43 砕かれる虚栄心
その夜、ジョセフ=カッター少将は都警隊の上司達と一緒に煌びやかなパーティーに参加していた。
「くそ、ナギブめ、何をしている」
いらいらと悪態をついていたジョセフは、広間を抜けて通路側へ出た親衛隊隊長を認めると、この好機を逃してはならじと、ずんずんと大股でその背を追った。
「これはこれはサンバリアン様。殿下の傍にいなくてよろしいのですか?」
わざとらしく背中にかけられた声に、ジュリアはゆっくりと背後を振り返った。
「…カッター少将殿」
小さく寄せられた眉根にジョセフが剣呑な視線を送ると、ジュリアはとっさに視線を逸らした。
「…何か御用でしょうか」
「何かではないでしょう。挨拶もできないのですか。目も合わせられんとは、情けない!」
合わせられないのではなくあなたのような輩とは合わせたくもないのだ、という言葉をジュリアは呑み込んだ。
目を合わせてしまえば、自分が何を言うかも分からない。
いたずらに怒りを買うのも得策ではない。
だが、
「王女様が急に娘らしくなったそうだが、殿下にまで色目を使うとは、少しは恥を知ったらどうです?」
己を貶めるために王女を引き合いに出したその言葉に、リリアまでもが貶められた気がして、ジョセフの目を真っ向から見据えた。
「あなたと私は親しく挨拶をかわすような間柄ではありません。下らぬ話に耳を傾けてやる義理もない。言いたいことがあるのなら言いたいことだけはっきりと言ってください。あなたにかかずらっている時間が勿体無い」
外交辞令もくそもないその対応に、ジョセフは絶句する。
この若造は今自分に向かってなんと言った?
「き、きさま、とうとう本性を現しおったなぁ」
陳腐な台詞だとジュリアは思ったが、それを口にすることすら彼は億劫だった。
「用件を」
これ以上無駄話をするようだったら無視して行くと、暗に視線で告げる。
だが、その時ふとジュリアは違和感を覚えた。
眉をひそめ、まじまじとジョセフの顔を見る。
それがますますジョセフの癇に障ったらしい。
ジョセフは怒りに顔を真っ赤にしたが、ここで自分が我を失っては意味がないと思い直したのか、無理矢理自分を押さえ込んだ。優位に立っているのはこちらなのだぞというように、強引に嘲笑を浮かべた顔は歪んでいる。
「王女に取り入り、陛下まで誑かすのだから嘆かわしいことだ」
「…中傷の類が目的なら内容を後日手紙で郵送してください」
俗悪な発言に心底嫌気がさしたジュリアはその違和感の正体を突き止めることを放棄した。
迷うことなく向けられた背に、しかしジョセフはほくそ笑みながら続けた。
「薬の出所が分かったぞ」
ピクリと、ジュリアの背が止まる。
ゆっくりと振り返った。
「……今、なんて?」
「犯人が盗んだ毒薬の出所が分かったと言ったんだ」
その反応が見たかったというように、勝ち誇ったような顔でジョセフは告げた。
「本当ですか?」
「ああ、大事な薬が盗まれたと言って、被害届けを出してきた薬師がいてな」
「薬師?」
「そうだ。後で、陛下の前で紹介してやろう。私の付き人としてな」
「……あのように危険な猛毒を所持していた人間がいたと?」
「薬師が人によい影響を与える薬にばかり知悉していると思っているのなら、それは大きな勘違いだ。毒の特性に習熟していなければ、それに対する解毒薬など作れようはずもない。ゆえに薬師という人種は、良薬と同じように毒薬の作り方にも通じている」
ジョセフは自分がかつてぶつけた疑問に返された言葉をそのまま繰り返した。
「……」
押し黙ったジュリアに、優越感をくすぐられたのだろう、嗤いながら続けた。
「先祖伝来の禁じられた秘薬を、あのろくでなしの息子に奪われたらしい。面通しもした。盗んだのはこの男だとはっきりと証言したよ」
ジュリアはギクリとした。
先祖伝来の禁じられた秘薬?
そんな胡散臭そうな話をこの男は信じたのか。
しかも面通しで証言までしただと?
