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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
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61 巡る指輪

『君に、預かっていて欲しい』


 掌の中にある指輪をサントは見つめた。

 青い石の中にマダリア王家の紋章を模式化した図が浮かび上がる。

 三つの交差する刀剣と、そこに絡みつく蔓、その上に戴く王冠の象形――。


 王家の宝を王に返す、それは実は口実だった。

 あの人に会うための。

 そして、あの(ひと)との繋がりを確かめるための。

 あの(ひと)が愛した(ひと)の存在を、己の中に刻み付けておきたかった。

 それが、自分を抜き差しならないところまで追い詰めるだろうことを予期しながら。

 もう逃げられない。ならば、前に進むしかない。その覚悟が欲しかった。それなのに…

(…揺らいでいる)

 全てを打ち明けてしまいたい衝動に駆られそうな自分が、怖かった。

 己の罪を告白できたらどんなに楽だろう。彼に断罪されるのなら、本望なのに。あの人に嫌悪の表情で見られたら、自分はもう何も望まないでいられる。全てを諦めて、手放すことができる。己に科せられた枷を放棄することも…

 サントはぎゅっと拳を握って首を振った。

(馬鹿な、)

 そうすれば自分は楽になれるだろう。

 けれど、その代償はきっと己一つのことでは済まされない。

(……大切な人のために殉ずることができたらよかったのに)

 ああ、自分は心底羨ましいのだ。

 主のために死んだフィロラオスが、サムドロスが。

 己のために祈ることも願うことも許されていない自分が、あの人の側にいると揺らぎそうになる。叫びたくなる。求めたくなる。

 けれど、同時に知っている。望んだところで決して自分には与えられないことも。結局自分にはそれを直視する勇気がない。楽になんて、なれない。

(…女々しいな)

 踏ん切りをつけるためにきた場所で、惑うことになるとは思わなかった。

 掌を開いて、その中の指輪を見つめる。

 苦しいのは、与えられないと知っているのに、望みたくなる自分の弱さ故だ。突き放されれば、楽になれる。けれど、突き放されることを心底恐れているのも、自分だ。

(…私は、なんて…)

 続く言葉を呑み込んで、代わりに自嘲の笑みを浮かべると、すっくとサントは立ち上がった。




「お父様? いらっしゃらないの?」

 リリアは父王の寝室へと、足を踏み入れた。

 特に用があった訳ではない。ただ、父の顔を見たいと思った。

 あんなことがあったばかりなのだから、一人で出歩いているところが見つかれば咎められることは間違いなかったが、そんなことに怯むリリアではない。

 あの夜から数日が経っていた。未だ心の整理はついていない。

 人の死はいつだって受け入れがたい。

 それが自分にとって近しい者だと言うのならば、尚更だ。

 不思議とリリアに、サムドロスに対する悪感情は生まれなかった。どこかで何かが狂ってしまって、本当は間違いに気づいていながら、あえてその道に足を踏み入れた。苦しくて苦しくて、それ以外の道を選べなかったのだろうと、父が言っていた。

(…お兄様)

 でも彼は父を庇ってくれた。

 あの時、父の足の間に落ちた赤い斑点を認めた時、リリアは己の全身の血がさーっと引いていくのが分かった。唐突によみがえったのは、母が自分の目の前で息を引きと立った時の光景だ。あの時も、ただその現実を受け入れられなくて、絶対的に大切なものが欠けてしまったという恐怖に、心が冷たく(こご)っていくのを妙に客観的に感じていた。

 また、失ってしまうのかと思った。とっさに己の胸へと刃先を返して父を守ってくれたサムドロスには、恨み言を吐く気にはなれない。

 そして、あの男。

 サムドロスを罪へと陥れ、父の命を奪おうとした、眼鏡の下の薄い瞳が不気味な、あの男。

 ぞくりと肌が粟立ち、リリアは知らず己の肩を抱きしめていた。

(お父様)

 父はまだ部屋に帰ってこないのだろうか。

 あれ以来彼が視界の中にいないと、ふとした瞬間にそれまで無意識の淵に沈めこんでいたような不安が表層意識まで浮かんできて、勝手な想像ばかりが膨張し、いてもたってもいれなくなってしまう。

 早く、あの大きい胸の中に飛び込んで安心してしまいたい。

 大丈夫だよ、リリアは心配性だな、と、父の柔らかい声で(たしな)められたい。

 そうすれば、不必要な気苦労をしている自分を、馬鹿みたいだと笑うことができるだろう。

 その時、寝室のドアをコンコンと叩く音がした。

 ビクリとしてリリアは扉を見た。

 父だろうか。いや、父ならわざわざ自分の寝室へ入るのにノックなどしまい。じゃあ、誰が?

