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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
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47 守りたいもの

 ドスンと腹の辺りに走った衝撃に、ユリウスは目を丸くした。

 目の前から消えようとしている娘に向かって伸ばした手が、空をつかむ。

 リリアの悲鳴が聞こえた。

 赤い髪の彼女は何事かとこちらを向いて、目を見開く。


(なんだ?)


 すぐ傍に、青白いサムドロスの顔が見える。


(なにが起こった?)


 全く別の次元で気を取られていたユリウスは、彼にしては珍しく周囲の状況を理解していなかった。

 ただ、瞠目しながらこちらを凝視する赤い瞳の美しさに、焦燥が募る。


「陛下ッ…!」


 臣下の悲鳴に心の中で首を傾げ、


「刺されたぞッ!」


 その言葉に、眉をひそめた。


(刺された?)


 誰が?


 そろそろと視線を下げる。

 そうして、ようやく己の腹部に目をやって、ユリウスは絶句した。


 瞠目した目が(とら)えたのは、栗色の髪だ。


「ルスカノウスっ…!!」


 己の前で背を丸めている従兄弟であり重臣のルスカを認め、肩を抱き寄せる。

 ルスカは片手で腹を押さえながら、目の前に立つサムドロスを見上げていた。

「…サム…ドロス……」

 ポタリポタリと深々と刺さった短剣を伝って、血が(したた)る。

 それは白い大理石の床に、まるで紅い花びらのような血痕を散らせていた。

 サムドロスは呆然とそれを見ていた。

「ルスカ、大丈夫か!」

「も、もうし訳…ありません、陛下…」

「しゃべるな。誰か医者を!」

「…弟の、責任は、全て、兄である私のもの…どうか……」

 それは痛切な、哀願だった。

「…お願い、します…彼を…サムドロスを…」

「分かった。もうしゃべるな」

 その光景を見て、精気のない目に、乾いた声でサムドロスは(わら)った。

「はは、やっぱりアンタがフィロラオスだ。かっこいいね、ディオニュシオス(兄)を守って死ぬんだ?」


 『あんたはもし己の主に危険が迫ったら、フィロラオスみたいに己の命を捧げるのかなぁ』

 『あんたは僕の兄じゃないものね』

 ――『あんたが切り捨てるのは、〝血の繋がらない兄〟ではなく、〝半分だけ血の繋がったお荷物〟だ』


「…!!」

 その時バシンという高い音が響いた。

 サムドロスの白い横顔に赤くなった頬が映える。金髪の前髪が頬を叩かれた拍子に横になびいた。

 サムドロスは唖然として、ルスカを見た。

 頬の痛さよりなによりも、驚きの方が勝っていた。


「お前は僕の弟だ!!!」


 ルスカはカッとしてサムドロスを見たかと思うと、伸び上がってその横っ面を叩き、苦しそうな顔で大喝一声した。

 それはルスカが今まで見せたことのない、激情だった。

 普段の彼から想像できない苛烈な瞳で、サムドロスを()めつける。

「…弟を止めるのは、兄の役目だ。…お前の犯した罪は、僕の負うべき罪だ」

「…なに、言って…」

 ルスカは己の血で濡れた手で、サムドロスの襟を苦しいくらいにつかむ。

 鼻と鼻がくっつきそうなくらいに顔を突き合わせて、サムドロスのどこか違うところを見ている目に、己の全精力を注ぎ込むつもりで、視線をぶつけた。

「僕は、お前の、兄だ。…お前を見捨てたり、…(あざむ)いたり…、無い物のように扱ったりなんて…絶対に、しない……」

 一言一言区切っているのは、一つ一つ言い聞かせるためなのか、それとも苦痛によるものなのか分からない。

 だが、その言葉にサムドロスの瞳は動揺に揺れ、濁ったような(くら)い灰に微かに光が差しこんだ。

「…あんた、痛くないの…?」

「…こんなもの…君が、今まで感じてきたものに比べれば、…痛いうちに入らない…」

「……」

 呆然としていたかと思うと、サムドロスは不意に顔を歪めた。

「…へぇ? …痛く、ない…?」

 震えた声でそう言って、ルスカの腹に刺さっていた短刀の柄をつかむ。

「…っ!」

 ルスカの額から脂汗がにじんだ。

「やめろ! サムドロス!!」

 ユリウスの制止を無視して、サムドロスは刃を引き抜いた。

「うあああっ!!」

 ルスカの口から(うめ)き声が漏れると同時に、彼の腹部から鮮血が飛んだ。

 そのまま、ルスカは膝を落とす。大量の血を一時に失って、見る見るルスカの顔が青ざめていく。

 己の膝に縋るような格好で(ひざまず)いた兄のその後頭部をサムドロスは見下ろした。

「……ひどいよ、兄さん。僕の頬をつなんて。痛かったじゃないか」

 表情を無くし青ざめた顔で、まるで惰性のように、そう言った。

「いやあ、おじ様!!」

 悲鳴を上げてルスカに駆け寄ろうとしたリリアの腕をサムドロスはつかむ。その首筋に、ルスカの血で濡れた刃を当てた。

「……!!」

 周囲は凍りついた。

「…や…めろ…サムドロ…ス……!!」

「…おじ様…!」

 涙を流してリリアが叫ぶ。

「…それ以上動かないほうがいいんじゃない。出血多量で死ぬよ」

「…っ…リリア様を…離せっ…その方は関係ないだろう……!!」

「おじ様、しゃべらないでっ!」

 リリアは自分の首に短剣が当てられていることよりも、ルスカの腹から流れ出る血の方を恐れているようだった。

