44 襲撃
(何の臭いだ、これは)
サントは周囲を見回した。
料理の匂い、
酒の匂い、
香水の匂い、
嗅覚を刺激するさまざまな臭気の混じり合った広間の中で、サントの鼻はかすかな異臭を捉えた。
それに、強烈な邪気――
(…どこだ)
眉をひそめて広間に視線を走らせる。
大きな装飾灯の下で音楽に合わせてリズムを刻む男と女、ワイングラス片手に楽しそうに談笑している輪、豪華なディナーをつまむ者達。
きょろきょろと辺りを見回すサントを不思議に思ったのか、ユリウスが声をかけた。
「どうした?」
「…いえ、」
説明しようかどうか迷った時、臭いの気配が急激に濃くなった。
「…っ!!」
息を呑み込む。
これは。
(――これは肉の腐った臭いだ)
鼻を覆ったサントの顔をユリウスが覗き込もうとした時だった。
「き、きゃあああああ」
絹を裂くような女の悲鳴が上がった。
「お、おい、なんだあれ」
ざわざわとどよめきが上がる中に現れたのは、見るも恐ろしい異形の者達だった。
土気色の肌、焦点の合っていない瞳、紫色の唇から零れる涎と臭気。
抜き身の剣を手に持ち、鎖帷子に身を包んだ姿は専鋭隊そのものだ。
「うわぁああぁ」
「きゃぁあああ」
動揺と混乱とが一気に広間を駆け抜けた。
「なんだ、あれは…」
ユリウスは呆然と呟いた。
「陛下!」
ジュリアは異変を察して叫ぶ。
一人が目を背けて逃げ出すと、人々は我先にと逃げ道を求めて殺到した。混乱した人の波に呑み込まれ、行く手を阻まれてジュリアは焦る。
ユリウスは傍にいたバルトークに娘を任せ、状況を把握しようと周囲を見回した。
だが、この擾乱の中ではそれが難しい。
サムドロスとフィロラオスの姿が見当たらない。
そして、少しずつこちらに近づいてくる異形の者の姿。
目が合った、と思ったら、それは、ユリウスめがけて飛び掛ってきた。
「っ!!」
「お父様っ!!」
リリアが叫んだ。
キシャーと奇声を発しながら、口を大きく開けて、ものすごい勢いで目の前に迫ってくる。
剣を持っていないことに小さく舌打ちし、身構えた時だった。
目の前を白い衣がよぎった。
「!」
サントは敵の前へと立ちはだかると、飛びかかってきた男の刃を近くにあった椅子で受け止めた。
娘の勇敢な行動に、周囲は目を見開いて彼女を見る。
固く刃の食い込んだ椅子を瞬間的に横へとずらすと、腕ごと剣を引っ張られた形で男の胴ががら空きになった。
そこに思いっきり蹴りを入れると、男の手から剣の柄が離れる。
鎖帷子を身に付けていた男は重い音を立てて床に沈んだ。
おお、という歓声が上がった。
「大丈夫か」
背後から近づいてきた王の声に、サントは背を向けたまま言った。
「…下がっていたほうがいい」
「なに?」
「こいつは死人だ。生者じゃない」
「なんだって?」
「動く屍だ。陰と陽のバランスが崩れて濃い邪気を発している」
「……なんのことだか、」
分からない、と続けようとした時、倒れていた男は不意に立ち上がって、サントに躍りかかった。
その時、横から巨体が飛び出した。
「…娘さん、礼を言う!」
バルトークは鎖帷子に身を包んだ男の頬をその拳で吹っ飛ばす。
料理の並べてあったテーブルに突っ込んだそれは、ガシャンと派手な音を立てて衝突したかと思うと、動かなくなった。
素手で鎖帷子を着込んだ男を吹っ飛ばすその凄まじさに、周囲は悲鳴を上げたが、バルトークは厳しい目を倒れた男に向けていた。
己の率いる専鋭隊の装備をした、明らかに己の知らぬ男の姿に、彼の心中は穏やかではない。
