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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
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55 傀儡師の呪文

 欠けた月が空にあった。

 満天の夜空には星達が踊り、終局を迎えようとしている夜に、風が優しくねぎらいの言葉をささやく。

 サントは一人離れたところから、輝く月を見上げていた。


 ――『お前は愛されている。お前が目を逸らしていただけで、いつだってお前は愛されていた』

 ――『生きろ、サムドロス』


 なんて大きな光だろう、とサントは思った。

 暗闇の中にぽっかりと浮かぶ満月の光でさえ恐れる自分には、広く深い青空を(ふところ)に収めたあの太陽には近づけない。

 きっと自分では、望むには眩し過ぎて、この血に染まった紅い目など潰されてしまうだろう。

 それともあの太陽は、己の罪を白日の(もと)にさらしたのならば、跡形もなくこの体を焼き尽くしてくれるだろうか。

 そう思って、サントは苦笑した。

(己の生は己で責任を負わなくてはならない)

 自分は彼の臣下でもなんでもない。本来なら、近づくべきではない相手だ。

(…それでも、会いたかった)

 どうしても、会いたかったのだ。

(貴方が、あの方に惹かれた理由が分かりました…、サラハ様)

 あの人は、貴方と同じ色の魂を宿している。

(貴方が私にとっての希望であったように、あの人が、貴方にとっての希望であった)

 そっと、左手の薬指にはまった指輪に目を落とす。

 青い石が緩やかな月の光を受けて、うっすらと輝く。

(……いい夢を、見させてもらいました)

 けれど、もう自分の役目はここで終わりだ。

 サントはそっと、喜びの涙を流している人々を見やった。




「立てるか、サムドロス」

 大きく節くれだった手を差し出され、サムドロスはその手の持ち主を一度仰ぎ見ると、横にいた兄に促されるままためらいがちに手を伸ばした。

 ユリウスはその細い指を己の手の中に納めると、ぐいと引っ張り上げる。

 思わぬ力強さに、サムドロスはたたらを踏みながら、地面に足の裏をくっつけた。己の両脇で兄と母が自分を支えるかのように立ち上がる。

(支えが必要なのは自分のほうだろうに)

 サムドロスはちらりと隣に立つ兄を見やった。

 血の気の少ない顔にうっすらと額に汗をかいているのを認め、眉をひそめる。

(お人好しが)

 ゆっくりと、(つな)がれていた手を外すと、サムドロスは王の顔を見上げた。

「いかようにも罰をお受けします」

「その前に、お前の罪を明らかにせねばなるまい」

 サムドロスの両脇から口を出そうとした二人を、ユリウスは苦笑交じりに制した。

「二人が、自分自身を責めている気持ちは分かっている。そう、案ずるな」

 ユリウスはまっすぐ自分を見つめ返すサムドロスを見下ろした。

「…サムドロス、お前に罪を(そそのか)した人間がいるはずだ」

「!」

 サムドロスが口を開こうとした時だった。


「――やれやれ。まったく、困りましたねぇ、サムドロス様」


 いつからそこにいたのか、男は暗闇を背負って立っていた。

「あんなに私がお膳立てしてあげたというのに、悪役にもなりきれないなんて、貴方にはがっかりですよ」

 オールバックにして後ろで一つにまとめた長髪、丸い黒縁の眼鏡、細められた目と()けた頬の、痩身の男。

 古ぼけた衣服に身を包むその姿はどこにでもいる中年男性のそれであり、まったくの平凡で、それ故にこの場では浮いていた。

「お前はっ…!!」

 驚愕の声が上がる中で、ルスカは怒りをあらわに声を張り上げた。

「お前が弟を唆したのだなっ!!!」

 男はとんだ濡れ(ぎぬ)だとでも言いたげに肩を竦めて見せた。

「唆したなどと、人聞きの悪い。私はただ、彼の奥底にあった願望を引っ張り出してやっただけ。滅びを望んでいたのは彼自身の心ですよ」

 ビクリとサムドロスが震えたのを目の端で(とら)えながら、男はその横に立つ人物ににこやかな笑みを浮かべる。

「お初にお目にかかります、マダリア国王陛下」

 右手を胸に当てわざとらしく会釈してみせた男を、ユリウスは見据えた。

「…名は?」

「これは失礼いたしました。ナギブ=レザノフと申します。以後、お見知りおきを」

「私の騎士を前にして以後があると思っているのか?」

「さて、どうでしょう」

 剣を持って自分を睨み付ける男達ににやりと笑って、ナギブと名乗ったその男は視線をサムドロスに据えた。

「さてさて、どうします? サムドロス様。今貴方がその男を殺すのなら、無様な失態には目をつぶってあげてもよろしいのですが?」

「…僕は、もう、やめた…」

「ほお、お母様の怨みを晴らして差し上げるおつもりはないと? なんとまぁ、薄情な息子ですね」

「…やめろ」

 サムドロスの顔は青ざめ、呼吸が荒くなっていた。

 仮面を(かぶ)った男の笑みに、知らず追い詰められる。

 眼鏡の奥で光る冷たい瞳に気が付いた時、ドクンと大きく心の蔵が震えた。


 だめだ、まずい、落ち着け、怖い、まずい、嫌だ、怖い、鎮まれ、怖い、嫌だ、嫌だ、治まれ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、


