06 動き出す歯車
†††
『一緒に武闘大会に出る?』
『そ。さっきも説明したろう? 大会に出て御前試合に招かれるのが一番堅実だってな。ま、そのためには勝ち進んでいかなきゃいけないんだが、お前只者じゃなさそうだし、まんざらでもねぇんじゃねえの? 少なくとも、単身城に乗り込んでいくよりはマシだと思うぜ』
『……二人一緒じゃなきゃいけないのか?』
『今年の武闘大会は二人一組のコンビ戦形式になってんだよ。一人じゃ参加申込できない。一人一人の実力もそりゃ重要だが、統率して動く騎兵にはコンビネーションも必要だってんだろ。一人の突出した剣豪よりも訓練された兵士の連繋の方が役に立つ時だってある――とは言ってみるものの、俺から見ればまあ、体のいい人数減らしのシステムだな、予選会のための。勝敗は連帯責任で決まる。予選会がどんなのかは分からんが……毎年、出場希望者が多いからな。特に今年は例年にない大人数だって噂だ』
『……それで?』
『うん?』
『あんたに何の益がある』
――見るからに怪しい
そう言ったのはジュークだ。普通は係わり合いになるのを避けようとするだろう、と。だが、そう言うと、ジュークはにやりと笑った。
『だって、面白そうだろ?』
『……』
『最近退屈しててな。女漁りに出かけよう、つっても金がない。うるさい小舅が俺の金を巻き上げちまった。久しぶりに面白いことになりそうだし、小金を稼ぐ分にもちょうどいい』
『小金を稼ぐ…?』
『やめとけ、あんた』
呟いた声に返答があった。
『こんな腰抜けと一緒じゃ勝てる勝負も勝てないに決まってるわ』
『確かに人選は重要だな。ほんとに勝ちたいならさ』
いつの間にか背後にはボイルとシャルル、ボイルに寄りかかるように立っているダリの姿があった。
『……勝つと賞金が出るのか?』
サントの質問にボイルが首を横に振る。
『いいや、賞金なんて出ない。この大会は金儲けのためのものじゃないんだ。互いの名誉と誇りを賭けて戦う、男の浪漫なのさ。金欲しさにそれを汚すなんてとんでもねぇ。皆、御前試合で騎士の位を下賜されるのを夢見てるんだ。国王陛下直々の、な。誇りと名誉を賭けるべき場所を金賭けの場にするなんてまったくもってけしからん』
じろりとボイルはダリを見た。
『何だよ、おやっさん。こっちにとっては死活問題にまで発展すんだぜ。一庶民の娯楽を奪うなんてゲスな真似すんなよな』
『まっとうに働けばいいだろうが』
『稼げるチャンスを棒に振るなんて馬鹿な真似できるかよ』
言い争うボイルとダリを無言で見つめているサントに、ジュークが説明した。
『つまり、賭博だ。この街にいる賭屋を仲介に、自分に賭けてもらって勝ったらその収益の何割かを出場者が貰ったりもできる』
ジュークは片目を閉じて目配せした。
『ここら辺じゃ、俺がそれを仕切ってんだ!』
勢いよくダリが飛び出して、サントの隣に座った。絆創膏を貼られた顔を突き出す。
『あんたが出場するって言うんなら、他の奴らに根回ししとくぜ。何なら交渉役をしてもいい。その時は何割かを俺がいただくことになるが、なに、あいつを追っ払ってくれた礼に安くしとくよ。あんたは何割欲しいんだ? そっちの兄さんはどうする?』
『恩人相手に商売っ気出してんじゃないよ、あんたは!』
ぴしゃりとダリの後頭部を叩いてシャルルはサントに向き直る。
『なんにしろ、サントさん、この男と出場するのだけはやめといた方がいいわ』
瞳は見えなかったが、フードの下のサントの視線を感じてシャルルは赤くなる。
『あっ、名前はね、さっきボイルのおやっさんに聞いたのよ』
焦ったように付け加えた。
それを見ていたジュークは何やら不満そうにぶつくさ言ったが、シャルルの一睨みで口を閉ざす。