 リリアはとっさに、衣装箪笥の中にその身を潜ませていた。

 国王である父の寝室へとおとなう人間など数が限られている。一体誰だろうという好奇心と、おどかしてやろうという悪戯心、一人でいることを咎められるかもしれないという危惧が、リリアにその行動を取らせた。

 ほんの数秒の沈黙の後、扉の前の誰かはドアノブを回して部屋の中へと入り込んだ。

 そして、リリアは全く予想外の人物を見つけて固まった。

 現れたのは、黒衣で全身を隠す城の客人だったのだ。

(なんであの人が…)

 いくら王の賓客といっても、ここは国王のプライベートルームだ。余所者である彼が気安く立ち入っていい場所だとは思えない。しかも部屋の主の不在は分かっていたはずだ。

 リリアは、己の心臓が痛いほど早鐘を打ち始めるのを感じていた。

 薄く開いた箪笥戸の隙間から、息を殺して目を凝らす。

 黒衣の訪問者は一歩部屋の中へと足を踏み入れると立ち止まり、辺りを眺め回した。

 王を探している訳ではないだろう。応答のなかった部屋の中が無人であることは分かっていたはず。

 一体何しに来たのだろうか。

 その時、ふと彼がこちらを向いた。

 ぎくりとリリアの身が竦む。

 だが、彼はすぐに視線を逸らした。

 心臓に悪い。リリアはゆっくりと息を吐き出した。

 あちらこちらと視線をさまよわせている姿は何かを物色しているようだった。まさか、国王の寝室に盗みに入ったのだろうか。なんにしろ主のいない部屋に侵入するのだから、その目的は不穏だ。

 見つかったらただでは済まないかもしれないという緊張感と、彼の本性を暴いてやるという使命感めいたものが、リリアの中で沸き起こった。

 ゆっくりと辺りを眺めていた彼は寝台脇の照明が置いてある小卓の側へと足を運んだ。

 そこには小物入れが置いてあったはずだ。

 サントは黒衣の中から出した左手の握り拳を開いて数秒見つめていたかと思うと、小物入れの蓋を開いて、また閉めた。

 パタンという音が大きく響く。

(何かを入れた?)

 用が済んだのか、周囲には見向きもせず闖入者(ちんにゅうしゃ)は露台の方へと進み、そのままリリアの視界から消えた。

 いくらたっても戻ってくる気配がないことに痺れを切らしたリリアは、そおっと衣装箪笥の中から忍び出た。

 ゆっくりと露台の方へと足を向かわせてみると、そこには既に誰もいない。

「あれ?」

 手すりから身を乗り出したが、眼下に見えるのは茂った緑と整備された東屋くらいで、人影はどこにもいない。そもそも、この高さを飛び降りて無事でいられるとは思えないのだが。

 謎が深まってしまったことに、リリアは顔をしかめた。

 いったい彼はどこへ消えたのだろう。

 そこで、彼が何か小物入れの中に落としていったのを思い出して、リリアは身を翻した。

 なんとなく周囲を窺ってから、その蓋を開ける。

「これは…」

 それぞれの仕切りの中に、古びた万年筆と鼻眼鏡と金物のしおり、そして離れた所に青い石がはめ込まれた指輪がぽつんと置いてあった。

「これを、置いていったのかしら…」

 リリアは小物入れの中で一つだけ浮いていた指輪を手に取った。

 その時だ。

 ガチャリと音がして寝室の扉が開いたのは。

「…リリア?」

 リリアはとっさに指輪をポケットの中に隠していた。慌てて声のした方を振り返る。

「お、お父様!?」

「どうしたんだ、こんなところで」

「リリア様ですか?」

 父の後ろから聞こえてきた聞き覚えのある声に、更に鼓動は早くなる。

「あ、あのね、その」

 なんて言っていいのか分からずしどろもどろになるリリアを、ユリウスは訝しげに見つめた。

「…一人で出歩いたのか?」

「あっ、あの……ごめんなさい」

 うつむくリリアの頭に低い声が落ちた。

「いいから顔を上げなさい」

 顔を上げた先の父は、存外に厳しい顔をしていた。

「リリア、あんなことがあったばかりで皆が神経質になっているのが分かるだろう? 賢いお前なら気づいていたはずだな。しばらくは自重するようにと言われていたはずだ。周囲に無用な心配をかけるようなまねはすべきではない」

「で、でも」

 リリアの口の前に人差し指をかざして、ユリウスは反論を封じる。

「“でも”はなしだ。お前は自分の身を自分で守る(すべ)がない。お前が危険にさらされたら、周りの者がどれだけ迷惑するか、分かっているだろう」

「……」

「ドリスも言っていたな。親衛隊員はお前を守るためにあるが、守る対象であるお前がそんなようでは、彼らはどうすればいい。王女のわがままに振り回されるのが、あれらの仕事ではない」

 目頭が熱くなってきて、リリアはうつむいた。

 まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった。

 それはちょっとは気が引けたけれど。後で怒られるだろうことも分かっていたけれど。

 ただリリアは父に抱きしめて欲しかったのだ。何も心配することはない、お前の側からいなくなったりしないと。

 分かっている。父の言っていることは正しい。それでも自分では不意に訪れるこの不安をどうしようもできないから、小言を食らうのは分かっていたけれど、その危険を冒してまで会いにきたのに。そんな言い方をしなくてもいいではないか。