 ――来る

 叫びだしたくなる衝動を抑えて必死に息を呑み込む。

 それでも、身の内からせり上がってくるもの。

 この感覚を、サムドロスは知っている。

 己の体の内側から迫り来る予感。這い上ってくる、恐怖。こみ上げてくる絶望。――赤い奔流が体の中で決壊を起こす。

 その瞬間、ひどい(せき)と共にサムドロスの口からまさに決河(けっか)の勢いで血の(かたまり)が吐き出された。


「サムドロスッ!!」

 エリスとルスカの口から悲鳴が上がった。


 鼻を刺激する生臭い臭い。

 己の中でこもる熱。

 口の中に張り付くように広がる鉄の味。

 あぶくの混じった暗い赤。

 耳を掠める喘鳴(ぜんめい)の中、頭蓋骨で反響する耳鳴り。

 頭がくらくらする。

 目が霞む。

 体の内部のそこらじゅうで細胞という細胞が不平不満を訴えていた。

 全身全霊、総力で、悲鳴を上げて助けを求める。

 たすけて、たすけて、くるしい、くるしい、くるしい、いやだ、こわい、たすけて、たすけて、たすけて

 呼吸もままならない状態で、第二波がやってくる。

 ごぼっ、という鈍い音が零れ、先程よりも大量の血が口から(こぼ)れた。


「ほおら、苦しいでしょう? サムドロス様。早くこの薬を飲まないと、貴方の体は持ちません。王を殺してくれるなら、この薬をあげましょう」

 そう言って男は顔の横で、小さな小瓶を振った。


 ホシイ、ホシイ、タスケテ、ダレデモイイ、オネガイ、ダレカ、ナンデモスル、ダカラ…

 混乱した思考は必死に助けを求めて叫ぶ。

 今、この瞬間にこの苦しみから解放してくれるなら、悪魔に魂を売っても構わない。


 その時、目の上を冷たい何かが覆ったかと思ったら、すぐ耳元で女の声がした。

「サムドロスっ、息をして! 呑み込んじゃダメ! 呼吸をしなさい!!」

 突然強い力で背中を叩かれた。

 その拍子に軌道を塞ぐように気管に張り付いていた血痰(けったん)が口から飛び出す。

 暗い視界の中で、必死に言い募るその声を聞いた途端、己に圧し掛かっていた漠然とした恐怖が薄らいだ。

 依然体は悲鳴を上げて叫んでいるのに、思考のどこかが冷静に呼吸をしろと己に命じる。


 落ち着け。慌てるな。大丈夫だ。怖くない。


「はっ、」

 サムドロスゆっくりと目を開けた。

 己の背をなでる感触に、勇気付けられ、目の前に映った男に向かって声を振り絞った。

「……こと、わる…僕は、お前の言いなりには、ならない……」

 口の周りを赤い血で汚しながら、ぜいぜいと苦しげな呼吸の下で言ったサムドロスに、ピタリと男の動きが止まった。

 おもむろにうつむき、額を親指と人差し指で支えるように触れたかと思うと、くくくと肩を揺らして笑い始めた。

「…なに、が、おかしい…」

「……おつむの弱い坊ちゃんだなぁ。本当に貴方には失望しましたよ。意趣返しに、ささやかな絶望をプレゼントしてさしあげましょう」

 発作と必死に戦っていたサムドロスの顔が、男の言葉に強張った。

「サムドロス様、この薬はねぇ、人の心の奥底にある妄執や存念を浮かび上がらせる幻覚剤みたいなものでね、少しずつ服用した人間の人格を壊していくんですよ。神経に働きかけて体内の毒を意識的に忘れさせてくれるが、決して病が癒える訳じゃない。麻酔薬の粗悪品みたいなもんですね。しかも常用すると精神的な負荷も大きくて。常習性がないのがせめてもの救いです」

 その言葉に、瞠目すると見る見るサムドロスの顔は青ざめていった。

 それを見て、滑稽だとでも言うように男は笑う。

「気付きませんでしたか? 貴方の体、少しもよくなってなんかいないんですよ。むしろ、過信して動き回った分、酷使されてぼろぼろでしょうね。ずっと寝たきりだった貴方が気張りすぎるから。――今のでようく分かったでしょう?」