「…あんたの初恋の女が、この子の母親って本当?」

「…っ!!!」

 ルスカは苦しげに顔を歪めたまま絶句した。

 ルスカの口を封じて、サムドロスは視線の先を王に変える。

「少しの間人質になってくださいね、リリア様」

 そう言ってじりじりと後退(あとじさ)る。

 バッと駆け寄ろうとした臣下をユリウスは手を上げて制することで押し留めた。

「賢明な判断です。僕に触れる人間がいたら、その瞬間に王女を殺す」

 ユリウスはサムドロスに視線を合わせた。

「…サムドロス、リリアは後で返してもらう。それまで、傷つけるなよ」

「……どうでしょうね」

「お前はその子を傷つけないよ」

 自分の娘が刃物を突きつけられているというのに、ユリウスはまるで動じていないかのようだった。薄氷(はくひょう)()むが如しの状況で泰然自若と構えている王の姿に、むしろサムドロスの方が動揺する。

「お前は、その子を、傷つけない」

 暗示のように繰り返す王に、サムドロスは顔を引き()らせた。

「…僕を、見くびっておられるんですか?」

「お前にはリリアを傷つけられない理由がある」

「…理由?」

 それに答えず、ユリウスは不意にサムドロスから視線を外す。

 突如圧迫感が消え、サムドロスは知らず詰めていた息を吐き出していた。

「少しの間我慢してくれ、リリア。すぐ助けてやる。もちろん、ルスカも死なせない」

 ユリウスが娘の目を見ながらそう言って笑うと、リリアは目に涙を溜めたまま真摯(しんし)な顔で頷いた。

 そして、再度ユリウスはサムドロスを見た。

「――行け」

 ビクリとサムドロスの肩が震えた。

 サムドロスはユリウスのその自信の在り処が分からず、その言葉にまるで急き立てられるようにその場を駆け出した。

「サムドロスッ…!!」

 青ざめた顔で壁に寄りかかり今にも倒れそうな風情で自分の名を呼ぶエリスを視界の端に(とら)えたが、サムドロスは立ち止まらなかった。

「っ」

 ジュリアは一瞬王の方を顧み、彼の視線を受けて頷くと、サムドロスの後を追う。数名の部下がそれに従った。

「…へい…か…」

 ユリウスはサムドロスの傍に膝をついた。

「かっこよかったぞ、ルスカ」

「リリア…様が…」

「リリアは平気だ。サムドロスはあの子を傷つけない」

「…どうして…」

「お前の言葉が効いた。かろうじて自制心が戻った。私の言葉に引っかかる程度にはな」

「……もしかして、はったり…ですか…?」

「王が使うはったりは、口から飛び出た瞬間にはったりじゃなくなる」

 何の外連(けれん)もなく「はったりだった」と肯定したも同然の言葉に、ルスカは目が眩んだ。

(そんな危険な…、博打(ばくち)じゃないか…)

 王の言葉を受けて、サムドロスがリリアを傷つけることに躊躇したとしても、絶対の保障がある訳ではない。かえって、彼の言葉に挑発されてしまう可能性だってあるだろう。

 ユリウスが何故そのように泰然としていられるのか、ルスカには分からなかった。それが彼の器だと言われてしまえば、それまでだったが。

 ――剛毅にも言ってのけたユリウスにルスカは嘆息したが、彼は、先程からずっと握り締められたままの主の拳が血の気を失っていることに気が付かなかった。


「…失礼します」

 二人の間に割り込んできた声に、ユリウスは顔を上げた。

 赤い髪の娘がユリウスの正面に(かが)み込んでルスカを見る。

「傷を」

「…治せるのか」

「…できれば、あまり人前ではやりたくないのですが…」

「…皆、私がいいというまで目をつぶれ」

 心当たりがあるのか、ユリウスは尋ねることをしなかった。

 王の言葉に不審げに家臣達は目を瞬かせたが、早くと急かされ慌てて目を閉じる。

「私も閉じたほうがいいか?」

「…お好きにどうぞ」

「あの……」

 王と娘とのやりとりに目を見開いていたルスカは困惑した表情でサントを見た。

「あなたは、目を閉じて少しの間息を止めていてください」

 主が頷くので言われた通りにすると、くらりと暗闇の中で目が回った。

(…ああ、まずいな)

 もうずいぶん前に限界はきていたらしい。

(…無茶、したもんな…)

 本当は一声出すたびに腹から力が抜けていくようだった。

(…サムドロス…驚いた顔してたな…)

 人をぶったのは初めてだ。

 じんじんと手の平が熱くなって。

 大声を張り上げた時に腹部に走った激痛よりも、サムドロスを打った手の方が、何故か痛かった。そして腹の痛みよりも手の痛みよりも、胸が、痛かった。

(ああ、そうだ。こんな痛み、きっとサムドロスが今まで感じてきた苦痛の寸毫(すんごう)にも及ばない…)

 遠くで何かが聞こえてきて、腹部に熱が集まるのが分かった。だが、ルスカは混沌とした意識の中で、サムドロスの顔を思い出す。

 リリアをその手で捕らえながら、その顔は何故か苦しそうだった。冷静にしゃべっているようで、青ざめた顔から汗が伝っていた。冷酷な台詞のようで、その口調には何かを必死に押さえつけるようとしている色があった。

(…サムドロス…)

 ――君は僕の弟だ

 閉じた目から透明な涙が頬を伝って流れ落ちた。

薄氷を覆むが如し【はくひょうをふむがごとし】…まるで薄く張った氷の上を歩くようにきわめて危険なことのたとえ。

外連【けれん】…ごまかし。はったり。


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