52 厭人の独白
知っていた。
一緒に領城で暮らすようになってから、兄が夜になると自分の寝室を訪ねてきていたことは。
領主として一日中忙しく過ごす兄が、一日の終わりには、必ず自分のもとに足を運んで己の顔を確認していくことを。
自分が狸寝入りを決め込んで無言の拒絶を示しているのに気づきながらも、詰ることひとつせず、「おやすみ」と一言言ってから、静かに去って行くことも。
だが、プライドばかりが先行して、兄に甘えることなど自分にはできなかった。
楽だったのだ。
周りを拒絶して、自分の殻の中に閉じこもってしまうほうが。
病身の自分を負い目に感じずにすむから。
「兄の優しさを受け容れることで、何も返せない自己を自覚して心に負担を抱えて苦しむよりは、彼を拒絶することで、己の孤独を守り、自身の精神の安定をはかるほうを、僕は、選んだ…」
その告白に、ルスカは瞠目した。
「そして、僕は知っていた。僕なんかよりずっとディオニュシオスとフィロラオスにふさわしいのは、貴方方二人のほうだということを…」
自分達異母兄弟よりずっとディオニュシオスとフィロラオスを体現させているのが、国王と兄だということを、サムドロスは分かっていた。ルスカがマダリア国王のことを兄とも慕い、臣として全幅の信頼を寄せていることも。
「自分では役不足だと、己のひ弱な体を見てそれを確認するたび、どうしようもない感情に僕は襲われました…。そして、時折自分の私室を訪ねてくる兄に己をさらけ出すことが、何より僕にとって難しいことになった。己の劣等感を刺激する兄は、自尊心の高い僕にとって、心の許せる人間にはなりえなかった」
「…」
「そして、僕は、周囲を拒絶することで、自分の身を守ろうとしたんです」
人の視線にさらされる場所は嫌いだった。
そこには、興味本位の視線かあるいは気まずげな同情の眼差しがあるだけだったから。
自分がその出生から周囲に忌避されている存在だということを、否応なしに思い知らされてしまうから。
一人は落ち着いた。
暗闇の中に溶けこむようにいる自分に安堵を覚えた。
誰も自分を見ないし、誰も自分に気づかない。
「…けれど、それが無性に苦しくなる時があった」
例えば、厚い壁の向こうで楽しそうにおしゃべりする賑やかな侍女の声を聞いた時。
例えば、閉ざされた扉の外で領主である兄に対して賛嘆の声をあげる臣下の声を聞いた時。
自分には手の届かない外の世界から聞こえてくるそれらの声に、自分が一層惨めになるのを感じた。
自分はなんて取るに足らない、ちっぽけな存在なんだろう。
生きている意味が自分にはあるのだろうか。
自分は何のために生まれてきたのだろう。
このままその理由も分からず、いつ生命の期限が切れるのかとビクビクすることだけに終始して、生きていかなくてはいけないのだろうか。
それを考えだすと、夜も眠れなかった。
「幼い頃は死んだほうが楽だと思いました。けれど、いつからか僕は、このまま何もせず死んでいくことのほうを恐れるようになった」
己はただ周りから同情され、忌避されるだけの人生を生きねばならぬのかと思うと、耐えられなかった。
「けれど、こんな体で自分に何かができるとも、僕には思えなかったんです」
それを覚った瞬間、サムドロスは絶望した。
「自分の中のなにかがゆっくりと壊れていくのを僕は感じました」
刃物を集めることが趣味となり、己の出生を思う度独り苦悩し、全てを諦め、厭世的に日々を過ごす。
その間にも、自分の中のものはゆっくりと腐っていって、そして、最後はたった一人で、誰にも理解されず、誰も愛さず、己で己を哀れみ、自分で自分を嘲りながら、どこまでも救えない人間のまま、空しく惨めに死んでいくのだろう。
それが自分には似合いだ。
そう思っていた。
「そんな時でした。あの男が僕の前に現れたのは…」
ふわりと、サムドロスは笑った。
「サムドロス…?」
それまで苦い気持ちでその告白に耳を傾けていたルスカは、不自然なその微笑に顔を強張らせた。
「自分の体が治るという、その言葉に僕は惹かれた」
