42 歩く死体
「いやな風だ」
ねっとりとした湿気を含む風に、馬上でドリスは呟いた。
――『化け物だって…、人間じゃなかったって言うんだ』
「きな臭いな」
隣で馬を駆けているヨセフが言った。
「けちなこと言わず全員連れてきた方が良かったですかね」
「指揮官なら最後まで己の言葉に責任を持て」
「ははあ、胸に重いお言葉です」
あえて軽口でかわすと、ヨセフは眉をひそめた。
その気配を察して、ドリスは続ける。
「ちょっと先に様子見てきますから、中将は後から来てください」
自ら斥候役に名乗りをあげると、フィオスとキーンに声をかけてドリスは馬を速駆けさせた。
逃げたな、というヨセフの呟きは風と一緒に聞き流す。
周囲を警戒しながら正門前まで来た三人は馬を止めた。
「なんだ? やけに静かだな」
建物の中からは光が漏れていたが、襲撃を受けているような切迫した喧騒はどこにも無い。
「おい、まさかこっちが囮じゃないだろうな」
馬から下りたドリスに、フィオスとキーンも不審げに顔を見合せる。
静かすぎる様子に眉をひそめながら建物の中へと足を進め、そしてそこに広がった光景に三人は絶句した。
「……おいおい、冗談じゃないぞ」
ドリスは言ったが、他の二人は言葉もないようだった。
「災救隊に救助要請を!! 中将呼んで来い!」
フィオスとキーンにそう言って、ドリスは駆け出した。
ホールには都警隊の制服を着た隊員達があちこちで倒れている。
立っている者は既に誰一人としていなかった。
静けさが、寒々と広がっていた。
「おいっ、大丈夫か!!」
「…うう」
入り口近くでうつ伏せに倒れていた校尉士の徽章をつけた青年を、ドリスは抱き起こした。
「しっかりしろ。何があった」
「…化け…もの…が…」
顔を青ざめさせた青年の気息奄奄とした呼吸にドリスは舌打ちした。
周囲を見回す。
被害は甚大だ。
ピクリとも動かず倒れている男達が死んでいるのか、気絶しているだけなのかは、一見しただけでは分からない。中には自らの血の中に頭を沈めている者もいたが、全員が全員己の体を血で汚している訳ではなさそうだ。
だが、それに安心していいのか分からない。呻き声一つしないのがドリスには不吉に感じられた。少なくとも意識のある人間はいないらしい。
「その化け物とやらはどこにいる」
そこで気付いた。
(…なんだ、この傷口は?)
その肩口を見やる。
刃物で切りつけられた類の傷ではない、まるで獣に食いちぎられたような傷があった。
(歯形からして、人間のもの、だよな)
「喰人鬼ってか」
そう呟いた時、服の袖をつかまれた。
「…気を…つけて…。あいつ、ら…人間じゃ…ない…」
すぐにでも途切れてしまいそうな声に、ドリスは彼の口元に耳を寄せる。
「なんだって?」
「……し…び…と…だ…」
しびと…?
……死人?
「…幽霊だなんて言うんじゃねぇだろうな」
そう零した時だった。
「ドリスっ、前だ!!」
背後から慌しく乱入してきたヨセフの声と同時に落ちた影に、ドリスはばっと顔を上げた。
「っ!?」
目の前の人影を視界に捉え、絶句した。
濁った瞳。
血の気の全く通っていない土色の顔。
口から垂れる涎。
漂う腐臭。
死人が纏う白い素衣、
醜陋なその人形。
異様な光景に唖然としたが、ドリスが驚いたのそれだけではなかった。
「お前…っ!!」
ひゅんと拳が向かってきて、ドリスは抱き起こしていた青年を抱えたまま小さく横によけた。
的を外れた拳は豪快な音を立てて、大理石の中に沈みこむ。
ずしんとホール全体が揺れた。
駆けつけた専鋭隊の精鋭達の間からどよめきが上がる。
「…………冗談じゃねぇぞ」
大きく陥没している床を見て、ドリスは呻いた。
こんなものを食らったら、鼻が真っ直ぐついているいないの問題じゃない、頭蓋兀が破裂する。
男が床に拳を落としたまま停止している隙に、背後から急いで現れた専鋭隊員の一人がドリスの腕の中にいた青年を引きずっていく。
男はゆっくりと身を起こす。
「…なんだ、こいつは」
ドリスは目の前の男と対峙しながら、腰の剣を抜いた。ヨセフの言葉に答えを返す。
「……化け物の正体は、歩く死人です」
「歩く死人――?」
「こいつは俺が武闘大会の決勝戦で当たった男だ。警庁内で毒殺されたはずの」
「!!」
「…生きてる時分も往生際の悪い男だったが、見上げた根性だな」
唇を歪めながら、ゆらゆらと左右に揺れている男を見据えた。
(…気にいらねぇな)
緊張はあってもドリスには不思議と恐怖心はなかった。
ただ、この訳の分からない事態に対して、かすかな苛立ちを覚えた。
誰が何をしてどうやってこんなことになった。
死んだ人間が生き返る?
