56 厳粛な死
「う、ああああああっ!!!」
未知の呪文を聞いた途端、サムドロスは髪を掻き毟りながら、甲高い奇声を発してその場に蹲った。
「サムドロスっ…!?」
慌てふためくルスカ達を見て、ナギブは嗤った。
「あの薬はいわゆる向精神薬の類でしてね。催眠剤としても有効なんですよ」
「なんだとっ!!」
剣を突きつけて声を荒げたジュリアに、唇の端を更に上げる。
「制御不能の人形に価値なんてないでしょう? 知ってます? 催眠術ってのは便利なものでねぇ、催眠術下に死ねと命じると、自ら首を掻っ捌いてくれるんですよ。暗示にかける方法もいろいろとあってね、私はまだまだ勉強中の身なんですが、例えば言語暗示法ってやつです。ある言葉をきっかけに、被術者を催眠術下に入らせ、己の思うままに操作する。まぁ、私の腕では強迫観念を想起させる程度なんですがね」
「なっ!!」
ジュリアとバルトークが振り返った時、サムドロスはいつの間に拾い上げていたのか、手放したはずの短剣を手に、エリスの首に腕を回していた。
「サムドロス…!!」
ルスカの悲鳴に合わせるように、サムドロスはエリスを縛める腕の力を強めた。
エリスの耳元にヒューヒューと木枯らしのような荒い呼吸音が響く。自分の首を絞める腕は炎のように熱かった。
苦しそうにエリスは、サムドロスの名を呼ぶが、彼の耳には届かない。
今、サムドロスの脳裏を占めているのは、自分と同じ金の髪を持つ少女の声だ。
(サムドロス、私のかわいいかわいい息子)
「お、か…あさ…ま…?」
(約束したでしょう?)
「……や…くそ…く」
(あの男を殺して。私から全てを奪ったあの男を)
「…あの、おとこ…?」
空っぽの目を、目の前の大柄の男に向けた。
――違う
己の中から湧き上がってきた抵抗の声に、サムドロスは首を振った。
「…違う…あの人は、違う…」
(何を言っているの? 早く私の怨みを晴らしてちょうだい)
「……いや…だ……」
(サムドロス、お母様の言うことが聞けないというの?)
「…っ…」
幼かった少女の声は、突如年老いた女のしゃがれ声に豹変した。
(早く殺せ、あの男を、汚い手で泣き叫ぶ私を無理矢理蹂躙していったあの男を…!!)
ねっとりと絡みつく視線
吹きかけられる生温い吐息
耳元にささやきかけられる、しわがれた低い声
――『ドリー、私のドリー』
骨細いしわくちゃな手が伸びてくる
頭の中で再生された光景に、言葉にできない感情が迸った。
「ああああああああ!!!」
「!!」
「陛下っ…!!!」
ジュリアとバルトークは叫んだ。
「サムドロスっ!!!!」
ルスカとエリスは悲鳴を上げる。
リリアとルスカを背後に押しやりながら、エリスを突き飛ばして刃を光らせながら突進してきたサムドロスに、ユリウスは身構えた。
《サムドロス!》
その時、強烈な風が吹いた。
「っ」
突然の強風にジュリアは腕を上げる。
風が雲で月を隠したのか、不意に辺りが暗くなった。
同時に、たとえようのない不安がジュリアの中で広がった。
突風にさらわれた砂塵がおさまり、雲を通して月影がぼんやりと下界の輪郭を縁取る。
その中で、視界の先に飛び込んできた映像にジュリは心臓ごと呼吸を止めた。
浮き上がった二人分の人影。
ユリウスは、己の胸に頭をつけるように前のめりになって密着しているサムドロスを、抱え込むようにして立っていた。
短剣を持っていたはずのサムドロスをその懐に迎え入れ、両の手はサムドロスの両腕の上に支えるようにして置かれている。
つまり、サムドロスの持っていた刃を阻むものは何も無かった。
無防備に開かれたその体に、間違いなくその刃は届いただろう。
「っ…陛下――!!」
どう考えても、刃は王の体を穿っていた。
己の目の前に立つ父の開かれた足の間にポタポタと落ちた赤い斑点を認めた時、リリアはぞっと全身の毛が逆立つのが分かった。
「…お父様っ!!!」
正面から向かい合って体を密着させた二人の男の向こうで、エリスは青い顔で呆然と地面に手をつき、ルスカはリリアの背後から彼女の肩を支えながら母と同じような表情で主の背中を見ていた。彼らから距離を開けているバルトークとジュリアの二人は硬直している。
「…サム、ドロス…」
ユリウスのかすれた声が落ちた。
その時、誰一人として動くことができずにいた時の止まった空間に、白い薄紗を被った赤い髪の娘が現れた。
それが合図だったかのように、サムドロスの体が地面に沈みこむ。
ユリウスはとっさにその腕をつかみ、己の方に引き寄せ、ゆっくりと、二人一緒に膝をついた。
