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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
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50 二人の母

 前に踏み出す一人の娘を、サムドロスは興味なさそうに見やった。

「ねぇ、何するつもり? 早くしてよ、兄さん。じゃないと、僕の手元が狂っちゃうんだけど」

「誰に何をされた?」

 問いかけられたその声に、サムドロスは面白くなさそうに口を尖らせた。

 王の背後にいる者達も、一体彼女が何をするつもりなのかと、不安げに見つめる。

「誰だよ、用のない奴は出てくるな」

「…貴方と話をするのはこれで三度目だな」

「?」

「私のことを死神だと思ったと」

 その時、風が吹いた。

 娘のかぶっていた衣がふわりと浮き上がる。

「……なんのこと」

 サムドロスはかすかに警戒を強めたようだった。

「覚えてないのか? 貴方の目には冬の空が見えると、私はそう言っただろう」

「……」

「自ら闇に堕ちる必要はない。貴方は太陽の恩恵を何の畏憚なく享受できる人だ。青空の下で自由に生きられる」

「…やめろ」

 だが、サントはやめなかった。

 ゆっくりとサムドロスの(もと)へ近づいていく。

「恐れるな。貴方の闇は光と共に生きられる」

「黙れ!」

 動揺しているサムドロスに、傍観者に徹さなくてはならない周囲の者達は、緊張を強くした。

 ぴたりとサントは止まった。

「それ以上近づくな。この子がどうなってもいいの?」

 リリアの喉に刃の切っ先を突きつける。

 まるで諌めるように吹いた強い突風で、サントのかぶっていた衣が飛ぶ。赤い髪が夜空に広がった。

 ゆっくりとサントは閉じていた目を開けた。

 その目を見た途端、サムドロスの全身に電流が走った。

 静止した時間の中で、朱唇が動く。


《――――》


 それをはっきりとした言葉として知覚することは、リリアにはできなかった。

 だが、小さく伝わってきた空気の震えに、己の体を(いまし)められ、サムドロスは硬直した。

「……ぁ…」

「――目を覚ませ。自分を見失うな。あなたは、クリスティーナじゃない」

 額の上の青い石が月の光を受けて冴え冴えと輝き、サントの目は紅く燃え上がった。


「うああああっ…!!!」


「サムドロスっ!!」

 頭を抱えて、苦しそうにその場にしゃがみこんだサムドロスに、硬直が解けたかのようにルスカは弟のもとへと走り出す。

「近寄るなっ!」

 膝をついた状態で、サムドロスは叫んだ。

 その手にはなおも短剣が握られたまま、そしてリリアも未だその腕の中だ。

「…それ以上近づいたら王女を殺す」

 震える声でサムドロスは言った。荒い息を吐きながら、距離が縮まった目の前の人々を睨み据える。

 ユリウスはサムドロスを見下ろした。

 苦しげに息をついている彼の目には、恐怖が浮かんでいる。必死にこちらを睨みつけてはいるが、それは己の怯えを覚られまいとしてのことだということが、ユリウスには分かった。