冗談じゃない。そんな馬鹿なことがあってたまるか。
その理不尽さが、気に食わない。
「来いよ。冥土に送ってやる」
どたどたと突進してきた男を、横によけながらドリスは刃を走らせた。
水平に突き出した刃が突進してきた男の胴に食い込む。ズンッと音を立てて、肉を裂いた。
「くっ」
やけに硬い手応えだ。
手に伝わる感触が重い。
男の腹に食い込んだ己の剣を、強引に引き抜いた。
飛び散ったのは赤い鮮血ではなく、濁った茶色の液体。
同時に、ひどい異臭が鼻を突く。
男はいかにも鈍重そうに前のめりに倒れた。
「やったのか」
「……もともと死んだ人間のはずですけどね」
慎重にドリスは倒れた男の傍に立つ。
倒れたまま動かない体を足で蹴り、剣の先で突ついた。
男はビクリともしなかった。
ドリスは傍にしゃがみこみ、動く死体の正体を見極めようと身を乗り出す。
「ん?」
首の裏、ちょうど男の項の部分に何か細長い金属片が刺さっている。
不審に思って覗き込んだ時だった。
白目を剥いていたはずの死体が突然横目でギロリとドリスを睨んだかと思うと、牙を剥いた。
「っ!?」
首の付け根の辺りに鈍い痛みが走ると同時に、ゴキっという嫌な音がした。
ドリスの秀眉が苦痛に歪む。
「ドリスっ!!」
「…く、そっ、たれ…!」
ドリスは持っていた剣で男の体を突き刺した。
だが、生きた死体は何も感じないかのように身を起こすと、ドリスの首から口を離し今度は手でその首を締上げながら立ち上がった。
片手で、百八十以上あるドリスの長身を持ち上げ、宙に浮かせる。
「なっ!」
騎士達は瞠目した。
「ドリスッ…!!」
遠くでフィオスとキーンの悲鳴が上がった。
ドリスは脚をばたつかせて暴れたが、男は微動だにしなかった。
己の首を締め付ける手を自力で外そうとしても喉元に食い込んだ男の手はぴくりともしない。凄まじい握力と腕力だった。
抵抗した分、エネルギーの消費は激しい。
酸素が足りない。
息ができない。
(やべぇ、…目の前が…かすんで、きやが……)
口の端に細かい泡がたまり、顔色が赤から青へ、青を通り越して紫になり始めた時、ヨセフが吼えた。
「その手を離せ!!」
大喝すると同時にドリスを持ち上げていた男の腕に向かって、剣を振り上げた。
二の腕に斬り込んだ刃に力を込め、一刀両断のもとに振り下ろす。
ドリスは喉に男の片腕を付けたまま、空中から落下した。
男は片腕を失ってバランスを崩したのか、尻餅をついて倒れる。
ドリスはヨセフと二人がかりで、己の首を締め付けていた男の手をようやく外した。
「ゲホッケホッケホッ…!!」
激しく咳き込むドリスの首筋にはくっきりと紫色の痣ができている。
指先が痙攣を起こしたかのように震えていた。
「……死ぬ…かと…思った…」
生理的な涙を流しながらドリスは己の首に震える手で触れる。
「……人間の、力じゃ、ねぇ」
ヒューヒューと空風のような呼吸をしながら、しゃがれた声を出す。自慢のバリトンが台無しだ。
「ドリス、大丈夫か!」
フィオスとキーンが顔を真っ青にしてドリスの下へ駆け寄った。
ヨセフが言う。
「安心するのは早いぞ」
睨めつけた先で、片腕を失ったはずの男がのっそりと立ち上がった。
ドリスが突き立てたはずの剣を胸に刺したまま体を傾けゆらゆらと不安定に揺れている。
男達は絶句した。
「……化け物だ」
誰かが呟いた。
切り裂かれて汚れた服の下から見えた男の体に、生理的な嫌悪感が走った。
ドリスが首を絞められながら激しく暴れたせいか、男の纏っていた素服――それは男自身の体液で半ば茶色く染められている――は切りつけられた箇所から下半分がずれ落ち、前部は肌蹴、男の濁った肌色が覗いていた。