『で、どうする? 俺と一緒に出るか?』
『出るつもりなら、パートナーは考えて選んだ方がいいぞ』
『そんなに俺って信用ねえの?』
少々傷ついたように言ったジュークにボイルとシャルルは事実だろ、と言い放ったが、
『あんたと出る』
静かにサントは言った。
えっ、という声が双方からあがる。
『金はいらない』
自分を見るジュークにサントは言った。
『あんたはあんたの、俺は俺の目的のために』
その答えにジュークはにやりと笑うと、ダリに向かって言った。
『俺とサントが御前試合に召喚されるのに、十万ダルな』
かくして、万馬券獲得に向けて、ジュークはサントに満面の笑みを振りまいたのだった。
†††
「ここで皆が戦うのね」
鈴の音のように軽やかな少女の声を聞いて、サントははっと物思いの淵から抜け出した。
声のした方向を見やれば、大きなつばのある中折れ帽子を目深に被った少女と、背の高い金髪の青年が歩いてくるところだった。男の方は帯剣をしている。
少女は淡い水色のシフトドレスを翻らせて、闘技場中央の円壇へと駆け上がった。男の方を向くと、誘うように手を差し伸べる。青年は困ったように笑いながらその手を取った。剣を競い合うための武闘場が、音楽を演じる舞踏場へと姿を変える。
陽光に照らされて現れた男の顔は端整なものだ。甘い顔立ちをした優男風のその青年が、腰に帯びた剣を勇ましく振るう姿は想像できない。男の着ている詰襟仕立てのかっちりとした制服は軍服のようだ。
王宮の騎士の者か、とサントはその男を観察する。立ち入り禁止のこの場所に堂々と入ってきたのだから、たぶんそうなのだろう。
それにしてもこんなところで女と逢い引きとは……、とあまりに場違いな気がして少々拍子抜けした。
「ジュリア様はここで戦うことはないの?」
少女が隣に立つ青年に訊いた。帽子のせいでその顔は見えないが、帽子からあふれる髪は美しい。
「私は既に陛下に忠誠を誓った身です。この剣を振るうのは、我が主の為のみ。いたずらに私闘でこの剣を抜くことはありません。騎士道に反し、王の名を汚す恥ずべき所業です」
その完璧な模範回答に、王国の少女、リリアは頬を膨らませた。
彼女は目の前の青年がこのサンソビーノで対戦相手を軽やかに倒すさまを想像して一人悦に入っていたのだ。
その姿はきっとこの国のどの騎士よりも華麗で美しいに決まっている。それに、ジュリアが自分のために剣を振るうと言ってくれたのなら、もうこれ以上の喜びなどなかったのに。
恋に恋する乙女の妄想は、何にも増して甘美なものである。
先日の無礼のお詫びに街を案内しましょう、と言ってきてくれた時には、リリアはあまりの嬉しさに飛び上がって踊りだしたほどだ。その結果、花瓶を一つ割って年かさの侍女のドミニカにはこっぴどく叱られたが、それさえも彼女の耳には届いていなかった。
最初は城の外に繰り出してみたかっただけなのだが、いつの間にか「ジュリアと二人で外出したい」に、その第一希望が変わっていたことにリリアは気づかされた。今となっては、彼と一緒でなければ、街に繰り出していたところでそれ程心動かされなかっただろう。
そんなリリアの様子を見てドミニカは苦笑したが、王子様の護衛があるならと、快くリリアの装いを手伝ってくれたのだ。王女だと気付かれる訳にもいかないのでなるべく地味なものを選んだが、華やかな空気を持つリリアにシンプルなそれはよく似合っていた。
リリアは隣に立つ青年を見上げた。
彼は今、天に丸く開いた青空を、手を翳して見つめている。その姿に、リリアは頬を薄く染めて微笑む。今日、ここに彼とこうして二人でいられることに感謝しようとリリアは思った。