ゴボリと、地面に面を伏せその口から赤い血を吐いたのは、サムドロスだった。
「サムドロス!」
王の叱咤する声が響くと、呆然としていた者達もハッとして我に返る。
「え…?」
「あれ…」
戸惑いの声を上げる人々に先んじて二人の元へ駆け寄ったサントが目にしたものは。
「…っ」
自らの胸を突き刺している、サムドロスの姿だった。
「…もうし…わけ、ありま…せん……どうやら、貴方の懇命に、報いることは、…できそうに…ありません…」
「…何故だ」
サムドロスは笑おうとしたが、すぐに顔を歪めて苦しそうに喘いだ。
己に向かって刃を突き出すと予想していたサムドロスが、直前で突然その刃先を彼自身に返した時、あまりにとっさのことで、己に対する攻撃に身構えていたユリウスは、それを止めることができなかった。
サントは横たわったサムドロスの傍らに膝をつき、その手を刃の刺さった傷口に伸ばす。
(…この、刃の入り方では…)
短剣は鳩尾の下から、体面に対して斜めに鍔際近くまで深々と突き刺さっていた。
じっと見つめる王の視線に、サントは小さく首を振った。
ただでさえ、病を患っているサムドロスの身体では、きっと、持たない。
「……痛みを、和らげてさしあげることしか」
そう言って、未だ自らの体に突き刺さっている短剣の柄を握ったままのその両手をゆっくりと開いて外させると、刃が刺さったままのそこに両手を当てた。
急速に遠ざかっていく痛みに、もう死が近いのかと思ったサムドロスはゆっくりと目を開ける。
呼吸が楽になり、意識が朦朧とするどころか鮮明になっていくことに、ほんの少し驚いた。そして、目の前の娘の顔に、あぁ、と吐息をつく。
「…君か」
「……」
「…僕を止めてくれたのは、君、だろう…?」
サントは苦しげに目を伏せる。
それを肯定と受け取って、サムドロスは微かに笑った。
「…君には助けてもらってばかりだな…」
目を閉じて続ける。
「…ありがとう…本当は、嬉しかったんだ…あの時の言葉も…」
いつになく素直な自分を自覚して、サムドロスは素直に驚く。
ああ、もうすぐ死ぬからかと苦笑したが、考えてみれば概ねこの娘の前では柔順だった自分を思い出し、サムドロスはその理由を少し追求してみたい気持ちになった。
だが、そんな時間は自分には残されていないのだろう。
「…君が教えてくれた、僕の目と同じ色の空、見てみたかったけど…もう、無理みたいだ」
残念だな、と笑いながら呟く弟を、ルスカは凝視した。
「…サムドロ…ス…?」
「…何、馬鹿面さらしてるのさ、兄さん」
まだ事態の展開についていけていないのか、呆然と己を見下ろしている兄の顔を捉えた時、サムドロスの中にすまないことをしたという気持ちが真っ先に湧いたが、口から出てきたのはそんな言葉だった。
その声がいつもよりもずっと柔らかかったことは、本人も自覚してのことではなかったのだろう。ルスカはこんな時にも憎まれ役を忘れない弟の姿に、むしろ顔を歪めた。
その胸に深々と埋められているものは何だ?
そこからにじんでいる赤は?
体を支えていることができず、かくんとルスカの膝が落ちた。
震える手を、血に濡れた弟の手に伸ばす。
ギュッと握り締めると、ぬるりと己の手を濡らす感触を覚えたが、そんなものはどうでもよかった。
「…サムドロスっ……!」
怒り、悲しみ、自責、後悔、恐怖、絶望、それらが一緒くたになってルスカを襲った。
小さく絞り出された声には、〝何故!?〟という詰問に帰結する響きがある。総じて、その言葉に凝縮されていたのは、〝痛み〟だ。
ポタポタと両手で握り締められた己の手の上に落ちてくる雫に、この男は泣いてばかりだなと思ったらおかしくなったが、泣かせているのは自分かと、サムドロスは吐息をつく。
不思議だなとサムドロスは思った。
死の淵にあって、こんなに穏やかな気持ちでいられる自分がおかしかった。
今まで自分は何をあんなに怯えていたのだろう。あんなに死を恐れ、時には死を願い、ただひたすらその運命に怯えていたこれまでの自分が嘘のようだった。
今、自分は生まれて初めて、全てを受け容れ、あらゆる苦しみからも解き放たれて、驚くほど安らかだ。
死に際というものは、皆こんな風に虚心坦懐とした心持になれるものなのだろうか。こんな風に従容として死に就こうとしている自分が、サムドロスは不思議だった。
「……サムドロス」
だが、呼びかけられた声に顔を向け、彼女の顔を目にした時、サムドロスの胸はちくりと痛んだ。
「…お母様…」
ずっと言えなかったその言葉がぽろりと零れ落ちる。エリスはやはりその顔を歪めた。