胸部から腹部にかけて切開された胴部前面がおざなりに縫合された跡――、ドリスの入れた一撃でその縫い目が破裂したのか、縦に伸びた縫合跡に横から入った裂傷で腹は弾けている。
その肉と肉の合間に見える、赤黒い色。
たらたらとそこから粘着質のある液体めいたものが溢れていた。
腐臭の源はどうやらそれだった。――とろとろに腐敗した、内臓。
寒々しい空気が流れる。
悲鳴を上げて取り乱す者がいないのは、鍛えられた専鋭隊だからこそだっただろうか。
だが、冷たく硬直した場の雰囲気は否めない。
「…な、なんなんだよ、あれ。一体、どうなってるんだ…なんだってあんなのが…ありえない…!!」
フィオスの声が、男達の胸中を代弁していた。
集団の中で、混乱と恐怖は伝染する。
常勝で知られた百戦錬磨の騎士達の心に確かに走った脅え。
それに気がついたヨセフは口を開いた。
「あれがなにかなどどうでもいい。重要なのはあれが敵で、その敵はどうやら通常よりずっと頑丈らしいということ、それだけだ。下らないことに頭を使う前に倒し方を考えろ」
「…賢明な、意見だな」
ドリスはキーンに支えられながらゆっくりと立ち上がった。
「…中将、首だ」
「首?」
「…化け物でも何でも首が致命的なのは定石だろう。…それに、首のここんところに、何かぶっ刺さってた。首を切り落とせば…、奴を倒せるのかもしれない」
そう言って、ドリスは己の首の裏をとんとんと叩いた。
「見たところ、あいつの武器はあの馬鹿力だけだ。動きも速くはない。捕まるとやばいが、捕まらなきゃ問題ないはずだ」
「…首なしで動いたらどうする?」
言葉の異常性にドリスは笑いたくなった。既に死んでいるはずなのに、虫並みの生命力とはいかがなものか。
「だったら解体するしかない。いくらなんでも胴だけになって動くことなんてできないだろう。それか、体に火を放つか。むごいようだが、あいつはもう死んでいる。さっさと倒してやるのが優しさだ」
ヨセフはドリスを見た。
「お前は休んでろ。あいつは俺が引き受ける」
「…俺にやらせてくれ」
「…できるのか?」
「因縁のある男でね。俺の手で引導を渡してやりたい」
そう言うと、ドリスはキーンの肩から己の腕をはずし、目をつむって、大きく深呼吸を繰り返した。
さっきので大分体力が殺がれた。長引くと不利だ。一気に畳み掛けて終わらせる。
全身に酸素を送り込み、カッとドリスは目を見開いた。
短い呼吸の間に腰に挟んであった短剣を男の顔めがけて投げつける。同時に地を蹴って駆け出した。
まともに目玉に突き刺さった刃に男が大きく体を揺らした時、ドリスは突き刺さったままの己の剣の柄を両手でつかむと、ぐっと力を入れ、引き抜くことをせずそのまま斜め下に斬り裂く。
だが、このくらいの衝撃では倒せないことを知っているドリスは相手に体勢を立て直させる隙を与えず、真っ直ぐに喉仏を狙って刃を突き刺した。
拍子に首の裏に突き刺さっていた細長い金属片がボキンと折れる音がした。
その瞬間ビクリと小さく震えたかと思うと、男は目を見開いて硬直した。
固まったまま互いに向き合うこと数秒、ドリスは剣を引き抜く。
支えを失ったかのように男は足元からどっと崩れ落ちた。
「…やったか」
「…みたい、です」
男の体は一気に腐乱を進めると、異臭と黒い気体を放ちながら、シューと音を立ててぼろぼろに腐り落ちた。
じわりと死体から滲み出した茶色の液体がその周りに水溜りを作る。
「かわいそうな姿になっちまったな」
ドリスは肩で息をしながら、呟いた。
震える手で煙草に火をつけ、口元に運ぶ。
フーと紫煙を吐き出し、けぶる視界に映ったものに口の端を歪めた。
