は陽に属し、〝魄〟は陰に属す。陰陽を合わせて魂魄(こんぱく)という。

 人が死ぬとそれは二つに分かれ、〝魂〟は天に帰し、〝魄〟は地に帰す。魂魄の抜け殻となった人の身体は土に返るが、なんらかの呪術的要因により、〝魂〟だけが天に帰り、〝魄〟が死者の体に留まった状態になると、長い年月を経ても腐乱しない死体ができる。

 故意に〝魄〟を肉体に縛り付け、己の思うように死体を操る呪法があると、読んだことがあります。――精神を支える気の抜けた死体は、痛みも感じないし感情もない…哀れな傀儡(くぐつ)と化す」

 ユリウスは難しい顔でサントの話を聞いていた。

 サントは尋ねる。

「…この針は、ナギブとかいう、男のものなのですか」

「どうやらそうらしい。あの男が死体を使役していたということなのだろう」

「…陛下、これを私に頂けませんか」

「何か気になることが?」

「…いえ…」

 言葉を濁して黙りこんでしまったサントにユリウスは言った。

「変なことを考えているんじゃないだろうな」

「変なこと?」

「一人であの男を捕まえようとか」

 厳しい顔で自分の顔を見るユリウスに、サントは首を振った。

「少し思うところがあるだけです。だが、それは貴方には関係ないことだ」

 静かな拒絶に、ユリウスは溜息をついて、おもむろに立ち上がった。

「最後に一つだけ聞かせてくれないか。君はこれからどうするつもりなんだ?」

「どう、とは?」

「山に帰るのか?」

「……」

「一族の戒律を破って聖域を離れた。ただでは済まされないだろう。下界の地図を見せてくれと言っていたな。君はもう戻らないつもりなんじゃないか?」

「……」

「…私には関係ない、か?」

「…人を探しに」

 ぽつりと、サントが零した。

「どうしても会わなくてはいけない人がいます」

「下界にか」

 無言で頷く座ったままのサントをユリウスは見下ろす。

 己の膝を抱いて丸まった背が、無性に小さく見えて、不意に胸を衝かれた。

「…何か、私にできることは?」

「なにも」

 即答を返され、ユリウスはやはり苦笑する。

「なにも? これでも一応一国の王なのだがな」

「たとえ貴方が私のために力になりたいと言っても、私は全力でそれを拒むでしょう。貴方が気にかけねばならないのは貴方の民だ。国に私情を持ち込めば、禍乱(からん)を招くことにもなりかねない。(みだ)りに国権を用いる王はすぐに倒れますよ」

「…正論だ」

 手厳しいな、と笑う王はどこか楽しそうだった。

「私は貴方に会うためにここに来ました」

 サントは立ち上がり、ユリウスを見た。

 ユリウスも笑いを納め、サントを見る。

「ですが、もう二度と会うことはないでしょう。私のことはどうかお忘れください。貴方はもうこの国の王だ。戻らない過去に囚われてはいけない」

 じっと見つめ合うことしばし、ユリウスはサントから顔を逸らして、夜空を仰いだ。

「明日発つ、というのは明朝でいいのかな?」

「……」

「あと数時間で日が変わる。はっきり確約しておこうと思って探してたんだ、実は」

 サントは息を詰めた。

「出奔される前に見つかってよかったよ」

 ユリウスはにっこりと人好きのする笑みを浮かべてサントを見たが、サントの目には人の悪い笑みにしか映らない。

「私の未練を断ち切りたいのなら、逃げるように立ち去ろうなどとは思わぬことだ。でなきゃ、追いかけるぞ。マダリアの王騎士を差し向けられたくはないだろう?」

御免(ごめん)(こうむ)ります」

 憮然とした声に、ユリウスは笑う。

「明日の朝、改めて別れの挨拶をさせてもらおう」

「…譲歩しましょう」

禍乱【からん】…世の乱れ。

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