視線に気がついたのか、ジュリアは振り返ってリリアを見た。
リリアはトクンと己の心臓が跳ねるのを感じた。
自分に向かって微笑むその顔を見ただけで、幸福感で胸が膨らむ。世界は目の前の青年さえいれば、すべて事足りるように思えた。
こんな気持ちは初めてだ。ああ、自分は恋をしているんだ、とリリアは思う。恋はこんなにも、ふわふわあったかくてドキドキするものなのだと、初めて知った気がした。
ずっとこの感覚に溺れていたい。
だが、目の前の青年が自分と同じ感覚を共有しているかどうか忖度するほどの余裕を、まだ幼いリリアは持ち合わせてはいなかった。
その時、
「誰だっ!!」
突然の誰何の声に、リリアはびくりと震えた。
淡く甘い夢から無理やり叩き起こされたような気分だ。心地よかった甘い胸の鼓動は不安定な動悸へと変わってしまった。
「……どうしたの?」
驚きでばくばくいう胸を押さえながら、リリアは尋ねた。
ジュリアはリリアの背後、闘技場の中にできた大きな影の中を不審そうに見据えている。その目は打って変わって鋭い。
「……今、あそこの陰が動いた気がしたんです」
「誰もいないみたいだけど…」
リリアもジュリアの腕の後ろから覗くように影の中を見つめた。どこにも人のいる感じはしない。
突然の怒声の後で、辺りはいっそう静まり返っている。
「きっと、気のせいよ。早くここを出ましょう」
せっかくの気分を台無しにされた気がしてリリアは一刻も早く闘技場を後にしたかった。少々強引にジュリアの腕を引張って出口に向かおうとする。
「ですが…」
ジュリアはまだ気にかかるのかじっと目を凝らしている。
「だって、ここは立ち入り禁止になってるはずでしょう? 誰かいたなら衛兵たちが見逃すわけないわ」
いささか機嫌を損ねたようなその声音に、ジュリアはそれでも数秒考えるようにした後納得したようだった。
「……そうですね。気のせいだったようです。おどかしてしまって申し訳ありません」
しかし彼は、衛兵達に不審者に対する警戒を怠らないよう、見張り強化を命じる事を忘れなかった。
「あぶなかったか……」
サントは二人の姿が消えてから、闇の中から姿を現した。
案外に、あの青年は鋭そうだ。サントは違うことなく自分に向けて鋭い視線を寄こしてきた男の顔を思い出していた。完全に気配を断っていたつもりだったが、油断してしまったのがいけなかった。
(あれが、マダリアの王騎士……)
外見で人を判断するものではない。あの剣はどうやら飾り物ではないらしい。
早いところ退散したほうがよさそうだ、とサントは右手を空高く上げた。
風が吹く。
穏やかだった木々達の揺れが突風でざわめいた。
葉が舞い、風の声に緑が身を震わせる。
「うおっ!」
ジュークは突然の疾風に腕を上げて目をつぶった。
黒い髪が舞い上がる。砂埃が上がり、乾いた土石の臭いが鼻をかすめた。
風の気配が遠ざかるまでそのまま風塵の中に身をさらしたが、突然訪れた勁風は去るのもまた突然だった。
瞼を上げると、先ほどまでとなんら変わらず目の前は穏やかに流れている。狐につままれたような顔で乱れた髪をかき混ぜながら首を傾げた時、ふと後ろに今までなかった人の気配を感じた。
ジュークは反射で振り向くと同時に後方に飛び退った。
「……お前……」
目の前にいたのは黒衣に身を包んだ人物だった。
「――驚かすなよ、まったく」
無意識に走った手は剣の柄と同時に汗をも握っていた。
しばし見つめ合ってから、ジュークはゆっくりと構えを解くとその手を離す。
「……どこに行ってたんだ?」
「……闘技場を見てきた」
「へぇ、大胆な真似するねぇ。見張りがいっぱいだっただろうに。見つかんなかったか?」