(クソッ)
ジュリアは肝心な時に主の傍にいない自分に、じりじりと焼け付くような怒りを覚えた。
――『いざという時に働いてくれる臣下がいれば私はそれで十分だ。そしてお前はその〝いざ〟を見落とすような男ではないということを私は知っている』
主の言葉を思えばこそ、怒りと焦燥が、己の中で再熱する。
あのような愚にもつかぬ男の相手など長々としているべきではなった。
「すいません、道を開けてください!」
つい、目の前を覆う人の頭の数に、口調がきつくなる。
「ああ、すいません。親衛隊の方だ。みなさーん、どいてあげてくださーい」
その時、そう声を張り上げて、どうぞ、と道を空けてくれたのは、黒い長髪をオールバックにして後ろでひとつに纏めている男だった。
黒の丸縁眼鏡をかけ、人のよさそうな、ちょっとつりあがった感じの糸目が特徴的だ。ひょうきんな気配の、眼鏡の中で細められた目に思わずほっととしてしまうような風貌だった。
――ちらりと、ジュリアは何かが引っかかったが、今はそれどころではない。
すみませんと会釈だけ返すと、すぐに主の下へと足を駆けさせる。
男は、眼鏡の下からうっすらと目を開けてジュリアのその背を見送ると、人ごみの中に紛れて消えた。
「陛下、ご無事で!」
ようやく主の下へと辿り着いたジュリアは真摯な視線で王を見た。
「ああ」
王は少し離れたところで被衣をした娘を見ていた。
気がかりそうにちらりと彼女の方を見やってから、ジュリアは口を開く。
「…報せがありました。何者かによって、警庁が襲撃を受けたそうです」
「なにっ?」
バルトークが目を剥く。
「ドリスと、クレバー中将が向かったそうですが、敵の動向や正体についてはまだ情報がありません。それと…」
そう言って、ジュリアはユリウスの耳に顔を近づけた。
耳元にもたらされたその報告に、ユリウスは眉をひそめ、瞑目する。
「……わかった。とりあえずジュリア、皆の避難を」
そう言った時だった。
あっ、と誰かが叫んだ。
何事だと見やれば、先程バルトークの剣で吹っ飛んだはずの男が立ち上がっていた。しかも、
「なんだ、あれはっ…!」
ジュリアは絶句した。
男は首の骨が折れていた。
直角に曲がった首のおかげで、耳が肩にくっついた状態で、男は、立っている。
戦慄が走った。
壁際によって事の顛末を呆然と傍観していた人達も、悲鳴を上げて逃げ出す。
「…動く、屍?」
ユリウスの呟きにジュリアがその意味を問おうとした時だった。
「きゃあああああああ」
逃げ出そうとした人々の方からまたもや悲鳴が上がった。
「お、おい、こっちにもいるぞ!!」
一人の婦人に襲い掛かろうしているその化け物に、ジュリアは飛び出していった。
場は混乱を極めた。
人々は血惑いながら、必死に逃げ道を探して、入り乱れる。
「くそっ」
倒しても倒してもまるで効いてないかのように起き上がってくる敵に、ジュリアは吐き捨てた。
いくら専鋭隊の装備をしているからといって、不死身になれる訳ではない。
スピードも剣の腕も特筆するほどではなかったが、その頑丈さと馬鹿力には閉口する。
「きりがないっ…!!」
いったい、なんなんだこいつらは。
そう思った時、王の呟きを思い出した。
――動く、屍
(動く屍?)
ジュリアははっとした。
先程から、どこかで見たことがあるような気がしていた敵の、その答えに思い当たったからだ。
「こいつらっ、まさか…!!」
驚愕に目を見開いた時だった。
「ジュリア!!」
バルトークが叫んだ。
すぐ傍に敵の気配を感じた。
(!!)