顔を青ざめさせたジュリアに、ジョセフは勘違いした。
「まぁ、この前教えてやろうとしたのだが、君の部下が隊長は忙しいと言うからな。なにやら、専鋭隊まで動かして大きなことをしているようだから、言うのが憚られたんだよ。徒労に終わってしまって気の毒だが、これで君が、己の手柄に目が眩んで、いたずらに国王陛下を脅かしているのが分かっただろう。それをはっきりと陛下に進言しようと思ってね、今日という日を待っていたんだ」
「……どんな人間です」
「なに?」
「…その薬師はどんな人間かと訊いているんです」
不遜な尋ね方にジョセフは顔をしかめたが、ただの負け惜しみにすぎないと、口を開いた。
「どんな人間て、どこにでもいそうな男さ。ひどく愛想のいい、な」
――『愛想がよくて、始終ニコニコ笑っている、どこにでもいそうな平凡な男』
ジュリアは絶句した。
「あなたという人はっ…!!!」
ひどい剣幕で怒鳴りつけてきたジュリアに、ジョセフは肝を抜かれて、怒鳴り返した。
「なんだ、いきなり! もはや、お前の失態はどうにもならん!! 私のほうが正しかったのだ!! 私こそが!!」
その言葉を聞いた途端、自分の中の何かがすーっと冷たく凍っていくのを、ジュリアは感じた。
「…その男をこの夜会に連れてくると言いましたか? あなたの付き人として?」
「そうだ。彼が証人となってくれるだろう。お前の無駄な行いのためにどれだけ周りが迷惑を被ったかをな」
「あなたは私が忠告したのにもかかわらず、名利心に囚われ、騎士であることを捨てた」
「なに?」
ちょうどそこにダンカンが廊下を走ってやってくる。
「隊長!」
彼はそばにジョセフがいることにぎょっとし、次いでジュリアの顔に血の気をなくした。
何を言ったんだ、このおっさんは。
「どうした」
抑揚のない声で尋ねられ、今はそれ所ではないと思い起こしたダンカンは、引き攣った顔を引き締め、ジュリアの耳元に顔を寄せた。
「さっき、届いた情報なんですが…」
続く言葉にジュリアは眉をひそめると、ジョセフを見た。
その凝結した青い氷のような目の中で燃える炎に、ジョセフは無意識に気圧される。
だが、ジュリアの口から出た言葉に彼は失笑した。
「警庁が何者かに襲撃されて、ドリス率いる専鋭隊がその鎮圧に向かったそうです」
「何を戯言を。嘘をつくならもっとマシな嘘をつけ」
「…嘘だと?」
「当たり前だ! 私が騙されるとでも思っているのか? そんな狂言を吐いたところで、お前の失態はなくならない! お前は自分のしたことは無駄ではなかったと思いたいだけだろう!」
「先程からのお言葉、そっくりそのままお返しする」
「なにぃ」
「教えましょう。嘘ではない。そして今から言うことも真実だ。警庁が襲撃されたのは、誰でもない十中八九あなたの過失によるものです」
食って掛かろうとした男に、ジュリアは動いた。
「――っ!?」
ジョセフの喉元に、ジュリアの抜いた剣が据えられている。
ジョセフはごくりと喉を鳴らした。
怒りで頭が噴火しそうだ。
「隊長!!」
いくらなんでもそれはまずい、とダンカンは悲鳴を上げたが、ジュリアは全く意に介することなく、刃を喉に突きつけたまま、目を眇めた。
「虫も殺さぬ男かどうか試してみようか」
「き、さまぁ…」
「ほざくな、下衆が」
うわぁ、とダンカンは周囲を見回す。
止めるとしたら、やはり自分か。
いや、無理だ。こうなったジュリアを止めるなど。
(…ドリスさーん!)