サントは無言でそれに答えた。そんなことはしょっちゅうなのでジュークも無理に問い質すようなことはせず懐から煙草を出す。一応勧めてみたが、案の定、サントは片手を上げてそれを断った。二人は人通りの少ない路地を並んで歩き出した。
「受付は?」
サントの質問に、くわえていた煙草を口から離してジュークは答えた。
「まぁ、ぎりぎりセーフというところだよ。本当は、締め切りは昨日までだったらしいんだが、そこを何とかって頼み込んできたから。明日からはもう予選会だそうだ」
そうか、と言った後またしばらくしてからサントは口を開く。
「この大会は誰でも参加できるのか?」
「ん? ああ、出場資格は特にないみたいだな。お前さんみたいな余所者でも構わない。アレスの武闘大会っつうと、結構有名だから、腕試しのためにわざわざ遠方からやって来る奴だっているわけだ。大会で優勝したとなれば、騎士大国マダリアのお墨付をもらったも同然だからな。自分の力をアピールするための絶好の場所ってことだよ。観客の中には旅の間の護衛を探しに来てる行商人もいるし、めでたく就職口が見つかるかもしれない。商人は金持ってるからな。この前のあの迷惑野郎も大方そんなとこが狙いだろうぜ」
「王家を守る騎士は?」
その質問に軽く目を見開くと、考えるようにジュークは言った。
「いや、王騎士は参加できないんじゃないか? 騎士さん達は主催者側の人間だろう。彼らは御前試合が催される時に優勝者の相手をする」
「……そうか」
「そもそも、この大会が開催されるようになったのは、今の国王が始めたのがきっかけでね」
「……」
「もともと優秀な人材発掘のための思索だったんだが、どうせなら公で広く、庶民の娯楽としても応用しよう、っつうことで武闘大会になったらしいぜ。マダリア建国当初はそういう大会も頻繁に行われていたらしいんだが、国王が代替わりするうちに段々と廃れていったらしくてな。何代目かの国王の時、完全に廃止された。王は剣を握るのを辞め、権を執るようになったてわけだ。だから、伝統復古とも言えるのかな。今の王は古代の王達と同様、剣を愛していらっしゃる方だ。――民に広く公開すれば、噂を聞きつけ強い奴らが続々集まってくる。アレスの観光名物にもなるだろう。男同士の真剣勝負は血湧き肉踊る見世物だ。人材発掘と、観光事業を併合しちまったのさ」
黙って耳を傾けるサントにジュークは続けた。
「でもここ数年は、御前試合は行われてない。マダリアの王騎士のレベルが高すぎるんだよ。国王は賢主としても有名だが、剣聖としても有名だからな。しっかりその名を受け継いでるってわけさ。王の配下に弱い騎士は一人もいない。皆鍛えられている精鋭だって話だ。しかも、層が厚い。たとえ、大会に優勝したとしても王騎士達と同等の戦いができる者ではないと召喚してはもらえないらしい。勝てばいっきに正騎士だが、やっぱそんな簡単なものじゃないんだろう」
そこでジュークは隣のサントを見た。
「どうだ? これだけ発破掛けてもまだ自信はあるか?」
無言のサントを面白げに見守る。だが、
「……その名を受け継いでる?」
「うん?」
「『その名を受け継いでいる』とは、どういう意味だ?」
「…ああ、それね……」
予想外の反応に拍子抜けしたが、コホン、とひとつ咳払いしてジュークは話し始めた。
「その昔、この地に一人の英雄がいたそうだ。剛毅果断で胆大心小、不撓不屈で勇猛果敢。剣を持って戦うところ敵なしの伝説の勇者。生涯一度として負けることを知らなかったという猛者だ。彼は自身の恵まれない出生に負けず、敵の侵略から国を守り、悪政を敷いていた魔女から民を解放し、この土地を恵み豊かな大地へと変えた。魔女の恐怖を取り除き、新たな希望の下に民を導いた、ってな。
