57 道化師の本性
「それは予想外だった。まさか自力で薬の呪縛を解くとはねぇ。見くびりすぎましたか」
パンパンと手を打ち鳴らす音と同時にその場に不釣合いな、感嘆するような声が落ちた。
ユリウスはゆっくりと、立ち上がり、声のする方を振り返った。
「…生きて帰れると思うなよ」
立ち上る殺気を隠しもせず、ユリウスはナギブを見据えた。
側近くに戻ったジュリアとバルトークは、全身に冷や汗が吹き出るのを感じながら、ごくりと息を呑み込む。
「……おっかないおっさんだ」
その気配に肩を震わせたと思った男は、あろうことかそのまま肩を揺らして、一転して低い声で笑い出した。
「あんたの許しを請うて泣き叫ぶ、歪んだ面が見たくなった」
うっすらと目を開け、まるで好きな女に愛の言葉を告げるかのようにひっそりとささやく。
嗜虐的な愉悦を含んだその表情に、リリアとエリスは顔を凍りつかせた。寒々しい気配に、体が震える。憎しみのこもる目でナギブを睨み付けていたルスカの体には、戦慄が走った。
なんだ、あの男は。
狂気に支配されているのではない。己の行動を客観的に認識して制御できる冷静さが男の目にあった。
だが、気が触れているのでもなく、まったくの正気であのように理性的に残忍になれるのだとしたら――、そう考えて、ルスカはぞっとした。
あの男は危険だ。
得体の知れない恐怖に肌が粟立ち、ルスカはギュッとサムドロスの体を抱きしめた。
青筋を浮かべて今にも斬ってかかりそうな勢いの二人の騎士をとどめながら、ユリウスは口を開いた。
「…お前の目的は何だ。何故、私の命を狙う」
「それは誤解ですね。それを欲したのは、そこでおっちんだ坊ちゃんでしょう。私は面白そうだったから協力してやっただけですよ」
「陛下っ!」
バルトークとジュリアが我慢ならないと言うように同時に吼えた。
「あのような輩の戯言を耳に入れるべきではありません」
ジュリアは主が彼と会話をすることさえ耐えられないというように、唸った。
それをユリウスは視線だけで抑える。
「…では、今一度聞こう。お前の目的は何だ」
「世界の滅亡」
絶句した男達に、ナギブは噴き出した。
「なーんて、言ったらどうします? 私は悪の親玉配下の悪の手先。そして、貴方たちはさしずめ正義の味方だ。笑えるでしょう」
「下らぬ」
くつくつと笑う男を、ユリウスは一言の元に切り捨てた。
ナギブは、大袈裟に肩を竦める。
「世界征服って言ったほうが面白かったですか? まぁ、いい。そろそろお開きにましょう。使い物にならなくなった人形には興味がない。とんだ骨折りだったが、まぁ、暇つぶしにはちょうどよかったですよ」
「待てっ!!」
一つ跳びに後ろに下がった男にジュリアは叫ぶ。
「貴方は詰めが甘いようですよ、きれいな騎士様。次会う時はもう少し楽しませてくださいね」
その時。
「……お前か」
低い声が落ちた。
「ん?」
決して大きい声ではなかったのに、何故かその静かな呟きは誰の耳元にも届いた。
ゆっくりと、白い薄紗を被衣にした娘が立ち上がる。
娘の周囲に風が吹いているのか、ゆらゆらと衣が揺れていた。
「……」
ナギブは微かに眉をひそめ、その娘を見た。
伏せていた面がゆっくりと上げられる、被衣の下の顔があらわになる、閉ざされていた瞼が持ち上げられ、その下の目がナギブを捉えた。
「――!!!」
紅い目。
血のように赤い、真紅の瞳。
目が合った瞬間、頭蓋骨に「ドン!」というものすごい衝撃音が響き渡った。
思考が真っ白に塗り潰され、目の前の現実はものすごい勢いで意識の外へと遠ざかっていく。
五感が遠い。
己が今どこに立っているのかも分からない。
必死に警告を発する己の心臓の拍動だけが感じられた。
残像のように脳内でチカチカと瞬く紅は、非常警報に他ならない。
「―――――――っ、」
その瞬間、一際大きく光った赤い警告ランプに、ナギブは己の直感に従ってとっさに地を蹴って後方へと跳び退っていた。
パキンという乾いた音を皮切りに、音のなかった世界に聴覚が戻る。
鼻筋を伝う感触に指先で触れてみると、瞳の中に指紋を彩る強烈な赤が飛び込んできた。
それを合図に視界が開けた。
先程まで己のいたはずの場所に視線を戻すと、そこには剣を持ってこちらを睨む金髪の騎士の姿。
真ん中から真っ二つに割れた眼鏡の残骸が数歩先に落ちている。
体にべたつく衣服が不快だ、そう思った瞬間、ナギブは自分が全身にびっしょりと汗をかいていることに気が付いた。
突然硬直して動かなくなった男に斬りかかったジュリアは、ナギブの額を見て、一撃でしとめ損ねたことに舌打ちする。
低い低い声が、落ちた。
「……いいよ、おもしろいよ、あんたら」
眼鏡越しではない、すっと開かれたその目に、ジュリアは瞠目した。
男の表情が柔和なそれから一変していた。
つりあがり気味の細い目の中にある瞳は、残忍な男の本性を現したかのように、酷薄なもの。
不気味に細められた目は、相対する者に本能的な恐怖と身震いを引き起こさずにはおれないほどに禍禍しい。
男はもはや、どこにでもいそうな風采のあがらない中年男性ではなくなっていた。
くたびれた地味な服は最早ふさわしくない。
あれほど分相応に身に合っていた衣服が、まるでサイズの合わない紳士服を着た淑女のように、ちぐはぐで違和感だけを募らせるものになっていた。
その齟齬が一層、男の異様さを増長させている。
「残念だねぇ。もう少し遊んでやりたいところだが、分が悪そうだから今日のところは退散するよ」
「ふざけるなっ!!」
だが、ジュリアの攻撃をひょいとよけて、ナギブは言う。
「……覚えとけよ。俺はやられた借りは万倍にして返す男だ」
ちらりとその目を白い被衣をした娘に向けてから、身を翻すとそのまま薄暗い闇の中に溶けていくように姿を消した。
「待て!」
ジュリアの怒号が空しく響く。
だが、その怒声に返ってくる声はなかった。
一瞬の静寂の後、誰かの哀切な泣き声が暗い夜の闇の中に吸い込まれていった。
風采【ふうさい】…人のみかけのすがた。ふうてい。
齟齬【そご】…くいちがい。ゆきちがい。