ダンカンは心の内で副隊長に助けを求めた。
一方、ジョセフは己の脇から冷や汗が出るのを感じていた。
剣筋が目で追えなかったのだ。
(なんだ、この男は。ただの、優男じゃないというのか)
不意に思い出したのは、いつかの親衛隊副隊長の言葉だ。
『あまり、舐めたことしてあいつを怒らせないほうが身のためですよ。柔和なるは弱きに非ず、ってね。俺は貴方のために、キレたジュリアの前に飛び出す気は毛頭ありませんから』
初めて見るかのように、呆然とジョセフはジュリアの端整な顔を見つめた。
「――黙って聞け。あなたが得意げに話したその男は、私達がずっと探していた人物だ」
「……なに?」
「あなたはその男に何をしてやった。何を根拠に何を信じた」
ジョセフの額際に汗がたまり始めた。
「あなたは自分に恥をかかせた私を貶めたいとう下らぬ虚栄心のために、その男の言葉を信じた。疑うことさえしなかっただろう」
「…そんなことは…、」
「犯人を目撃した校尉士の証言を覚えているか。――どこにでもいる平凡な顔をした、始終愛想のいい男…。思い返しもしなかったのだろうな」
「そ、そんな馬鹿な事があるか、…そ、そんな、たったそれだけの証言のためにあの男が犯人だと決め付けるのか…!」
「無理往生で犯人を決め付けたのはあなただろう」
「っ」
「強引な取調べで罪のない青年に罪を擦り付けた。己の出世欲のために」
「ちがう! 犯人はあいつだ!! 仕出屋の三男坊だ!」
「…その薬師の男はあなたにとって耳あたりのいいことだけをしゃべっただろうな。端から疑う気のない奴を騙すことほど容易いことはない。それで? あなたは自分の正しさを証明してくれるその男のために何をした? 自分の付き人として、警庁に出入りをさせたのか? この城に、そんな男を招待しようとしたのか? 何故信じることができたんだ? ――薬を盗まれた、その薬は先祖伝来の禁じられた秘薬――、ずいぶん胡散臭いがあなたにとっては確かに都合のいい話だ。信じたくなる気持ちは分からないでもない」
みるみるジョセフの顔が青ざめる。
「軍部の情報はその男にだだ漏れだった。どうりで網に引っかからない訳だ。まさか、騎士団の中に真犯人を囲っている馬鹿がいたとはゆめにも思わなかった」
「…い、一方的に…決め付けるな…」
「……その男の容貌は? 一緒にいたのなら覚えているだろう」
「…あ、愛想がよくて…どこにでもいる奴だ」
「それだけか?」
ジョセフは必死に思い出そうとした。
だが、思い出そうとすればするほど、何故か輪郭がぼやける。
とにかく愛想が良くて、にこにこ笑って腰が低く、取り立てて美しい訳でも醜い訳でもない。
「どうした? 髪型は? 体格は? “そんなあやふやな証言じゃ、確たる証拠にはなりえない”」
聞き覚えのある言葉にジョセフは動揺した。
それは、かつて自分が目の前の男に言った言葉だ。
「しょ、証拠だと?」
「あなたの言うその男と、校尉士達が目撃した容疑者が同一人物ではないという、証だ。思い出せ。彼らはあなたに何と言っていた」
『す、すみません。なんていうか、顔を見れば断定できると思うんですけど、思い出そうとすると、何故か輪郭がぼやけて愛想がよかったという以外の印象が希薄になるんです…』
ざーと音を立てて、血の気が引いていくのが分かった。
それに追い討ちをかけるように、ジュリアはジョセフを冷然と見やる。それは情けも何もない底冷えする視線だった。
「……あなたのその権威志向は己が劣っていることを認めたくないという虚栄心から来ている。自意識過剰でコンプレックスの強い人間ほど、権威を求めたがるものだ。己の虚栄で他人を従わせるあなたは、心底器の小さい人間だな。だが、あなたはそれを認められない。自分が他から侮られ貶められることを何よりも恐れている。だから、己の劣等感を埋めるため他人を貶めることに、なんの躊躇も覚えない。己を守るために他人を蹴落とし、その卑しさに気がつかないで、肩を怒らす。底の浅い人間だ。あなたに騎士を名乗る資格はない。ザナス将軍に対抗心を燃やすことすらおこがましい。――貴方は永遠にバルトーク=ザナスには敵わない」
「……っ!」
その宣告に、ジョセフは言葉を無くし、ジュリアの目の色に、心を凍らせた。
冷たく突き放す零下の青。
今までの人生で、他人からこれほどまで強い蔑みの視線を送られたことはない。自分の全人格を否定されたような恐怖に、ジョセフは硬直する。
ダンカンは背後で顔を青ざめさせていた。
「遺憾千万です、ジョセフ=カッター少将殿。あなたはもう騎士でもなんでもない。己の立身出世のために仲間を売り、〝生きている価値のないクズ〟に自ら成り下がった。サンカレラの面汚しだ」
激昂するのでもなく淡々と発せられる言葉に、ジョセフは己の心が冷えていくのが分かった。
喉元に突きつけていた剣を相手の鼻先へと据え、押し殺した低い声でジュリアは言った。
「陛下にもしものことがあったら、――お前を殺す」
顔から色を無くしがたがたと震え始めた男から剣を引き、その場に崩れ落ちたジョセフに見向きもせず、その脇をすり抜ける。
「た、隊長」
うろたえて呼ばわったダンカンに短く言った。
「牢屋にぶち込んで置け」
それは普段の彼からはとても想像できない冷ややかな声だった。
外交辞令【がいこうじれい】…相手に好感を持たせる、外交上・社交上の応対語。転じて、口先だけのお世辞。
知悉【ちしつ】…知り尽くすこと。
無理往生【むりおうじょう】…相手に強引に押し付けて、自分の思うとおりにしてしまうこと。