 ぐっと唇を噛んで、小さく謝ると、リリアは父の脇を走り抜ける。

 なんだかひどく自分が情けなかった。

「…陛下」

 リリアの後姿を心配そうに見送ったジュリアが主を振り返ると、ユリウスは苦笑した。さっさと行けと、手を払う主に、ジュリアはためらいがちに一礼すると、身を翻した。


「リリア様!」

 廊下を走る小柄な背をジュリアはすぐに見つけることができた。

 後ろからぐいと腕を捕まえられ、少女は足を止める。

 うつむいて顔を上げない王女の顔を覗き込むようなまねを、ジュリアはしなかった。

「お部屋までお送りします」

 震える背に手を添えて横に並んで歩き出す。

 小さな声がジュリアに尋ねた。

「……お父様は何であんなことを言ったの?」

「陛下はご心配していらっしゃるんですよ。あんなことがあったばかりですから」

「でも、お父様だって無茶するじゃない」

 リリアはジュリアが父の肩を持つことに、少し不満を覚えた。

 しばらく沈黙した後、ジュリアはまっすぐ前を見つめたまま言った。

「陛下と貴女は違います」

 予想外にきっぱりとした台詞にリリアは瞬く。

「…それは男と女の違いということ?」

「いえ、陛下もおっしゃっていたとおり、貴女はあの方と違って自分の身を自分で守れないでしょう」

「だからって、お父様は王なのだもの。娘の私より慎重になるべきではないの?」

 それなのに、父は概ね自由に行動するではないか。

 彼がたびたび大臣を嘆かせていることを、リリアは知っている。

「…陛下は自分が誰であるかをきっと誰より知っています。自覚しての行動なら私達臣下が口を出すことではない」

 それはまるで自分に言い聞かせているようだった。

 リリアは立ち止まってジュリアを見た。

「それはどういうこと?」

「貴女のお父様は王だということです」

「…分からない」

 だがジュリアは、それ以上詳しいことは何も言わずにリリアの背を促した。

「その内、リリア様にも分かるでしょう。貴女はあの方の御子であらせられますから」




 リリアは広い寝台の上に寝転がっていた。

 ふかふかの布団の中に己の顔を埋めながら、ジュリアの言っていたことを考える。

 しかし、冷静に思考することを感情が邪魔した。

 くさくさした気分が拭えず、くぐもった溜息ばかりが漏れる。

 自分が至らなかったのだろうということは分かっているが、それを素直に認められない。

(…お父様の、バカ)

 愚痴を零すように、父をなじった。

(バカバカバカバカ、分からず屋)

 どうせ、父には自分の気持ちなど分からないのだ。母が生きていてくれたら、優しく慰めてくれただろうに。

(…お母様)

 目の奥が熱くなって、ぎゅっと己の顔を布団に押し付けた。

 めそめそ泣くのが嫌で、大きく息を吸い込むとリリアは柔らかな布団の上をごろんごろんとやけくそのように転がった。

 その時、右腿に走った痛みにリリアは眉をひそめる。

 何か硬いものが押し付けられている感触に、あっと飛び跳ねるように身を起こし、ポケットの中に手を突っ込んだ。

「これ…」

 手の平の中には青い石の指輪。

 そこでようやく父が戻ってくる前に寝室を訪れた人があったことを思い出した。

「どうしよう…」

 今、返しに行く勇気はない。そもそも何であの人物がこの指輪を父の寝室へ置いていったのかが分からない。

 リリアは己の左手の薬指にその指輪をはめてみた。

 自分にはまだ少し大きいようで、中指へと指を変える。

 どこかで見たような気がして、よくよく目を凝らして気が付いた。

(コレ…)

 天蓋付きの薄暗い寝台の中で、締め切られていない(とばり)の外から微かに差し込む光を受けて、一瞬きらりと青い石が輝いた。

 その瞬間に浮かび上がった模様。

「まさか…」

 青地を背景に、三つの剣が交差し、その上部に王冠を戴く。

 血の雫を(かたど)った赤い石がはめ込まれた(つば)のない短刀と、それぞれ鍔の意匠が巧みな細長の長剣二本。短刀を中央に左右から二本の長剣がエックスを描いて交差し、短刀の刃をアストランティルの蔓が伝う。これがマダリア王家の紋章だった。

 柄に紅玉をはめ込んだ短刀は王と騎士の間で結ばれる血誠の誓いを、左右から交差する二振りの長剣は初代マダリア国王を支えた二人の聖騎士フィロラオスとフィロス=アスレイを、王の標識である王冠はマダリア国王ディオニュシオスを、そして、中央の短刀を這うアストランティルは君臣の絆の固いことを、それぞれ象徴すると言われている。

 よく似ている。城の至る所にあるその模様に。

 青い石の中に浮かんだそれは、国旗に比べればずいぶん簡略化された図式だったが、それでもそれと見て取れる程度の形骸を留めていた。三本の刀剣を示す直線と、絡みつく蔦と、頭上の王冠と…

「どうして…」

 ざわざわとリリアの中で言いようのない不安がさざめいた。

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