民衆を救った後は、彼らのために温厚篤実な王となり、治水を行って大河の氾濫を鎮めたとか、暦を作って農閑期と農繁期を教えて、農耕を人々に広めたとか。この大地が今のように豊穣の地となったのは、この勇者様のおかげとされている。言ってみれば、このアストラハンの大地の祖ってやつだ。ほとんど神格化されている土地神みたいなもんだな」
ここでジュークは二本目の煙草に火をつけた。ゆっくりと、味わうように吸い込み吐き出す。白い煙が空にくゆった。
「……アストラハンて名前もこの勇者から取ったとされている。アストラハンの守護者を意味する〝アストラリア〟という言葉は、もともと〝勇者アストラハンの子供達〟って意味だ。この勇者は何千年も前アストララハン創国記に出てくる伝説上の人物とされているが、この国のガキ達は皆幼い時分に寝物語に聞かされて信じている。伝説の勇者の生まれ変わりと同時にな……」
「うまれかわり……?」
にっ、とジュークは笑った。
「んじゃ、ここで問題。現在のマダリア国王の名は?」
「……ユリウス=シーザー」
「ご名答。その無敵の勇者様の名もまた、ユリウス。――ユリウス=アストラハン」
ジュークは後ろに首をひねって、遠くに見える城の尖塔を瞳に捉えた。
「ガキどものヒーローさ。伝説の勇者と同名ということは、否応なしに同一視され比較される。しかも彼は剣士であると同時に類稀なる統治者でもあったからな。まあ、その名を持った者の宿命ってやつだ」
サントもつられて首をひねった。
「だが、国王はその名に不相応な人間ではなかった?」
「そ。その名は大当たりだった。〝名は体を表す〟とはよく言ったもんだよ。現国王ユリウス=シーザーは、腐敗しきっていた中央体制を建て直し、二十七代目国王に即位してそれまでとは全く別のマダリアを築き上げた。新しい国を興したといっても過言じゃない。噂じゃ、やっこさんも王家に生まれながら、同族から厄介者扱いされて若い頃は苦労が絶えなかったっていうし……。伝説の英雄の再来とまで言われているが、まるっきり的外れな意見じゃないってことさ。おかげで現国王の人気は歴代でもダントツ一位。男も女もねぇちびっ子から男も女も枯れ果てたじいさんばあさんまで、王をアストラハンの英雄として崇めている。名前だけが勝手に一人歩きしてるような有名無実な人間だったらいい笑いもんになっただろうが、こうなっちまったらその名をつけてくれた親に感謝しねぇとな、って有様だ。ちなみに剣の腕の方も相当凄いらしい。未だに王に勝てる者はいないっていうからな」
「……そうか」
ジュークはサントをちらりと見る。
「聞いたことなかったか?」
サントは立ち止まって振り返ったまま、じっと遠くの城を見つめていた。城は高く大きく、荘厳として、目の前に立ち塞がっているようだ。
胸の奥から突き上げてくるような衝動に心がざわめいた。
故郷からはあんなにも遠かった。遥か彼方に霞み、晴れた日にだけ青空に溶け合うその影がやっとのことで確認できる。手を伸ばせばその陰に隠れてしまうほど、遠く小さかった。
だが、今王のいる城はもうすぐそこなのだ。それなのに全然近づいた気がしない。むしろ、かえって遠く離れてしまったようにさえ感じられる。
どうしたことだろう。
サントには自分がそんな風に感じてしまう理由が分からなかった。ずっと会いたいと思っていた人物に会えるのだ。心が震えるのは当然だろう。だが、これは、この震えは……
「怖気づいたか?」
びくりと震えた。
そうなのだろうか…
私はここまで来て怖気づいてしまったのか?
まだその姿を一目も見ていないというのに?
