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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
71/87

49 ぎりぎりの一線

 リリアの細い首に突き付けられている刃物の存在に、ジュリアは己の失態を呪った。

「サムドロス様…、リリア様をお放しください」

 ジュリアが男の行方に気を取られている隙に、サムドロスは先程まで膝をついて咳き込んでいたとは思えない敏捷(びんしょう)さを見せた。

 王女を盾に取られ、後手に回らざるを得ないジュリア達親衛隊員は距離を置きながら、後を追うことしかできない。

 そして、先の見えない追いかけっこの末サムドロスが辿り着いたのは、後ろは切り岸になっているような城の辺崖(へんがい)だった。王の居住空間と活動区域である宮城は王城の中でも一際高い高台の上に作られている。

 その高さは、人の命を奪うには十分なものだっただろう。

 だが、追い詰められたはずのサムドロスは焦るどころか、楽しげに笑った。

「それ以上近寄ったら、王女を道連れにして飛び降りるよ」

 心底楽しげな声でそう言われ、それ以上近づくことはジュリア達にはできなかった。

 青ざめた顔でそれでも気丈に自分を見つめるリリアに、ジュリアは奥歯を噛み締める。


 その時、にわかに背後が騒がしくなり、人の集まる気配にジュリアは後ろを振り返った。

「――リリアを傷つけなかったようだな、サムドロス」

 現れた王の言葉に、サムドロスは笑った。

「だって、貴方方のいないところで殺しても、面白くもなんともないでしょう?」

 ユリウスの眉間がピクリと動く。その顔が不意に険しくなった。

「…ジュリア、何があった」

 サムドロスの雰囲気が変わっている。

 先程はルスカの言葉で多少なりとも理性を取り戻したように見えた。が、今の彼は…危険だ。

 あの笑い方。

 虚勢を張っているのでも、自暴自棄になっているのでもない。

 この状況でどこか享楽的な笑みを浮かべている。

「それが…」

 ジュリアは先程の己の失態を語った。その中の、「何かを無理矢理飲まされたらしい」という言葉(フレーズ)にユリウスは更に顔を険しくする。

「その男は?」

「他の隊員達を捜索に当たらせています」

「……」

 押し黙った王の後ろから、高い声が上がった。

「サムドロス!」

 ルスカを支えていた手を離すと、息子が止める声も聞かず、エリスは悲痛な声で叫んだ。

「殿下を離して! 人質なら私がなります! その方はなんの関係もないでしょう!? 殺すのなら、私を殺せばいい!!」

「残念ですが、あなたじゃ足りない」

「何故! あなたが憎いのは私でしょう!?」

 途端に、サムドロスの表情が一変した。

 機嫌がよさそうに笑っていたかと思えば、悪鬼の如くに顔を歪める。

 憎しみのこもった目を燃やし、柳眉を逆立て、ぎりぎりと音が聞こえそうなくらいに歯の根を鳴らした。

「憎い。憎くてたまらない」

 異様な気配に、周囲は息を詰めた。

 痛いくらいに張り詰めた沈黙がおりる。

 リリアは今にも気を失ってしまいそうな風情で、歯をカタカタと言わせながら、父に縋るような視線を送った。ここに連れてこられる前、部屋の中に潜んでいた時とは明らかに様子の違うサムドロスには、もはや恐怖しか感じない。

「……離せ、サムドロス」

 沈黙の中で静かな声が落ちた。

 冷厳に命令した声の主を、サムドロスは見やる。

「お断りします、陛下」

 さっきまでの表情をまた一転させ、彼は穏やかに答えた。

 その緩急に気味悪げな視線を何人かは送り、また何人かは、唐突な感情の切り替えに、彼の父親の姿を思い浮かべた。

「…今ならまだ許してやる」

 サムドロスは噴き出した。

「許してもらわなくても結構ですよ。言っておきますが、僕は自分の生に執着がない。死んでも構わないということです。そんな人間の生命を(おびやか)すような駆け引きは無駄ですからね。止めておいたほうがいい」

「…望みは何だ」

 くすりとサムドロスは笑った。


「じゃあ、あなた、死んでください」


 一同は絶句した。

「誰かさんのせいで、失敗してしまいましたからね。あなたが死ぬなら、リリアは助ける。どうでしょう?」

「……サムドロス、私は死んでやることはできん」

「娘がどうなってもいいと?」

「いいや、それも困る」

「困りましたね。ああ、そうだ。じゃあ、兄さん、陛下の代わりに死んであげなよ。そうすれば、この子は離すよ。ほら、本物のフィロラオスみたいにさ」

 名案じゃないかというようにサムドロスが頬を紅潮させると、それとは反対に、それまで信じられないような顔でサムドロスを凝視していたルスカは、既にかなりの血を失って青ざめていたその顔の色を、紙のように白くした。

「いい考えだ。昔話の再現だよ、兄さん。美しい兄弟愛さ。兄さんなら簡単でしょう?」

 サムドロスは無邪気に笑う。

 ルスカの顔は歪んだ。

(ああ、もうだめなんだ…)

