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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
73/87

51 密やかな愛情

「…サムドロス、お前は覚えていないのか? お前が幼い頃、クリスティーナの代わりにお前を抱いていたのは、エリス殿だったそうだ」

「…え」

 王の言葉に、サムドロスは抱きしめられたままエリスの顔を呆然と見上げた。

 濡れた目で自分を見下ろすその瞳の色に、曇った表情で悲しげに微笑みかける女の顔が浮かび上がった。


 ああ。

 あの手は。

 何も言わず、ただ自分の傍で、己に優しく触れてくれた、あの手は…、

 まどろみも訪れない苦しい病臥(びょうが)の淵で、安らかな夢の中に自分をいざなってくれた、あの冷たく温かい手の持ち主は――


「……っ!!」

 ぎしりと胸がきしんだ音を立てた。

 己の暗い闇の淵から吹き上がる、慟哭(どうこく)()

 その衝動に任せて、サムドロスはエリスを突き飛ばしていた。

「嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だっ…!!!」

「嘘じゃない」

 静かに、ユリウスが言った。

 だが、サムドロスはエリスに向かって叫んだ。

「だって、だってあなたは僕を突き放したっ…!!!」

 そうだ。

 思い出した。

 父のいない時だけ、こっそりと自分のもとへ来て、寝台から起き上がれない自分の身の回りの世話を懇切にしてくれた、女の人。

 唯一、自分に優しく微笑みかけて、おやすみなさいと額をなでてくれた人。

 悲しげな顔で、そっと己を抱きしめて、ほっとするような温もりを教えてくれた人。

 けれど、ある日、彼女は自分から目を逸らした。

 寝台脇でうわ言のように自分の名を呼ぶ、いや、クリスティーナを呼ぶ父の、背後にある扉の隙間から見えた彼女に、縋るような気持ちで視線をぶつけた時、彼女は自分から目を逸らしたのだ。

 差し伸ばした手を、振り払われたのだと思った。

 この人だけは他の人とは違うのではないかと、そう思っていたのに。

 裏切られたと。

 そして、自分は朦朧とする意識の下で、幻の中に母の面影を求め、彼女の存在を忘却したのだ。

「ごめんなさい。ごめんなさい、サムドロス」

 エリスは覚えている。

 あの時、夫の背中の向こうからこちらをおどおどと頼りなげな視線でこちらを見てきた目を。

 だが、それは、あまりにもクリスティーナに酷似していた。

 過去の痛みが胸を去来して、とても視線を合わせることがエリスにはできなかった。

 そして、はっとして目を戻した時の、サムドロスの瞳も、クリスティーナにそっくりだった。

 空ろな目で彼女を見ていたかと思うと、サムドロスは顔を戻した。

 それから二度とエリスを振り返ることをしなかった。

 それ以来、どうしてもクリスティーナの顔が頭をよぎり、己を見るサムドロスの暗い目に、サムドロスの目を真正面から見ることが、エリスにはできなくなった。

 まるで、クリスティーナが息子の姿を借りて、自分を責めているようだと。

「…あの時、あなたから目を逸らしてしまったことを、私は死ぬほど後悔したわ」

「奇麗事はやめろっ! あんたは結局、他の人間と一緒だった!! 気まぐれで優しい振りをしていただけだろう!! 他の連中よりよっぽど性質(たち)が悪いじゃないか!! どうせ突き放すのなら最初から優しくなんてしなければよかったんだっ…!!!」

「それは違いますっ!!」

 その時、思わぬところから上がった声に、サムドロスは息を弾ませながら声の主を振り返った。

「お前は…」

 今まで誰も注意を払わなかったその女は、ルスカとエリスにくっついてきたサムドロス付きの年若い侍女だった。

「サムドロス様は覚えがないかもしれません。ですが、貴方様が意識を失ったり昏倒した時、大奥様は真っ先に貴方様の元に駆けつけられて、本来なら私どもがすべき仕事を率先してなさっていました。私が…」

 彼女はそこでごくりと息を呑みこんでから、ぎゅっと震える手を胸の前で握り締めた。

「私が、サムドロス様に辛く当たられても、侍女としての仕事を続けてこられたのは、大奥様がいてくれたからです。大奥様はいつもおっしゃっておられました。サムドロス様は本当は心の優しい子だと。この子をこんなにしてしまったのは自分だって。だから、どうかこの子を恨まないで欲しい、代わりに自分を責めてくれと。…大奥様はいつだって影からサムドロス様を見守っていらっしゃいました。毎日、体調の変化を気にして、いつもそれとなく私達に様子をお尋ねになられたし、お医者様の定期健診が終わった後は必ずその結果についてこっそりと先生にお話を(うかが)っていました」

 その言葉には、サムドロスだけではなく、ルスカも目を見開いた。

 母がそんなことをしていたなど、全く知らなかったのだ。

「…けれど、大奥様は自分がそのようにサムドロス様を気に掛けていることを、貴方様には知られたくないようでした。私達下々の者に口止めまでして。けれど、いつも貴方様が眠っている時にだけ見せる、貴方様の寝顔を見守る大奥様のお顔は、紛れもなく我が子を想う母のそれです! 何故、そのような気持ちを隠すのかと私が大奥様に尋ねた折、大奥様はこう答えられました。〝自分はこうしてサムドロスが瞼を閉ざしている時しかこの子の顔を見ることができない。それは、自分を瞳の中に収めたサムドロスの顔が、憎悪に歪むのを目にすることが耐えられないからだ〟って。お二人とも、互いが互いを嫌い合っていると信じ込んでいるんです。けれど、それは誤解だわ!」

