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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
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59 弔う心

 ざっ、と地面を覆う青草が風に(あお)られて音を立てた。

 人気の無いその場所に、南領公ルスカ=アーベルは一人で立っていた。

 ルスカは(ふところ)からあるものを取り出した。

 白い布に包まれたそれは一本の短剣だった。

 丁寧に巻かれた布を()いて白刃を目の前にかざす。

 白刃といってもその刃はこびりついた血糊(ちのり)(あぶら)で汚れ、茶色くくすんでいた。

 ルスカは初代マダリア国王と彼の忠実な聖騎士との間に結ばれた、血誠の誓いを思い出しながら、汚れた刀身を見つめていた。


 ――我ら兄弟の血は何人にも分かつこと(あた)わず

 ――我ら兄弟の血を分かつは何人も得可(うべ)からず


 ()しくもマダリアの始祖と同じく、兄弟の血を(すす)り弟の命を奪うに至った刃を前にして、ルスカは複雑そうに顔を歪めた。

 にじんできた視界に、慌てて目をこする。

 こんなところをサムドロスに見られたら間違いなく馬鹿にされる。


 ――『何、馬鹿面さらしてるのさ、兄さん』


「…っ」

 本格的に(あふ)れ出てきそうになって、ルスカは唇を噛んで嗚咽(おえつ)を殺した。

(…本当に、馬鹿か、僕は)

 自分で自分の感情を煽って、それに揺り動かされるまま制御のままならない己がひどく情けない。

 後悔だけがいつまでも胸の中で(くす)ぶっていて、苦しかった。


「体はもういいのか、ルスカ」

 その時背後から静かに声をかけられ、ルスカは目尻を拭って振り返った。

「…陛下」

 どんな顔をしていいのか分からず困った末に、ルスカはそのまま困ったような笑みを浮かべた。

 ゆっくりと近づいてくる王のその後ろに、見慣れぬ人影があることに気が付く。

 王に従われてきた黒衣に全身を隠す人物に、ルスカは戸惑いの視線を送った。

「私の友人だ。今年の武闘大会に優勝した」

「あの、噂の?」

「サントとお呼びください」

 頭からフードを取らぬまま深く礼をしたサントに、ルスカも頭を下げて名乗った。

「お前には紹介してなかったが、しばらく城に滞在していてな。ばったりサムドロスと遭遇したことがあったそうだ」

「…え」

「ほんの少しですが、お話を聞かせて頂きました」

「…どんな、話を?」

「…彼の境遇を少しだけ」

 意外そうに目を(みは)ったルスカに、ユリウスは付け足した。

「倒れたサムドロスを介抱してやったらしい」

 驚いたルスカは慌てて頭を下げた。

「…何か失礼なことはありませんでしたか?」

 気遣わしげな視線にサントは小さく首を振る。

「…ひどく、淡々と語られていました。生きることを既に諦めているという風に、まるで老い果てた者のような顔をされていた…」

「……」

 ルスカはサントの視線の先にある墓石を振り返った。

 やるせない思いに顔がわずかに歪む。


 真新しい墓標には、『サムドロス=マダルソニア=リジュー 享年二十八』と刻まれていた。

 その隣には彼の母親、クリスティーナの墓が並んでいる。

 彼女は死して後は故郷の土の下で眠ることを望んだが、その願いが叶えられることは無かった。

「…兄さん、僕は…」

 言葉が続けられず押し黙ったルスカをユリウスは見つめる。

「…背負い込むなというのは無理だと知っている。だが、」

「分かっています」

 珍しく言葉の先を遮られ、ユリウスは口を閉ざした。

「分かっているんです。〝悔恨にばかり時間を費やすことほど無駄なことはない。過去は変えられないし、過去を悔いてばかりいては今を見失う〟…。――それでも、僕は、今、前に進むことが、心底怖い」