 己の弟がもうどうしようないほど手の届かないところに行ってしまったことを、絶望とともに、ルスカは悟った。

 誰かがぽつりと零した。

「……壊れてる」

 高い哄笑の音が夜空に満ちる。

 愉快で仕方がないというように、サムドロスは笑った。

「知らなかったの? 僕はもうとっくの昔に壊れてるんだよ。生まれた時から決まっていたのさ。王族である僕の父が母の命を蹂躙(じゅうりん)した時からね!!!」

 己の不遇を(なじ)るというよりは、嬉々として自慢しているような口調だった。

 幼い子供のように首を傾げて、サムドロスは愛らしいえくぼを作る。

「ねぇ、陛下、僕が〝十四歳の少女〟に手を出せないのだと思っているのだとしたら、それは大きな間違いだよ? それとも、あれはただのはったりだった?」

 そう言って、サムドロスは血に濡れた刃でリリアの頬を優しくなで、その輪郭を辿った。

「……耳の一つでも削ぎ落として見せないと、分からないのかなぁ」

「やめろ!!」

 ルスカが耐えられないというように叫んだ。

「…もう、やめてくれ…」

 きょとんとした顔で、サムドロスがルスカを見る。

 その視線から、ルスカは目を逸らした。

「…陛下の代わりに僕が死ぬ。……それで、いいんだろう?」

 もうこれ以上、壊れていく弟を、見ていられなかった。

「ルスカ!」

 勝手な発言は許さない、という主の視線にしかし、ルスカは力なく首を振った。

「弟は多情多恨(たじょうたこん)の人間でした。けれど決して心根の悪い人間ではなかった。それが…あんなふうに……。彼がこうなってしまった原因は、僕にある…」

 ユリウスはきつく眉をひそめ、サムドロスを振り返った。

 考えろ。

 どうすればいい。

 どうすれば、切り抜けられる。

 死中求活(しちゅうきゅうかつ)の思いで必死に己の頭を回転させた。


 今のサムドロスは普通ではない。

 先程までのサムドロスとは決定的に違う。もとから不安定で壊れやすい人格だったようだが、今の彼には一切雑念が見えなかった。邪念や私欲もなく純真とさえ言えるだろう。まるで幼い子供のようなあどけなさだ。

 リリアを人質にとった当初は、多少なりとも自己保存の本能が働いているからのようにユリウスには見えた。

 だが、それが、今の彼にはない。

 ああなった人間には、どれだけ言葉を募っても届かない。

 まずは正気に戻さなくては。

 だが、殴ろうにも、リリアを人質にとられては近づくことができない。

 血を見たくないなどと、甘いことを言っていられる状況ではないことは分かっていた。事態は窮迫している。だが、己のために娘を犠牲にできるほど王として非情になれるかと問われれば、答えは否、だ。

 そして、ルスカがサムドロスの要求どおり己の生命を絶ったと想定して、ユリウスはきつく目を閉じた。

 自分の代わりにルスカが死ぬ。

 サムドロスは果たしてそれで満足するのか。

 確証はない。

 今のサムドロスの言葉を信じるのは困難だ。

 そもそも、なんでこんなことになった?

 サムドロスのあの人格の破綻は人為的にもたらされたものらしい。

 サムドロスの背後にちらつく影。

 ここに来る途中でルスカが話した男が、ジュリアが会ったその男だという可能性は、高い。

 全ての元凶がその男にあるとして、奴の狙いはなんだ。

 それは、国王である自分の命ではないのか?

 ならば、ルスカの命で満足するとは、考えにくい。

 そしてそんな見込みの薄い博打のために自身の臣下を犠牲にするつもりは、ユリウスには毛頭なかった。


〈――ジュリア、耳を貸せ〉

 斜め後ろにいたジュリアに小さい声でユリウスはささやいた。

 緊張した面持ちでジュリアはユリウスの側に顔を寄せる。

 しかし、次の言葉に彼は己の耳を疑った。

〈その剣で、私を斬れるか?〉

 少しも揺るがない平静そのもののその声に、最初何を言われているのかが分からなかったジュリアは、言葉の意味を把握するや目を見開いて絶句した。

〈あれが、サムドロスの意思だとは私には思えん。操られている、と考えるほうが自然だ〉

「なにをおっしゃられているのです!!」

 ジュリアは無礼を憚らず、怒鳴り返していた。

 主を守るはずの剣で、主を斬れだと?