糺すように自問した。己の心を探る気持ちでそっと瞳を閉じて耳を澄ます。
記憶の淵から蘇るのは故郷の風景。同胞たちの顔。そして、
――彼の人の、死に様……
そよ風が吹いて、黒衣の裾を揺らした。
いや、違う。不安ではない。
これは高ぶり。
王を遠く感じるのは、自分とは初めから隔たった存在だからだ。きっと、この世に生を受けた時から……
黒衣の下でぎゅっ、と固くこぶしを握り締めた。
そっと目を開け、城を見据えて言う。
「断然会いたくなった」
そして、ジュークは、こりゃ本物だな、と独りごちると何やら楽しげに笑った。
時間は少し遡る。
「サラミア副隊長!?」
「よっ」
片手を上げて挨拶すると、行方不明だった親衛隊副隊長ドリス=サラミアは、愛想よく笑った。
「今までどこにおられたんです!? 隊長がどれだけ血眼になって探したと思ってるんですかっ!!」
突然の来訪に快く歓迎の声を上げるわけもなく、上官に向かってダヤンは怒鳴った。
「自分勝手に行方を眩ましていたわけじゃない。お前までそんなに怒らないでくれ」
「貴方がいない間、貴方のおかげでピリピリしている隊長の側にいなくてはならない自分達の身にもなってください」
「別にあいつはお前達に当たったりはしないだろう。自制心の塊みたいな男だ」
「ええ。隊長は、いつもと変わらず真面目で人当たりもよろしいことこの上ありませんよ。だからこそ、時折見せるあの方の深く刻まれた眉間のしわが怖くてたまりません。貴方を一人で探しに出て帰ってきた朝方なんか、特に。いつあの整った顔から表情がそぎ落とされることになるのか、戦々恐々してるんです。そうなった時はちゃんと責任取ってくださいよ」
恨みがましく言う部下にドリスは、降参の印に両手を挙げた。
「キレたあいつの前に飛び出すなんて自殺行為だ。俺はまだ死にたくないぞ」
「じゃあ、せめてどんな理由があって、どこにいるのかぐらいは教えていってください。あの人が毎夜どこへ貴方を探しに行っていると思ってるんです?」
「…どこだ?」
「貴方が外に繰り出していく場所なんて一つしかないでしょうが!!」
「……まさか、あいつ娼館に通ってるのか?」
「……」
親衛隊副隊長の女好きは騎士団の間でも有名だった。
ダヤンは無言でドリスを睨む。それをさして気にした様子もなく、あの堅物が自ら進んで娼館通いとは…、とドリスは呟いた。
「――でも、いい傾向じゃないか? 姫様の相手ばかりというのもなんだろう。ずっと心配していたんだ、俺は。男のくせにいまいち女に興味を示さないもんだから、俺までいらぬ嫌疑をかけられる。あっ、でも俺のお気に入りのかわい子ちゃん達を奴にとられるのは面白くないな……」
ぶつぶつ一人でそれこそ要らぬ心配をし始めたドリスに、ダヤンは心の底から溜息を吐き出した。何でこの人が俺の上司なんだろう。何だか泣きたくなってきた。
「貴方を見つけられず帰ってくる隊長の顔を見せてやりたいですよ。随分なお話を貴方のお気に入りの女性方から聞き出してきているようですし?」
その言葉にドリスはぎょっとした。
「本当か…」
「本当です。貴方が日頃隊長の事をなんて言っているのかも聞き及んでいることでしょうね」
ドリスは唸る。
「殿下の耳に届いたりでもしたらどうするんです。それでなくとも、口さがない連中は隊長が女に狂ったなどと言いふらしているんですよっ!!」
腹立たしげにダヤンは吐き捨てた。
部下である彼らにとってもその誹謗中傷は侮辱だった。
リリアがジュリアを好いていることも彼らの間では既に周知の事柄である。だが、その元凶の筈のドリスは、
「それはそれでおもしろいが……」
顎をさすりながらそんな事を宣った。
部下に睨まれ上官は口をつぐむ。
「まったく…。それで、今までどうしていたというんです?」
ドリスは肩を竦めてから、おもむろに表情を変えた。
「……今年の武闘大会出場志願者の内、外の者がどれぐらいいるか知っているか?」
「え?」