間に合うか。
迫りくる刃に己の剣で迎えようと、振り向きざまに腕を上げる。
だが、
間に合わない。
利き手を負傷するのはまずい。
敵の剣撃はどれほどの威力か。
そんな思考が、一秒に満たない瞬間にも、頭をよぎる。
その間にも刃は迎え撃とうとした己の右腕に向かって迫ってくる。
まさか、丸ごと一本もって行かれはしまいだろうが。
遠くでリリアの悲鳴を聞いた気がした。
そして、ジュリアは瞠目する。
「――失礼。出すぎた真似を」
低くもなく、高くもない、理性的な中音が斜め後ろから聞こえた。
白い布が視界の端で揺らめいている。
うっすらと透けた赤い色。
敵の刃から己の腕を守るように、もう一つの剣が割り込んでいた。
「あ、なたは…」
「…呆けている場合ではない。後ろだ」
その言葉に、ジュリアは振り返るより先に剣を閃かせた。
後ろで鈍器を持ってジュリアに襲い掛かろうとしていた男の胴に鋭い刃が入る。
敵は衝撃に後ろへ倒れた。
顔を戻せば、両手で剣を持った娘が刃を受けながらじりじりと後退していた。
敵の力に刀身がぎりぎりと悲鳴を上げている。
当然だ。女の力で敵う訳がない。
助太刀しようとジュリアが動いた時、娘は自ら体を軽く引くと同時に絶妙のタイミングで剣に働く力の向きを逸らした。
急に手応えを失った男は勢い余って前方につんのめる。
たたらを踏んだ男の足元を、彼女が身を引くと同時に剣先で払うと、敵は近くにあったテーブルの中へ頭から突っ込み、静止した。
「……」
呆然としているジュリアを彼女が振り返った。
真っ向から見上げられて、ジュリアはやはり息を詰めた。
下から衝き上げられる鋭利な刃物のような、紅。
だが、鋭い眼差しにささくれた印象はない。
彼女の瞳は静かだ。こんな修羅場にあるというのに、奥深い紅は動揺に揺れることなくただ湛然としている。
刀のように鋭く研ぎ澄まされた、ひどく静かな視線だった。
ジュリアは唐突に既視感を覚えた。
(どこかで…、そう、よく感じる…)
この、言葉にできない高揚感は……。
――ああ、陛下だ、とジュリアは思った。
あの、圧迫感と存在感、強烈な眼光と、その瞳の中にあるなにか大きく湛えられた力のような、何事にも動じない森閑とした山のような静謐を秘めた目、――静かな理性の中に勁健な命の躍動を感じさせる、鋭い眼光。
それは、自分の主が持つものにそっくりだ。
思いもよらない発見に、呆然とその目を見つめていたジュリアは、透徹とした瞳の中に己が映っていることを自覚すると、慌てて口を開いた。
「あ、危ないところを助けていただきありがとうございました」
「…いえ。それよりも」
そう言った視線の先にはもう起き上がろうとしている異形の姿。
「こいつらはいったい…」
ジュリアは理解しがたいというように、厳しい目で睨めつけた。
「…誰かが、彼らをこんな化け物にした」
「え?」
肩に耳をくっつけたまま立ち上がった男は、サントが武闘大会の決勝戦で当たった、両刀遣いの男だった。
サントはきつく、眉をひそめた。
「…心当たりは」
「心当たり?」
「こんな風に王のいる城を襲ってくるような輩の、です」
「!」
――『ああ、大事な薬が盗まれたと言って、被害届けを出してきた薬師がいてな』
――『薬師?』
――『そうだ。後で、陛下の前で紹介してやろう。私の付き人としてな』
――『…その薬師はどんな人間かと訊いているんです』
――『どんな人間て、どこにでもいそうな男さ。ひどく愛想のいい、な』
ジュリアはバッと周囲を見回した。
逃げ惑う人の流れに目を凝らす。
その中に、都警隊の襟章をつけた礼服に身を包み、仰々しい勲章を胸に飾った男達を見つけてジュリアは眉をひそめた。
おそらく、ジョセフ=カッターと一緒にいた連中だろう。我先にと逃げることはしていないが、積極的に援護をしようという様子もない。静観を決め込んでいるようだ。
