48 揺れる振り子
薄暗い部屋に、男の喘鳴が響いている。
窓が開いているのか、窓掛が微かに揺れていた。
その隙間から小さく月が見えた。
ゆらゆらと窓掛が揺れるたびに顔を覗かせるその月は、まるでこちらの様子をしきりに心配しているかのようだった。
「……怖い、ですか」
薄暗い闇の中で、掠れた男の声が落ちた。
「お父様が助けてくれると言ったわ」
己の喉下に刃を突きつけられたまま、リリアはきっぱりと答えた。
だが、己の腕の中に彼女を閉じ込めているサムドロスには、その小さな肩が小刻みに震えているのが分かる。
「…父親を信じているわけですか。美しい親子愛だ」
「…お兄様は違うの?」
「……」
「お兄様は、ルスカおじ様を信じないの?」
「…親子そろって似たようなことを言う」
自嘲的な呟きにリリアは目を瞬かせた。
「…お兄様?」
「…貴女は今いくつですか」
「…十四、だけど…」
「……なるほど」
納得の響きを持つ深い嘆息が後ろから聞こえ、どういう意図による質問なのか分からず、リリアは背後の様子を窺った。
「…こんな細い肩をした少女に、どうしてそんなむごい真似ができたのでしょうね」
ぽつりと言われたそれに、何のことかとリリアが眉をひそめると、サムドロスは言った。
「…僕の、父親です」
彼の父親…?
サムドロスの父親ということはルスカの父親ということだ。
そして、十四歳の少女。
「あ…」
リリアは顔を青ざめさせた。
「貴女と同じ年に、僕の母は父に陵辱され、そして僕を産み落とした…」
サムドロスは色のない顔で、そう呟いた。
「……どんな気持ちだったか、分かりますか?」
リリアはその質問に息を呑んで沈黙した。
分かる訳がなかった。
そんな気持ちは考えたくもない。ただ、それは、ひどく、恐ろしいことだと思った。
答えを返さないリリアをさして気にした様子もなく、サムドロスは独り続ける。
「…僕という人間は、一人の少女の悲しみと絶望と恐怖と苦痛、そして憎悪…そんな暗い闇の澱の中から、生まれてきた…」
――全てはそこから始まっている。
自分がその末に産まれた子供であり、自分という人間は結局最後はそこに帰結する存在だということ。
生まれた時から背負っていたこれをなんと呼ぶのだろうか。
生まれつき病弱な体と、それ以外にこんな重いものを背負わされて、自分はどうやって生きていけばよかったのだろう。
こんな結末を望む以外に、どんな生き方があったのだろう。
こんな惨めで壊れた役立たずの嫌われ者以外に、自分は何者になれたというのだろう。
――『お前は僕の弟だ!!!』
不意に聞こえてきた声に、サムドロスは唇を噛んだ。
だから、なんだというんだ
――『僕は、お前の、兄だ。…お前を見捨てたり、…欺いたり…、無い物のように扱ったりなんて…絶対に、しない……』
馬鹿じゃないか? そんな言葉を信じるとでも?
だが、初めて見た苛烈な視線がサムドロスの胸に突き刺さる。
――『…こんなもの…君が、今まで感じてきた痛みに比べれば、…痛いうちに入らない…』
「お兄様…?」
嗚咽が漏れそうになって、サムドロスは大きく息を吸い込んだ。
「…苦しいの?」
己の胸の前に回されたサムドロスの腕にリリアがそっと触れた。
ふと自嘲の笑みがこぼれた。
「……あなたは、自分の心配をしていればいい」
その時。
「こんなところでかくれんぼですか? サムドロス様」
月の光を遮って、背後から不気味な愛想嗤いを浮かべた男がそう、ささやいた。
「やめてっ! なにをするの!?」
王女の悲鳴を聞きつけて、ジュリアはその部屋の扉を蹴破った。
「リリア様っ!!」
床に膝を着いて苦しげに咳き込んでいる人物の背に覆いかぶさるリリアを見て、戸惑う。
「ジュリア様っ!! 変な男が、お兄様にっ!!」
その言葉にジュリアが瞬時に視線を転じると、そこには一人の男が立っていた。
「――お前は…」
「いやいや、待ってください。捕らわれている王女様を見つけたんで加勢に入っただけで…」
「嘘よっ! 無理矢理何かを飲ませたわ!」
「…だ、そうだ」
そう言って、ジュリアは剣の穂先をその男に向けた。
「リリア様は嘘をおつきになられない」
「ちょっとちょっと、その男は王女を人質にとっていた男でしょう? しばらく動けなくなる薬をですねぇ…」
「薬?」
ジュリアは男との距離を詰めた。
「…なるほど」
振り上げた刃を男の首の横で止める。
「お前だな。胡散臭い、薬師とやらは」
「……」
「そして、警庁襲撃及びファナン殺害の真犯人」
男はにいと口の端を上げて笑った。
揺れた窓掛の隙間から漏れ出た月光に、あの時見た男の顔が映し出される。
この場面で不気味なほど崩れないその笑み。
「あの男達に何をした」
「何のことだか分かりませんね」
「とぼけるな。…彼に何を飲ませたんだ」
「なにって、薬ですよ薬。体によく効くお薬です」
「なに?」
「別に今回が初めてじゃありませんよ。私はサムドロス様に頼まれただけですから。それより、あなたは剣を向ける相手を変えたほうがよろしいんじゃありませんか?」
「きゃあ!」
リリアの悲鳴にジュリアはバッと振り返った。
先程まで四つん這いになっていたサムドロスがリリアを捕らえて刃を彼女に当てている。
「っ!」
「だから言ったでしょうに」
「――ま」
待てと言おうとした相手は既に窓枠へと躍り上がっている。
「それじゃぁ、頑張ってくださいね、サムドロス様。ああ、騎士様、ジョセフ=カッター少将には世話になったとお伝えください」
「待てっ!」
眼鏡の奥で薄気味悪く笑いながら、男は窓の外へと姿を消した。
「ルスカ、ルスカ、ルスカノウスっ!」
しきりに己を呼ぶ声に、ルスカはゆっくりと無意識の底から浮上していった。
うっすらと開いた瞼の先に、ぼんやりと映るよく見知った女の顔。
(…お母様…?)
目の前には涙で目を真っ赤にした母の顔があった。
(アレ…?)
不審に思い腹に手をやった。そのままゆっくりと起き上がる。
「…痛く、ない…?」
呆然としているとすぐそばにいた娘が言った。
「傷口はとりあえず塞がりましたが、傷は深い。無理に動くと開きます。痛みを感じないのは一時的なものですから」
「…なにを、したんですか?」
だが、その質問に彼女は答えなかった。
代わりにユリウスが口を開く。
「大丈夫か? ルスカ」
「え、ええ」
主の言葉に立ち上がろうとして、ふらついたルスカの体をエリスが慌てて支えた。
それを見て、サントは言う。
「失われた血が元に戻った訳ではありません。提言しておきますが、動き回れる体ではない」
だが、その言葉にルスカは頷かなかった。
強い視線で王を見る。
「…行くか?」
主の言葉にこくりと彼が頷いた時、「陛下!」と主を呼ぶ親衛隊員の声に一同は顔を見合わせると、身を翻した。
陵辱【りょうじょく】…女を暴力で犯すこと。