「…もうよせ。サムドロス」

「……」

「お前にリリアは殺せない」

「…貴方のはったりはもういいです」

「はったりか。確かにはったりの意味合いもあったがな。お前はああ言えば必ず躊躇すると思った」

「……」

「何故だと思う?」

「…貴方は僕が十四歳の少女には手が出せないと、踏んだんだ」

「まぁな」

「…それが外れているとは思わないんですか?」

「己を(あざむ)くのはもうやめろ。お前にはできない」

「…その自信がどこから来ているのか、ぜひとも(うかが)いたいものですね」

 眉をひそめた相手を、ユリウスはまっすぐに見つめる。

「何故なら、お前の母がお前を信じていたからだ」

「……なんですって」

「…エリス殿」

 ユリウスがそう呼ぶと、涙で目を真っ赤にさせたエリス婦人が胸の前で祈るように両手を組み合わせ、一人の侍女に寄り添われながらよろよろと前に歩み出た。

「…サムドロス…」

 顔を歪め、涙を滂沱(ぼうだ)と流しながら、エリスはサムドロスの名を呼んだ。

「誰のせいで泣いていると思う?」

 ユリウスのその台詞に、ちっとサムドロスは舌打ちして、目を背けた。

「なんの茶番です。お涙頂戴の泣き落としにでも走るつもりですか」

「昨晩、彼女は私にこう言った。お前が何かよくないことをしでかすかもしれないと」

「…僕を売ろうとしたとでも、おっしゃりたいんですか?」

 鼻で笑ったサムドロスにユリウスは静かに首を振る。

「違う。むしろその反対だ。お前を庇おうとした」

「…?」

「もし、そうなったとしても、それはお前の本意じゃないはずだと。繊細で傷つきやすいだけで、サムドロスは決して悪い子ではない。もし、あの子が恐ろしいことをしてしまったら、それは自分の責任だ。全ての責任は自分にあると、エリス殿は私にそう言った」

「!?」

 サムドロスは目を見開いて、エリスを見た。だが、すぐにその顔をきつくしかめた。

「…そんな戯言(ざれごと)を信じろと?」

「お前はエリス殿を誤解しているようだな」

「誤解も何も、その女が僕の顔を見て顔を歪めるのは事実だっ!」

 サムドロスが吐き捨てると、エリスはああと一際高く泣いて、その場に膝を落とした。

「ごめんなさい。ごめんなさい、サムドロス」

 両手に顔を埋めて、エリスはむせび泣く。

「私が悪いの。私があの時、あの子を、クリスティーナを助けてあげていたら…」

「なに…?」

「許してちょうだい。私はあの人に逆らうことなどできなかったの」

「何の話だ」

 いらいらと詰問(きつもん)した相手に、くぐもって嗚咽(おえつ)の混じった声で彼女は答えた。

「クリスティーナが私を逃がしてくれと頼んできた時、私はそれに(こた)えることができなかったっ…私は夫が恐ろしくて、彼女が苦しむのを、ずっと見て見ぬ振りしてきたわ…助けてと縋ってきたあの子の小さく細い指先を、私は振り払った……自分とルスカノウスを守るために、私はまだ十四歳だったあの子を、(にえ)にしたのよっ」

「…お母様」

 呆然と母を見ていたルスカは号泣するエリスの肩にそっと手を置いた。

「…その内、あの子は全てを諦めた。笑うことはもちろん、泣くこともしなくなった。ベッドの中で夢を見ることさえできず、死んだように生きたわ」

「……」

「私は罪悪感から、あの子を正視することができなくなった。人形のように感情を無くしてしまったあの子の顔を、あなたにそっくりなあの子の顔を、無表情で私を責めるあの子の顔を、己の罪が恐ろしくて、我が身かわいさに夫に抗えない自分の愚かしさが恐ろしくて、あの子の目をまっすぐ見ることなどできなかった……。私があなたを正視できないのは、あなたがあの子にそっくりだから。あなたと目を合わせることが私は怖かった。あなたの目の中に映るだろう私に向けられる憎しみを、自分の目に映すことが、私は怖かったのよ。自分の罪深さを知っていたから…」

 エリスは両手に埋めていた顔を上げて、サムドロスを見た。

「あなたが私を憎むのは当然の権利だわ、サムドロス」

 サムドロスはその痛いくらいに真摯(しんし)な視線を受けて、ビクリと震えた。

「お願い、サムドロス。殺すのなら私を殺して…」

 エリスは地面に膝を突いたまま、サムドロスのもとへとにじり寄る。

「!」

 刃を持つサムドロスの手に、エリスの指先が触れた。

「あなたの憎しみも苦しみも哀しみも、恐怖も絶望も、皆私のせい。それは私が負うべきものなの。だから、サムドロス…」

 ぎゅっとサムドロスの手をエリスは握った。

「私を殺して、あなたは自由になればいい。あなたは何も悪いことなどしていないのよ、サムドロス。あなたが負い目に感じることなど何一つない。自分の好きなように生きていいの。クリスティーナの怨みをあなたが引き受ける必要はないの。それは全て私のものだわ」