 冗談ではない。それなら自ら命を絶てと言われるほうがよっぽどましだ。

 だが、ユリウスはジュリアのその反駁(はんばく)を一睨みで封じた。

「冗談ではない。聞け」

 小さいが有無を言わせない厳しい声に、ジュリアの体がびくりと震えた。

〈別に殺してくれとは言っていない。致命傷を避けて、私の体を貫けるかと訊いている〉

〈…なにをするおつもりです〉

〈サムドロスに私が死んだと思わせる。死んだ振りだな〉

〈っ、そんな危険な!!〉

〈平気だ。私の体はそれほど柔ではない。死にはしまいよ。少なくともルスカよりは可能性がある。それに…〉

 その時、ゆらりと王の横に、娘が一人並んだ。

 ユリウスは笑った。

「いざとなったら、君の力に頼りたいところだが」

「…無茶な賭けだ。私は万能ではない。死んだ人間をよみがえらせることなどできませんよ」

「無茶な賭けを仕掛けてきたのはそっちが先だったと思ったが?」

「…貴方と私では命の重さが違う」

 二人の会話にジュリアが眉をひそめる。

 周囲も彼らの様子に眉をひそめていた。王は何をするつもりなのか、と。

 ユリウスはジュリアを振り返った。

「ジュリア、お前だから頼むのだ。私はお前を信じている。お前ならできるはずだ」

「…そんな言い方は卑怯です」

「大丈夫だ。信じろ」

「……」

 何故、この場面でそのように笑うことができるのだろう。

 なんと言われようとジュリアは全面的に拒否の姿勢を貫くつもりだった。それなのに…。

 自分はこの人に逆らえないのだ。

 この人なら、と信じてしまう。そしてお前を信じていると言われて、こみ上げてきたものに胸が熱くなるのは、止められなかった。そう言えば自分が拒めないと、王が知っているということを、自分は知っているのに。

 うつむいて唇を噛み、ジュリアは目を閉じると、天を突き刺すように己の前に剣をかざした。

 月の光を反射して、刃が鈍く光った。

「ジュリア?」

 後ろにいたバルトークが不審げに名を呼ぶ。

 ルスカは青ざめた顔を王に向けた。

「兄さん、一体何をするつもりですか。僕は、」

「黙って見ていろ」

 ユリウスは軽く手を上げて、それら疑問の声を封じ、サムドロスを見据えた。

 ジュリアは目を閉じたまま、ゆっくりと深呼吸する。震えそうになる己の手を、必死に叱咤した。

 自分にできるのか、最も敬慕する主をこの剣で傷つけることが。

(だめだ、考えるな)

 王は自分を信じると言った。

(陛下は、『信じろ』と私に言った)

 自分を信じている、主を信じろ。

(陛下を信じるだけでいい。誰よりもこの人を信じているお前になら、できるはずだ)

 額から冷たい汗が流れ落ちる。

 ごくりと生唾を飲み込む。

 柄を握り締める手の平からじっとりとにじんでくる不快感に、大きく息を吸い込んだ。

(覚悟を決めろ。疑うな。それはお前の仕事じゃない)

 迷うな。恐れるな。ためらうな。

 信じろ。


(俺は王に絶対の忠誠を誓っている聖騎士だ)


 息を止めて、痛いくらいに真摯(しんし)な瞳をカッと見開いた時だった。


 両手で己の前にかざしていた真っ直ぐ伸びる刀身に、すっと手の平が当てられた。


「…え?」


 いつの間にか主と己の間に立っている娘に、ジュリアは瞠目した。

 サントは押し留めるように己の手を差し出しながら、ちらりとユリウスを見た。

「本気ですか?」

 サムドロスに向かって口上を述べようとしていたユリウスは、横目でサントに視線を合わせる。

「…止めるつもりか?」

「あまり見たい光景ではない。それに、」

 そう言って、サントは視線の先をサムドロスに捕らわれている王女に変えた。

「貴方が彼に貫かれる様を見た王女が、平静でいられるとは思えませんが。最悪彼女まで怪我をする」

「……」

 ユリウスは沈黙した。

 ぐっというかすかな音に、硬く握り締められているその拳を、サントは見た。

 気が付いていた人間が何人いただろう。

 彼は、娘を人質にとられてサムドロスと対峙した時から、ずっとそうやって、指が白くなるほどにその拳を握りしめていた。たぶん皮膚を突き刺して爪が肉に食い込んでいるのだろう。色をなくした指の隙間からにじむもの、それがぽとりと音を立てて地面に落ちる。

 ルスカの腹から流れるものに気を取られていた者は気が付かなかったかもしれない。

 だが、サントは気づいた。

 表面上では不可解なほどに泰然としていた彼は、その手にずっと血を握っていたのだ。

「…君がいる分、分はこちらにあると思っているんだが」

 重々しく言われたその言葉に、サントは王の拳から視線を逸らして口を開いた。

「彼の正気を取り戻せばいいのでしょう」

「できるのか?」

 ユリウスは驚いてサントを見た。

「正気に戻したとしても、彼の心を救える訳ではない。事態は変わらないかもしれません」

「十分だ」

 正気に戻れば、言葉が届く。

「…頼む」

 その声を受けて、サントは前に出た。

「…陛下?」

 呆然と尋ねるジュリアに、黙って見てろと、先程と同じ言葉をユリウスは繰り返した。

多情多恨【たじょうたこん】…物事に感じやすくうらみの多いこと。

死中求活【しちゅうきゅうかつ】…絶体絶命の状態にあって、必死になって活路を見いだそうとすること。

自己保存【じこほぞん】…生物が自己の生命を守り発展させようとすること。

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