「我らが国王は国を問わず寛大なお方だ。だが、万が一、優勝して御前試合に召喚されるのが外の人間だったらどうする。そいつが御前試合にも勝って正騎士に任じられたとしたら? 他国の間諜ではないという証を王はどうやって立てるつもりなのだろうな」
「まさか…」
「まあ、まずありえない事だが。俺達に勝てる輩が早々いるわけもなし」
その言葉にダヤンは頷いた。
彼らは自分達の強さを自負している。驕りでも誇張でもなく、己の強さに誇りを持っていた。たとえ他国の剣士相手でも、敗北を喫するなんてことは考えられない。少なくとも彼らはそれを認めてしまうわけにはいかなかった。それが騎士大国マダリアの騎士としての矜持である。
「他国に恨みを買った覚えもないが、今年の参加者が例年以上の大人数で、外部の人間が多すぎるというのも事実だ。お前達が取り締まる、といっても必ず穴はできる。あの人数全員を完璧に調べ上げるなんて土台無理な話だろう。自分を調べる立場の人間に自ら名乗りを上げる間諜がいるわけもなし……」
「それじゃあ、貴方は潜入捜査をしていたと……?」
「俺が一番、そういうことに関して小回りが聞くだろう? ジュリアなんかは論外だ。あいつのあの容姿じゃ、どうしたって目立つからな」
完璧に意表をつかれ、ダヤンはしばし言葉を失う。
やっぱりこの人を馬鹿にはできない、と自身の考えを改めた。
「…すみません、自分は貴方の事を誤解していました」
「誤解してた?」
「……どうせ女遊びにでも耽っているんだろう、と」
馬鹿正直に答えたダヤンのこの言葉を聞くと、ドリスはこらえきれず吹き出した。
「あながち間違いとは言えないな」
「え?」
「娼館をあんまり舐めるなよ。飲み屋や、遊郭にこそ情報は集まる。女達は寝物語にいろんな話を聞いているからな。下世話な話だが、体を許してしまえば自然口も軽くなるっていう寸法だ。自分の気に入りの女には結構な大枚落としていく馬鹿だっている。そういう情報を収集するのさ。いくら男に固く口止めされていたとしても、俺の技にかかれば口を滑らせない女はいないな」
いかにも自信満々に答えたドリスに、なるほど、と納得してしまっていいものなのかダヤンは困った。決して、情報収集のためだけに娼館通いをしているわけではないだろう。
この人、自分は極秘機密かなんかを漏らしたりしてないだろうな…、とダヤンは思ったが黙っておいた。そこまで馬鹿ではないと信じたい。
「けど、このことはジュリアには黙っておいてくれ」
「なぜです? 訳を知れば隊長だって……」
「お前、〝娼館で情報収集〟なんて、あいつに許容できると思うか?」
「……」
実際、ジュリアも〝娼館で情報収集〟をしているはずなのだが、ドリスの言うそれとは訳が違うだろう。ジュリアのそれは「ただの聞込み」であって、ドリスのそれは趣味と実益を兼ねての「体に訊く方法」である。
(……隊長(あの人)の事だから、女性には指一本たりとも触れなさそうだ)
ダヤンはあえて沈黙を選んだ。
「まあ、いろいろとあいつに知れると面倒なこともある。ジュリアには後で俺から話すから、なるべく大会にはあいつを近づけないようにしてくれないか? 俺の行きそうなところを適当にほのめかしといてもらえるとありがたい」
「…何か、あるんですか?」
「……まあな。少し気になる男がいる」
そう言ってにわかにシリアス顔になったドリスをダヤンはじっと見守ると、自身の気を引き締めた。
忖度【そんたく】…他人の心中を推し量ること。推察。
誰何【すいか】…呼びとがめること。
風塵【ふうじん】…風に吹きたつちり。
勁風【けいふう】…強く吹く風。
剛毅果断【ごうきかだん】…意志が強く、決断力が優れていること。
肝大心小【たんだいしんしょう】…大胆であるが、細心の気配りをすること。
不撓不屈【ふとうふくつ】…強い信念を持って、どんな困難に直面しても、くじけないこと。
糾す【ただす】…罪過の有無を追及する。
間諜【かんちょう】…間者。スパイ。