「……!!」

「第一、そんな都合のいい万能薬なんてある訳ないでしょう。ちょっと考えれば分かりそうなもんじゃないですか」

「…きさ、まぁ…」

「怒りたいのはこっちですよ。せっかく貴方のそのうすっぺらい絶望をあそこまで飼い太らせてやったというのに、この仕打ち。主のご機嫌伺いに丁度いい生き人形が手に入ると思ったのに、とんだただ働きだ。正気に戻った貴方には一銭の価値もない。そんなぼろぼろの体で、いったい何ができると? あまっちょろい、通り一遍の善意に包まれて、他人の自己満足のために飼い殺されるのが落ちでしょう? 貴方の大嫌いな偽善活動の生贄に貴方自ら奉仕することになるなんて、なんとも滑稽な話じゃないですか」

 にこやかに毒を吐くナギブにサムドロスは硬直した。

 そこに、冷たく低い声が落ちる。

「……ナギブといったか、あまり私を怒らせぬほうがよいな」

 ユリウスはスゥーっと目を細めると半眼で男を見据えた。

 王を守るようにバルトークとジュリアが前に出て、その更に前に親衛隊員が剣を連ねる。リリアとエリス、ルスカは王の後ろで膝をつくサムドロスを守るように控えていた。

「くく、いいですねぇ、ぞくぞくしますよ、その目」

 口の端をにい、と上げて、心底楽しそうにナギブは笑った。

 眼鏡の奥で開いた目が、怪しく光る。

「もう一つ、この薬の特性を教えてあげましょうか」

「下らぬおしゃべりはそこまでだ!」

 ジュリアの呼号と共に、数人の親衛隊員達は一斉にナギブに斬りかかった。

 いくつもの白刃が男に向かって殺到する。

 だが、男と剣を持った騎士達が入り乱れたかと思った瞬間、ばたばたと地面に倒れ伏したのは、何故か丸腰の相手に斬りかかったはずの親衛隊員の方だった。

 派手な立ち回りをした訳でもないのに、男と体を交差させたかと思ったら、まるで糸を切られた傀儡(くぐつ)のように、(うめ)き声一つ上げずその場に崩れ落ちたのだ。

 己に向けて振り下ろされた刃をかいくぐった末に、男は平然と立っている。

「なにっ!?」

「あーらら。だから人の話は最後まで聞きましょうよ」

 おどけた仕草で自分の足元に倒れている男達を見下ろし、足元にあった騎士の顔を容赦なく踏み潰すと、ナギブは両腕を大きく広げて見せた。

「!」

 ぎりりっと、バルトークとジュリアは奥歯を食いしばる。

「…何をしたんだ」

 押し殺した声を漏らしたジュリアに、ユリウスが険しい顔のまま答えた。

「暗器の類か」

「暗器?」

「気をつけろ。何か隠し持っている」

 王の言葉に、じりりとバルトークとジュリアは距離を詰めた。

「ジュリア、二人がかりだ。行けるか?」

「…はい」

 慎重な了解の声を合図にバルトークは疾走した。

 一気に距離を詰めてきた大男に、さすがのナギブも目を見開く。

 ブンッと風を切って衝撃波をよこす重い鉄の塊に、その場から跳び退(すさ)った。

「ヒュー、おっかない」

 だが、バルトークは休ませる隙をナギブに与えなかった。

 反撃の糸口を見つけられずただよけ続けるしかないナギブは、いったん距離をとって体勢を建て直そうとする。

 その時だ。

「終わりだ」

 注意が(おろそ)かになっていたもう一人の存在に気がついた瞬間、二つ目の刃がすぐ横から伸びてきた。

 だが、ナギブは驚くべき回避能力で身をよじり、すれすれでそれを避けると、その不安定な体勢から振り向きざまに、何かを放った。

「っ!!」

 思わぬ飛び道具にとっさに首を傾けたジュリアの頬に赤い線が走る。

 ニヤリと笑った男の黒い手袋のはめられた指の間には、医術で使う(しん)のような長い針状の物が数本挟まれていた。

「あれまぁ、きれいな顔に傷をつけてしまいましたねぇ」

 ぞっとする笑顔を見せたナギブに、ジュリアは頬から(したた)り落ちる赤い雫をそのままに、相手を()めつけた。

 だが、男は臆することなく(わら)い返す。

「…いいんですか? 二人そろって主からそんなに離れてしまって」

「なに?」

 唇の端を上げたかと思うと、男はゆっくりと唱えた。


「ルタブート・ゲルティバ・ブーチ・ボッティナティ」




 ドクンと心臓が大きく鼓動して、サントは立ち止まった。

 誰にも気付かれぬ内にあの場を抜け出し、このまま去ってしまおうと思っていた今この時、背筋を這い上がってきた悪寒が告げるもの。


「ルタブート・ゲルティバ・ブーチ・ボッティナティ?」


 血で繋がった怨嗟(えんさ)の連鎖は断ち切れない?


 空気を震わせる、その音は――

 驚愕に瞳を凍らせ、サントは身を翻していた。

決河の勢い【けっかのいきおい】…決壊した堤防から河水が流れ出すような激しい勢い。

通り一遍【とおりいっぺん】…ただ義理・形式・表面だけで、実意のこもらないこと。

鍼【しん】…医療用の針。

怨嗟【えんさ】…うらみなげくこと。

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