どうやら奇術か何かのように煙と一緒に消えてくれ、というのは無理な相談らしい。
「ああ、やっぱり全員連れてきたほうが良かったかな。それとも中将、あいつらと戦りたいですか?」
「あいつら?」
茶色い液体の中で爛れ落ちた死体に視線を向けていたヨセフは、ドリスの言葉に顔を上げる。
そして、鋭い目を見開いた。
そこには、今までどこにいたのか、虫のようにわらわらと湧いてくる白い服を着た集まりがあった。
「……おもしろい」
ヨセフは敵を睨めつけながら口だけで笑った。
「我ら専鋭隊の力を見せてやろうではないか」
大声を張り上げた。
「勇猛なる騎士達よ! 我らの敵はここにあり! 相手は歩く死人、化け物だ! 敵がなんであろうが遠慮する必要はない! 恐れるな! お前達が恐れなくてはならないのは己の中に巣食った怯臆だ! 我らはマダリア王国の誇るサンカレラ騎士団最強の戦闘専門精鋭部隊である! アストラリアの名に賭けて、目の前の敵を殲滅せよ!!」
ピンと空気の色が変わり、おおおおお、という男達の鬨の声が上がった。
「ドリス、後は任せろ。お前は怪我人救助の指揮を」
ヨセフの提案に甘えることにして、ドリスは頷いた。
†††
「負傷者の収容は完了。死者は若干名。後は全員重傷者。まだ予断は許されないが、敵が素手だったのが幸いしましたね。そっちは?」
「制圧した。警庁にはもう歩く死体はいない」
淡々と言葉を吐くヨセフに、さすがですねとドリスは笑った。
どうやら、馬鹿力と頑丈さだけが取り柄の化け物は、専鋭隊の敵ではなかったようだ。
攻略方法が分かればなんてことない。異質なものに対する恐怖と混乱は無力化し、終わってみれば制圧には一時間もかからなかった。
もちろん、それは連携の取れた専鋭隊の動きと適切な指揮官の指示があってこそであろうが。
「ドリス、やっぱり、地下にあったはずの死体全部無くなってた」
「そうか」
フィオスとキーンの報告にドリスは頷いた。
「それにしても…」
ドリスは横たえられた腐乱死体を見つめた。
ぼろぼろに崩れた人の体だったものは、今や判別するのが難しい。
骨格でさえ崩れて元の形を成していないのだ。どうすれば人の体がこのようになるのか皆目検討がつかないという有様だった。
「なんだってこんな化け物に」
そう言って、ふとホールに並べられた死体を見渡す。
「…なぁ、地下に置いてあった死体の数は?」
それは何気なく発した言葉だったが、
「確か……三十六、だったはずですが」
キーンの言葉に、ドリスは不意に顔を強張らせた。
「……足りない」
「え?」
「ここにあるのは三十だ!」
「なにっ!?」
「ちょっと、待て、じゃあ、あと六体は…」
ドリスは開け放された玄関口に目をやる。
「くそっ、誰だか知らねぇが、やってくれる」
「おい、あんなのが外に出たって言うのか?」
動揺するフィオスとキーンにヨセフが口を開いた。
「落ち着け。街には保険を残してきただろう」
「だが、要所要所にばらばらに残してきた人数だ。一点突破で、奇襲でもかけられたら、たぶん持たない。直ちに残り六体の捜索を!」
ドリスは嫌な予感を拭えなかった。
数の合わない死体に人為的な影がちらつく。
ジュリアの話では裏で暗躍しているのは狡猾な人間。
こちらが囮だったという可能性は高い。
そもそもこいつらの目的はなんだった?
そう考えて、鋭い舌打ちを鳴らした。
「頼むぜ、相棒」
斥候【せっこう】…敵情・地形などの状況を偵察・捜索させるため、部隊から派遣する少数の兵士。
醜陋【しゅうろう】…顔かたちがみにくくいやしいさま。
人為的【じんいてき】…自然のままではなく、人の手が加わっているさま。