顔を揃えて涙を流しながら食い入るように己を見つめる、面差しのよく似た母子の姿に、サムドロスは深い感慨を覚え、口で言い表せない初めてのその感覚に少し戸惑ったが、ああ、悪くないと思った。
自分が死ぬ時は、たった一人孤独に死んでいくものだとばかり彼は思っていた。
ある日突然誰にも気づかれないままあっけなく終わりを迎えるのか、あるいは大仰に人を集めた湿っぽい空気の中死に逝くのか。
だが、死に際にあって、周囲をどれだけの人間に囲まれていたとしても、心が隔たりすぎていて触れ合うことはないだろうと思っていた。結局は孤独だと。きっと、今までの自分なら母や兄が涙を流して悲しんでくれたところで、その涙を信じることはできなかった。
死ぬ直前にうるさく騒がれるよりは、誰もいない場所で、本当にたった独りきりで、誰にも看取られることなく、どこまでも孤独のまま、自嘲だけを唯一の友に、ひっそりと朽ちていきたい。
死が身近なものだったサムドロスにとって、己の死の場面を想像するのは昔からの癖で、理想の死に方が、それだった。
だけれども。
(…こんな死に方も、悪くない)
緩やかに笑むと、そろそろ視界がぼやけてきた。
目の前がかすむ。
「サムドロス!!」
ぎゅっと己の手を握る二人の声に、重くなってきた瞼を持ち上げる。
もう少しだけ、時間が欲しい。
頭の上で自分を見下ろす王に、視線を合わせる。
言葉を募ろうとして喉が掠れているのに気がつくと、一度目を閉じ血の味のする唾を呑み込んでから、もう一度、口を開いた。
「…陛下、この件の責は全て私の負うべきもの…厚かましくも、このようなことを頼める立場にないことは、存じておりますが、…私の一命で贖いを…、どうか私の縁者には類が及ばぬよう、何卒、貴方のご温情を以って…」
張り詰めた表情で、声を押し殺し、懇願するように言った。
「…分かった」
安心させるためなのだろう、口元に微かな笑みをかたどって同意してくれた王に、安堵と深い感謝の念を抱いた。
己に太刀打ちできるとは思えない彼の大きさと深さが、ぼろぼろの全身に染み渡るようだった。再度、未遂に終わった罪に心から安堵した。
己の胸に癒しの手を当ててくれているらしい娘に対して、ありがとうと、心の中で呟く。きっと口に出さなくても、彼女には伝わると思った。
「…死に花を咲かせることが、少しは、できた…かな…」
「ああ。お前の勇気に敬意を。お前は誇り高いアストラリアだった」
答えを期待した訳ではないぽつりと零した独白に、間髪いれず力強い肯定を返してくれた王を、呆然と見返し、サムドロスは困ったように笑った。
(…確かに、寛大すぎるな…)
目頭が熱くなって、目を閉じた。
ゆっくりと息を吐いて、最後の力で瞼を押し上げる。
ルスカとエリスをその瞳に映した。
「……あなたたちが、僕の兄と母で、よかった…――感謝します。こんな愚かな僕のために心を砕いてくれて……ありがとう…」
エリスは己の口を手で覆い、サムドロスはグッと歯を食いしばる。
二人とも嗚咽をこらえるのに必死で、言葉もないようだった。
その様子に、サムドロスは笑う。目を細め、唇は緩やかな弧を描いた。
ルスカとエリスは目を見開く。
「……もっと、言わなきゃいけないこと、…ほかにあったはずなんだけど…」
「サムドロス…」
サムドロスは苦笑した。
「…まいったなぁ、…今になって、もう少し生きてみたいと…思う、なん、て…」
「!」
「…もう少し…一緒に…生きて、み、た…か……」
ツーと一筋の雫を流して、そのままサムドロスは目を閉じた。
「…サムドロス?」
おそるおそると、ルスカが声をかける。
「サムドロスッ!!」
ぎゅっと握り締めた手には、握り返してくれる力がない。
「っ…!!」
ユリウスはゆっくりと瞑目し、リリアは涙の残る目で視線を逸らした。
サントは胸の上から、その手を離す。
エリスは目を閉ざしたまま開かないサムドロスのその顔に手を伸ばし、張り付いた髪を優しくよけた。
瞼の上を指の腹でなぞり、額から頬に向かって手を滑らし、血で汚れたその口元を自分の服が汚れるのも厭わずに拭う。
されるがまま、何の反応も返してくれない息子に、唇が震えた。
「…逝った、のね」
向精神薬【こうせいしんやく】…中枢神経に作用して精神状態に影響を与える薬剤の総称。
懇命【こんめい】…親切なおおせ。ねんごろな心ぞえ。
虚心坦懐【きょしんたんかい】…心にわだかまりがなく、さっぱりしているようす。
従容【しょうよう】…ゆったりとして迫らぬさま。おちついたさま。