 ルスカは母の背中に尋ねた。

「どうしてです、お母様。僕でさえ、貴女がそのようなことをしていたなど知らなかった。なぜ、僕にそのお気持ちを話してくれなかったのですか。そうすれば、もっと早く誤解を解くことだって…」

 息子の問いにエリスは首を振った。

「一度サムドロスから目を背けてしまい、それ以来この子の顔を正視できなくなった私が、どんな顔でサムドロスの身を案じているのだなどと言えたというの。そんなこと、口が裂けても言えなかった。瞼の閉ざされていないサムドロスの顔にクリスティーナを重ね合わせ、彼女に対する負い目を捨てられない私が、真正面からサムドロスに向き合うことのできない臆病な私が、意識を失くしたサムドロスの世話をしたところで、そんなものは所詮己の罪悪感を少しでも拭いたいからした行為に過ぎない。私はサムドロスと向き合うことから逃げていたのよ。寝ている時しか子供の顔を見れないなんて、そんな情けない女は母親とは言わないわ」

「……」

 エリスの告白に誰もが口をつぐんだ。

 静寂を破って、ユリウスは言った。

「分かったか、サムドロス。…自分に牙を向ける相手を愛し返すことは難しい。だが、お前の母も兄もそれをして見せた。例え傷つけ合っても許し合うことができるのが、家族だ。だから、サムドロス、エリス殿を許してやれ。彼女もお前も、そしてルスカももう十分苦しんだ。二人とも、お前のために、お前のことを想って自責の念に苦しんだんだ」

「……」

「お前は愛されている。お前が目を逸らしていただけで、いつだってお前は愛されていた」

「っ!」

 サムドロスの瞳から、涙が零れ落ちた。

「…サムドロス」

 ルスカは母の背を一なですると、そっと立ち上がり、一歩一歩踏みしめながら、サムドロスの前へ行ってゆっくりと膝をついた。

「サムドロス、一緒に帰ろう。そして、一からやり直そう? きっとできるよ、今の君なら。僕は、いや、僕達は、もう二度と君から目を背けたりしない」

 真摯(しんし)な眼差しでサムドロスの顔を覗き込み、真率(しんそつ)な言葉でルスカは弟に訴えた。

 その血の気の少ない青ざめた兄の顔を見て、サムドロスは顔を歪めた。

「…馬鹿じゃないのか。だから嫌いなんだ、兄貴面して…。…なんで、自分を刺した弟に、そんなことが、言えるんだ…」

 ルスカは、なんだそんなことというように、柔らかく笑った。

「それは君が僕の弟だからだろう?」

 答えになっているとは思えない答えを、それこそが模範解答であるというように言い切ったルスカに、サムドロスは息を止める。

「…兄と名乗るのに資格なんて要らない。僕が君の兄になりたいと思ったら、それだけで僕は君の兄弟になれたんだ。そんな簡単なことに気付くのに、こんなに遠回りしてしまったけれど。…君の母親になりたかったと言ったお母様も、その時点でもう君の母だった。たとえ、君が僕達のことをどう思っていたとしても…。僕達は同じ母を持つ兄弟だ」

 呆然とルスカを見ていたかと思うと、サムドロスはうつむき、歯を食いしばった。

「……僕は、あんたの弟になんてなれないと、ずっと思っていた」

「え?」

 ゆっくりと、サムドロスは地面に手をつけて腰を上げた。

「サムドロス?」

 膝をついたまま己の顔を見上げるルスカを一度見下ろしてから、その視線を王へと向ける。

「陛下のおっしゃるとおりです。あの時言った貴方の言葉は、どれも正鵠(せいこく)を得ていた…」

 昨晩己の元に訪れてきたユリウスを思い出し、サムドロスはそっと目を閉じた。


『この国の創始者である二人の兄弟のように、世の全ての異母兄弟が和解できるなどと思ったら、大きな間違いですよ。私は〝フィロラオス〟にはなれません。麗しい兄弟愛でしたら貴方方にお譲りいたします』

『…その割にはこだわっているようだな』

『何がです』

『お前がどう否定したところで、あれがお前の兄であることは変わらん。…サムドロス、お前は〝フィロラオス〟にそっくりだよ。少年時代の彼にな。出来のいい兄の影でしか生きられない、そう思い込んでいる』

『黙れ』

『お前は気付いているはずだ。目を逸らしているうちはいつまでたっても子供のままだぞ、サムドロス』


「僕は、マダリアの創始者である異腹の兄弟の話を思い出すたび、我が身を省みて、忸怩(じくじ)たる思いに悩まされました」

 静かに語り始めたサムドロスを、ルスカは驚きと共に見上げた。

「兄のお荷物としてしか生きられない自分が、フィロラオスになどなれる訳がない。そして僕は、兄の温情に甘えて生きるだけの自己を肯定できるほど、自尊心は低くなかった。…そのプライドの高さだけが、唯一、フィロラオスと一緒だった」

 ゆっくりと彼は自嘲の笑みを浮かべた。

正鵠を得る【せいこくをえる】…核心をつく。

忸怩【じくじ】…恥じ入るさま。

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