「……」

「…あの時から、僕はただがむしゃらに進んできました。脇目も振らずに、ただ前だけを見て。それが正しいとか間違っているとか、そんなことを省みる余裕さえなかった。…けれど、その過程で僕はサムドロスのことを見落とした。いえ、故意に見ようとしなかったのかもしれません。あの頃の自分に、サムドロスの苦しみを背負う勇気も度量もあったとは思えませんから…」

「…ルスカ」

「あれから、――陛下の前で懺悔し贖罪を誓ってから、二十年近く経ちました。僕は、己の罪を償うため、大恩ある陛下のため、何より今生きる民のために尽力してきたつもりです。…ですが、今になって思うのです。この十八年、自分は一体何をやってきたのだろうか、と…。僕はサムドロスに何もしてやれなかった。罪を償うと言いながら、あの頃と同じ過ちを僕は再び犯しました。このままではいけないと分かっていながら、拱手(きょうしゅ)傍観(ぼうかん)していた。…結局、僕は、何も変わってはいなかった」

「……」

「僕はどこまでも臆病な人間だ。サムドロスの死に打ちのめされて、この十八年間を否定してしまいたくなるほど、揺らいでいる。己の家族を幸せにできなかった人間に、民を幸せにすることができるのか、と」

 黙ってルスカの独白を聞いていたユリウスは、厳しい目を、己の従兄弟である臣下に向けた。

「もし、自分のせいでサムドロスが死んだなどと思っているのだとしたら、それはサムドロスに対する侮辱だぞ。自分が弟を不幸にしたなどと思っているのだとしたら、思い上りもいいところだ」

 虚を衝かれた顔をしたルスカに、ユリウスは(さと)すように続けた。

「お前の弟はそれほどまでに脆弱だったか?」

「え…」

「ただでさえ、矜持の高い男だった。お前の弟は己の罪と罰の一切を自分自身で負うことを望んでいた。サムドロスはお前に庇護され守られたかった訳じゃない。あいつはお前の重荷になる自分の身を何より(いと)うていた。お前と対等になりたかったんだ。一人の男として」

「……」

「死して尚兄の負担になることを、サムドロスが喜ぶと思うのか?」

「僕は、サムドロスを重荷だなんて思ったことなど…!」

「だがサムドロスは、自分は兄の負担であると信じて疑わなかった」

「っ」


 ――『……僕は、あんたの弟になんてなれないと、ずっと思っていた』


 確かに知らなかった。

 サムドロスが異母兄である自分に対する劣等感と負い目に、そこまで苦しんでいたなんて。

「ルスカ、サムドロスの人生はサムドロスのものだ」

 はっとして顔を上げると、厳粛な空気を放つ王の顔があった。

「お前の弟は、王である私を助けるために自らの死を選ぶことで、罪を(あがな)った。兄であるお前がそれを誇りとすることを、サムドロスは望んでいるだろう。己の弟を想うのなら、その苦しみと悲しみを受け入れて、死した者のために、その死を誇れ。お前の弟は体を張って私を守った。自分の意思の力でそれを選び取った。――お前がいつまでも自分の責任だと彼の死を嘆くのは、お(かど)違いだ」

「……」

 息が詰まった。

 ポロポロとルスカの目から涙が零れ落ちる。

「…サムドロス様は、きっと救われたでしょう。笑いながら逝ったのだと聞きました。過去の呪縛から解かれ、己の存在意義を貴方方の中に見出すことができたのだから…」

 黒衣の人が語る静かな声音が、ルスカの耳朶(じだ)をそっとなでた。

「…死を待つ身で、己の死を見つめながら、死んだように生きてきた彼が、貴方方のおかげで初めて生きることができた。一瞬の生だったかもしれません。それでも、あの人は感謝しているでしょう。例え、死の淵にあってだとしても、初めて生きることの価値を教えてくれた貴方方に」