それも仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。彼らはパーティーに招待されて来たのであって、剣など携帯していないし、どっちにしろ都警隊のトップといえば、実戦から離れて久しいだろう。だが――
(自分達よりずっと腕の細い娘が、敵の剣を奪って戦っているというのに…)
それを見て何も感じない訳ではないだろうが。
それとも、
(俺がいるからか…)
その可能性はあった。
(この騒動を専鋭隊と親衛隊への攻撃材料にするつもりか)
この非常時に下らぬ敵対心を捨てられないでいるのだとしたら、これほど失望させられることはない。
年波が寄ると往年の騎士も体面や派閥争いにばかり執着するようになるのだろうか。体が衰えた末に残るのがそれだけなのだとしたら、なんともやりきれない。己の体力だけで上に上った人間は、その力が衰えてしまえば、後に残るのは過去の栄光だけなのかもしれない。そして、後生大事にそれを守ろうと頑になる。
年老いて頭が固くなっていく人間の真理を見た思いに、ジュリアは情けなくなった。
そして、いつまでも柔軟な、時には柔軟すぎる思考力を持つ己の主はやはりすごいのだなと、いつものごとく飛躍しかけた時、ジュリアはハッとした。
(都警隊…?)
なんだ?
自分は何かを見落としている。
この違和感の正体は。
ぐるぐると取り留めのない思考が渦を巻き始める。
散乱したパズルのピースが頭の中で飛び交う。
この違和感がヒントだ。
ピースはきっと揃っている。
後はどれとどれを繋げるか。
…都警隊、ジョセフ=カッター、傲慢な顔つき――先程あの男に抱いた違和感の正体はなんだっただろうか――、愛想のいい男、薬師、目撃者の証言…
――『何かが、足りない気がする』
そう、足りない。
先程ジョセフ=カッターの顔に、ジュリアも何か物足りないものを感じた。
(なんだ?)
足りない顔。
顔の中で不足したパーツ。
ほくろかひげか。
いや、違う。
もっと決定的な何か。
その時、不意に頭の中でかちりという音がした。
眼鏡だ。
ジョセフ=カッターは眼鏡をかけていなかった。
「――眼鏡?」
そこで思い出す。
人垣の前で声を張り上げて自分に道を空けてくれた男。
あの男は都警隊の服を着ていた。
眼鏡の中で細められた目がひょうきんそうな、愛想のいい…
(愛想のいい、だと?)
そうだ。
だから引っかかった。
都警隊の者が、自分に対してあんなふうに好意的な態度を取るなど。
そして…。
――『愛想がよくて、始終ニコニコ笑っている、どこにでもいそうな平凡な男』
「くそっ!」
あの状況下では、たぶん都警隊の制服を着ていなかったら記憶から抜け落ちていた。
どこにでもいる男だと…。
「どこに行った!」
だが、見つからない。
そうこうしているうちに、復活した男達が剣を持って立ち上がってくる。
ジュリアは一刀の元に男を床に沈め、そしてこちらを遠巻きに見ている都警隊の幹部の下へと足を走らせた。
「ジョセフ=カッターが連れていた男の行方を知りませんか!」
怒鳴るように尋ねられた方は、ぎょっとして、そしてほんの少し眉をひそめた。
「知らんな。それより彼がどこにいるかを知らないか?」
「……彼なら牢屋に入れてあります」
「なに?」
何も知らないと見て取ると、ジュリアは仕方なく踵を返す。
「待ちたまえ! どういうことだ!」
「貴方方は早く本部に戻ったほうがいい。先程警庁が何者かに襲撃されたらしいという報告が入りました。専鋭隊と親衛隊副隊長が向かったそうですが、まだその後の報告がきていない状態です」
顔を青ざめさせた老紳士に、ご愁傷様ですと、ジュリアは心の中で呟いた。
森閑【しんかん】…物音が聞こえずひっそりと静まり返っているさま。
勁健【けいけん】…つよくすこやかなこと。
透徹【とうてつ】…透き通ること。澄んでにごりのないこと。明晰であること。