「…は…な……せ」

 掠れた声で、ようようそれだけサムドロスは言った。

「離さないわ。もう、あなたを離すことで同じ後悔をしたくない」

 泣き()らした目で、エリスはサムドロスの目を至近距離で真っ向から見据えた。

「ごめんなさい。私はあの子との約束を守れなかった…結果、あなたをこんなに苦しめてしまったのね…」

「…なに、…言ってるんだ……」

 ユリウスが口を開いた。

「…サムドロス、彼女はお前の母親だ」

 サムドロスはかっとすると、ナイフを持ったままエリスの手を振り払った。

 リリアと一緒に彼女を突き飛ばす。

 ジュリアがリリアを、ルスカがエリスをその胸に抱きとめた。

「違う! 僕の母親はクリスティーナだ! …僕は、母親に愛されなかった、生まれてこないほうがよかったと母に憎まれた子供なんだ…!!」

 ユリウスは短剣を振り回して距離をとろうとするサムドロスを見据える。

「いつまでそうやって目を逸らすつもりだ。悲劇の主人公にひたるのもいい加減にしろ」

「…あんたに、何が分かるっ…!!」

「分かっていないのは、お前のほうだ」

「なにっ!」

「エリス殿はお前の母だ。そう、クリスティーナに託された」

「!!?」

 背後からルスカに支えられたまま、エリスはサムドロスに言った。

「…あの子が貴方を愛していたかどうかは、私にも分からないわ。それでも、あの子は私に言ったの。――私の代わりに貴女がこの子の母親になって下さい、と…」

「!!」

「クリスティーナはあなたのことを顧みなかったわけじゃない。ただ、幼いあの子は、あなたの母親になることはできなかった。愛せばいいのか、憎めばいいのか、それを考えることさえ放棄して、けれどあの子は小さなあなたを遠ざけたりはしなかった。気がつけばいつも赤ん坊のあなたを見つめていたわ。その手に抱くことはしなかったけれど、私にこう言ったことがある。

 ――いつか自分の代わりにこの子がエーレブルーの、故郷の空を見ることがあるだろうかって…」

「!」

「『私が愛せない分、貴女にこの子を愛してい欲しい』って、あの子は私にそう言ったのよ」

「う、嘘だ! 生まれてこないほうがよかったって、クリスティーナがそう言っていたって、女達が言っていた!」

 その叫びに、エリスは目を閉じた。

「…決して幸せな生まれ方じゃなかった。望んで産んだ子でもなかった。生まれてこないほうがよかったというのは、絶望の中から生まれてきたあなたの未来を哀れんだから。あの子はあなたを自分と重ねて見ていた。それは、母が子を思う気持ちではなかったかもしれないけれど…。自分の生きられなかった幸せな未来をあなたに託したかったのかもしれない。全てを奪われたクリスティーナにとって唯一残されたものが、サムドロス、あなただったのよ」

「……」

 呆然としているサムドロスに、エリスは近づいた。

「…けれど、私はあなたの母親になることができなかったわね」

 ビクリとサムドロスは震え、怯えるようにエリスを見上げた。

「あの子を助けてあげられなかった自分の過去を恐れるあまり、私はあなたを正視することができなくなっていった。日に日にクリスティーナに似ていくあなたを見るたびに、十七歳で死んでいったあの子を思い出して…。あの子の代わりにあなたを幸せにしようと、そう誓ったはずなのに、……私は母親失格だわ」

「く、くるな」

「サムドロス、それでも私はあなたを愛したかった。あなたの母になりたかった。そんな資格、私にはないのかもしれない。けれど…」

 エリスはサムドロスの頬に手を伸ばす。

 頬に触れ、額をなで、額際から揺れる前髪にその手を差し込んで、優しく()いた。

 両手でそっと、サムドロスの頬を包み込む。

 サムドロスの手から、短剣が滑り落ちた。

「あなたに幸せになって欲しかった。それは、嘘じゃない」

 そう言って、サムドロスをそのままその胸に抱き寄せた。

 ふわりと己の体を包み込む温かな体温と柔らかな感触に、サムドロスは硬直した。

 体ががちがちに固まっているのに、心臓はざわざわとざわめく。

 己の中で何かが激しく暴れていた。

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