一歩、サムドロスは後ろに下がった。
「サムドロス、何をするつもりだ?」
ルスカの問いにも、サムドロスはその表情を崩さなかった。
また一歩、後ろへと足を引く。
「兄さんはどこまでお人よしなんだ?」
「……サムドロス、それ以上動くな」
押し殺した声でそう言って、ルスカはゆっくりと腰を上げようとする。
「だめだよ」
それを、サムドロスが制した。
「そこを少しでも動いたら、僕はここから飛び降りる」
あと一歩下がれば、空中に放り出されるという際涯まで来て、サムドロスは立ち止まった。
背後から吹きつける風で、彼の長い髪が顔の横を流れる。頼りなげに揺れる金糸は、今にもサムドロスが目の前から消えてしまいそうな不安と焦燥を与えた。
サムドロスは、体を凍りつかせたルスカから、ユリウスへと視線を移して言った。
「僕の負けです、陛下。結局僕は貴方の言ったとおり、どうしようもないほど子供だった。脆弱なこの身ゆえに、必死にプライドにしがみついていた僕は、唯一それが自分を支えてくれるものだと頑に信じていました。それが僕を破滅させるということに、愚かにも気付かずに。……いえ、本当は気が付いていたのかもしれません。それでも、僕は、それを捨てることなどできなかった。どこまでも愚かで、頑是無い子供のまま…」
「馬鹿なことはやめろ、サムドロス」
厳しい顔のユリウスに、サムドロスは笑う。
「どの面下げて僕が彼らと一緒に行けるというのです? 己の罪を他人に背負わせるような、卑怯な人間にはなりたくない」
そう言ってその横で青ざめているリリアを見た。
「申し訳ありませんでした、リリア様。謝って許されることではありませんが」
「やめて、お兄様」
尚もサムドロスは笑う。
そして、その視線を更にその横へと移した。
「…さようなら」
――お母様。
「サムドロスっ…!!」
エリスの悲鳴と、ルスカ達が足を踏み出すのと、サムドロスが己の体を後ろへと傾けたのは、全て同時だった。
それぞれの想いが交錯して、全てが悲慟の中に落ちようとした瞬間。
《――ラダウ・サムナ》
一拍遅れて唱えられたその呪文は、誰よりも速くその目的を達成させた。
「!!?」
予期した墜落感ではなく想像もしていなかった浮遊感に襲われて、サムドロスは目を見開いた。
彼の半分落ちかけたはずの体は、崖の下からゴオオオと音を立ててものすごい勢いで上ってきた空気の塊に、弾き返される。
「サムドロスッ…!?」
突風がサムドロスの背中を直撃したかと思うと、サムドロスの体は宙へと舞い上がり、前のめりになって崖の向こうから戻ってくる。
それを、ルスカとジュリアの二人が慌てて受け止めた。
そのすぐ近くで、ユリウスはとっさに背後を振り返る。
手の平を空にかざして目を閉じていた赤い髪の娘は、彼と目が合うと視線を逸らして右手を下ろした。
「な、なに、今の…」
呆然とリリアは呟き、己の父がなにやら不謹慎にもうっすらと笑いながら、赤い髪の娘を眺めているのを認めると、怪訝そうに眉をひそめた。
「サムドロスっ!! 大丈夫かっ!!」
ルスカはしっかりとサムドロスの腕をつかみながら、大声で呼びかけた。
侍女に支えられながら息子二人の元へ駆け寄ったエリスは、泣きながらその胸にしがみつく。
「一体、何が…」
安堵の涙を流す感動の場面でジュリアが当然の疑問を口にした時、その後ろからユリウスが言った。
「どうやら天はお前に生きて罪を償って欲しいようだな、サムドロス」
「バカな…」
呆然としながら掠れた声でそれだけ発声したサムドロスの傍らに、ユリウスは膝をつく。
「サムドロス、私がお前に『カシウスになれ』と言ったことを、覚えているか?」
「…カシウス?」
「……カシウス、亡国の復讐者」
白い被衣をした、赤い髪の娘がぽつりと呟く。
「…亡国の、復讐者…?」
「…滅亡当時六歳だった旧ストーンブール公国の生き残り、国の名を受け継いだ直系の正統後継者、カシウス=アスレイ=ストーンブール。当時マダリアの隣国であったロトルア帝国と手を組み、怨敵マダリアに牙を剥いた亡国の復讐者。聖騎士フィロラオスが国王ディオニュシオスのために己の命を捧げることになった、その原因を作った首魁とされた者の名だ」