 ――『…もう少し…一緒に…生きて、みた…か……』


 穏やかに笑ったサムドロスの顔がよみがえる。

 信じてもいいのだろうか。

 あの瞬間、彼は確かに幸せであったと。

「…幸福を決めるのは、境遇ではない。人の心だ。最期に見せたサムドロスの顔を、信じてやれ、ルスカ」

 王の言葉に、こみ上げてきたものを抑えることができず、ルスカはきつく目をつむった。

 信じたい。

 サムドロスの最期が幸せなものだったのなら、自分も救われる。

 そう思った時、ぶわりと胸に迫ってきた想いは、最後に笑ってくれた弟に対する感謝の念だった。

(…ありがとう、サムドロス…)

 最後に、笑ってくれて。

 一緒に生きたいと望んでくれて。

 こんなに不甲斐ない兄に恨み言を吐くのではなく、受け入れてくれて。

「…君が、僕の弟で……本当に、よかった…ありがとう……」

 ぼろぼろと零れ落ちる雫が、手の中にあった短剣の刃を伝って、墓石の前の地面に吸い込まれていく。


『いい年した男が年甲斐もなく、弟の墓前でぼろぼろ泣かないでよ。兄さんは自分の年齢自覚したほうがいいんじゃないの?』


 そんな声が聞こえてきた気がして、ルスカは笑った。

 ああ、サムドロスならきっとこう言っただろう。

 意地っ張りでプライドの高い彼は、猛烈に素直じゃないから。

 けれど、知っている。


『まぁ、せいぜい、頑張りなよ。……早くお母様を安心させてやってほしい』


(……ああ)

 本当の彼はとても澄んだ目をしていて、穏やかに笑った顔は驚くくらいきれいで、優しい。

(…約束するよ、サムドロス。僕も、君が誇れるような男になる…君の兄として恥ずかしくないような男に…)

 どこかでサムドロスが笑った気がした。


 その日、初めて弟と以心伝心で通じ合ったような不思議な高揚感に、ルスカはサムドロスの眠る墓の前で、泣いて、笑った。




「……本当はこの剣をここに置いていこうと思っていたんですが…」

 しばらくして大きく息をついてから呟いたルスカの背に、ユリウスは尋ねる。

「持って帰るか」

 汚れた短剣を見つめたまま、ルスカは頷いた。

「…忘れないために。この刃にはサムドロスの痛みが詰まっている。彼の誇りの証でもあるから」

 決意とともに、ルスカは振り返った。

「もう泣きません。僕には貴方から任された民がいる」

 ユリウスが頷くと、ルスカは万感の思いを込めて、深々と頭を下げる。

「…早く戻ってエリス殿を安心させてやれ。お前達兄弟は母を心配させることが上手くてかなわん」

 笑い含みの台詞に慌てて頭を上げたルスカは、主がここに来た訳を悟って、困ったように笑った。





 南領公ルスカ=アーベルの異母弟、サムドロス=マダルソニア=リジューは、国王ユリウス=シーザーの身を自らの身命に代えて護ったとして、死して後、聖騎士(サンバリアン)としての尊号を与えられ、聖騎士に与えられる誓いの短刀が王の手により墓前に下賜された。

 病弱な身ながらその魂に宿ったアストラリアとしての誇りを讃える石碑が、ユリウスの命により建てられ、アストラハン武勇偉人伝の中の一人として名を刻む。

 (いしぶみ)にはこうある。


 〝苦しみの中で(つちか)われた精神は肉体を凌駕(りょうが)し、その克己心(こっきしん)は往年の勇壮な志士連と甲乙つけがたし。ここに故人の冥福を祈るとともにその偉功を讃え、聖騎士の称号を与える〟


 ルスカの持ち帰った短剣は、その証として後世に伝えられた。

拱手傍観【きょうしゅぼうかん】…事に際し、腕を組んでわきで見ているだけで何もしないこと。手をこまねいて傍観すること。


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