――ディオニュシオスの死を望み、結果フィロラオスが死ぬという悲劇を引き起こした、復讐者カシウス。
自分の役どころの見事な符合に、サムドロスは笑いたくなった。
「…僕の目論見に気がついていたという訳ですか」
「…今回、武闘大会の不正の首謀者と見られていたファナンという武器商人の顧客リストに、お前の名があることが臣下の調べで明らかになった。お前が今夜何か仕掛けてくる可能性があるということは、エリス殿に言われるまでもなく、分かっていた」
その言葉に、エリスとルスカは息を呑んだ。
「…裏が取れていたのなら、何故昨夜の内に僕を取り押さえなかったのです。貴方の言ったお言葉は、まるで罪をそそのかしているかのようだ。僕を試そうとなさったんですか」
「つながりが分かっただけでは、裏が取れたとは言わない。当の本人が死んでしまっているようでは、裏のとりようがないな」
「…ファナンは、死んだのですか?」
驚きの混じった声に、ユリウスはサムドロスの顔を窺う。
「…お前に薬を飲ませた男は、そうは言わなかったか?」
「…」
「…昨夜のうちに、お前にかかった嫌疑について糾明しなかったのは、ルスカが私に何も言わなかったからだ」
眉根を寄せ必死に記憶をたぐっていたサムドロスは、その言葉に顔を上げた。
ぎくりと、ルスカは体を硬くする。
「エリス殿同様ルスカは危惧していた。けれど、ついぞそれを王である私に言うことをしなかった。お前の様子について私に相談した時も、嫌な予感がするとは言っていたが、自分の中の疑念をはっきりと言葉にすることをしなかった」
サムドロスは己の横で顔を曇らせているルスカを凝視した。
「王である私に対するルスカの忠信を、私は知っている。それでも、彼は私に言うことをしなかったのだ。――その意味が、分かるだろう?」
サムドロスは唇をかんだ。
「兄として己の弟を庇おうとしていた。エリス殿と同じだ」
「……」
「お前を信じたかった。もしくは、自身の胸の内で収められる範囲にとどめようと思っていたのかもしれぬ。己の弟だ。私の手を借りず自分の力で何とかしたかったのだろう」
「…その気持ちを汲んだのだと?」
「もしかしたら、お前はとどまってくれるかもしれぬとも思っていた。私とて大事にはしたくない。とりあえずは知らぬ振りをして様子を見ようとな。…実際、ルスカは己の身を挺してお前を止めた。ルスカを責める気は、私にはないよ」
「…貴方は甘すぎる」
「否定はしない」
「…それでは、あの言葉は、兄を試すためのものだったのですか? フィロラオスのように、己の体で主である貴方を守るかどうかを試そうと?」
そうだとしたら、なんと意地が悪いのだろうと、サムドロスでなくとも思っただろう。
だが、ユリウスはその心中まで察して、笑った。
「お前がカシウスを知っていれば、私のその言葉に、少しは躊躇しただろう」
「ですが、貴方は〝カシウスになれ〟と、言った。〝カシウスにはなるな〟と言うのではなく」
「違うよ、サムドロス」
その時、口を開いたのはルスカだった。
うつむけていた顔を上げ、眉根を寄せて瞑目していたかと思うと、おもむろにその目を開け、ユリウスを見る。
同時に、ツーと一筋の涙が、ルスカの頬を流れた。
「…寛大にもほどがある。節度を超えては、いらぬ紊乱を招くと、そう申し上げたのに…。どこまで僕を泣かせるおつもりです」
ルスカの様子にサムドロスは益々眉をひそめた。
「…何が、違うって?」
「…カシウスは、第二のフィロラオスなんだ」
ルスカは流れ落ちる涙をそのままに、主の言外の意を噛み締めて、きつく目を閉じた。
厭人【えんじん】…人との付き合いをいとうこと。人間嫌い。
頑是無い【がんぜない】…幼くてまだ是非・善悪のわきまえがない。ききわけがない。
悲慟【ひどう】…悲しんで泣き叫ぶこと。
首魁【しゅかい】…張本人。首謀者。
符合【ふごう】…合致すること。