37 傀儡師の戯曲
与えられた私室にユリウスが訪れたのは、夜も更けた頃だった。
「――これはこれは、国王陛下、今宵はどういったご訪問で?」
蝋燭がたった一本点けられたきりの暗がりの中で、青ざめたサムドロスの美貌が浮かび上がる。
前を肌蹴させたシャツからは浮き上がった肋骨が見え、薄い胸板は見ているだけで寒そうだった。
解かれた金の長髪も今は蝋燭の火を受けて、ぼんやりと蜂蜜色に輝いている。
妖冶たるその姿にはまるで人ではないような妖しさがあった。
「…気分はどうだ?」
ユリウスは扉口に立ったまま尋ねた。
サムドロスは片眉を上げて見せると、壁際の長椅子に横たわったまま、右手で中央に据えてある肘掛け椅子を示す。
「すみません、このような格好で。ですが、こうしているのが一番楽なものですから」
「構わんよ」
尊大な態度に眉をひそめることなく、腰を下ろしてユリウスは言った。
じっとサムドロスの様子を窺う。
顔色に反して、目の前の青年は落ち着いているようだったが、やはり、その血色は悪い。ゆらゆらと揺れる蝋燭の火に照らし出される顔は張り詰めた色が濃く、目元のくまも昨日今日のものではないのだろう。
その目の奥では、蝋燭の火を写し取ったかのように、昏く青い炎がゆらゆらと揺れている。
「眠れないのか? ひどい顔をしているぞ」
「心配していただかなくても今日はまだ調子のいいほうです。顔を合わせることなどない貴方には、ずいぶんとみすぼらしく映ることでしょうが……」
「…ならいいが、ルスカが心配している。ろくに眠っていないようだな」
「頭が冴えているものでね。そんなに心配していただかなくても、それほど悪い気分ではない。むしろその逆です。今なら何でもできそうな気分ですよ」
顔の正面を天井に向け、サムドロスは生白い喉を逸らして無防備に笑った。
「……ああ、それでどういったご用件でしょう。誰かに頼まれたのですか。頭の壊れた弟のご機嫌を窺ってきて欲しいと」
「…いいや、私の意志だよ。君と話がしたくてな」
サムドロスは浮かべていた笑みを引っ込め、こちらを無言で見つめるユリウスと視線を合わせた。
光栄です、と全くの無表情で言う。
「明日の舞踏会には出るつもりか?」
「何か問題でも? 私の体を心配してそうおっしゃってくれているようなら無駄なことです。誰が何を言ったかは知りませんが、心配はご無用です」
「君はルスカノウスが嫌いか?」
単刀直入のそれに、何を突然と、サムドロスは嗤った。
「貴方は彼が好きなのでしょうね。あれは、私の兄というよりは貴方の弟だ」
「ルスカは血の繋がったお前の兄だろう」
「半分だけですよ」
「たとえ半分でも、だ」
「その半分を繋げているのが、誰だか知っていてそうおっしゃるのですか?」
ユリウスは沈黙した。
「そうです、彼と私の唯一の共通項は、あの父だ。彼はとてもではないが私と二人で父との思い出話に花を咲かせたいなどとは思わぬでしょうね」
「……」
サムドロスはユリウスから顔を逸らして、脇においてあったグラスを手に取った。
「この国の創始者である二人の兄弟のように、世の全ての異母兄弟が和解できるなどと思ったら、大きな間違いですよ。私は〝フィロラオス〟にはなれません。麗しい兄弟愛でしたら貴方方にお譲りいたします」
「…その割にはこだわっているようだな」
「何がです」
「お前がどう否定したところで、あれがお前の兄であることは変わらん。……サムドロス、お前は〝フィロラオス〟にそっくりだよ。少年時代の彼にな。出来のいい兄の影でしか生きられない、そう思い込んでいる」
「――黙れ」
声と共にグラスが飛んだ。
ガチャンと耳障りな音を立てて、壁に叩きつけられた硝子の器が、蝋燭の灯りを受けて鈍い光を散らした。
ユリウスは顔色一つ変えずに続ける。
「お前は気付いているはずだ。目を逸らしているうちはいつまでたっても子供のままだぞ、サムドロス」
「……貴方に何が分かるというのです?」
「……」
「僕に無いものを全部持っている貴方に、僕の気持ちなど分かるわけがない。――肺からせり上がってきた血が喉を通る時、どんな味がするか、貴方に分かりますか?」
失神と覚醒を繰り返す病臥の淵で、死んだほうが楽だと、何度そう思ったか分からない。前後不覚に陥って幸運なことに自我を手放すことに成功し、暗闇の中に全てを置き去りにしてようやく苦痛から開放されたと思っても、次の瞬間には自分の意識は自分の体の中に戻っている。目を覚ました時に眼球を刺し貫く太陽の光がどれほど残酷か。その、絶望感。
目を開けた時に映る人影はまるで地獄の牢番のようだった。
『一命は取り留めた』
その言葉と共に、彼らはこの肉体という牢獄の中に永遠に自分を縛り付ける。
重いだけで何の役にも立ってくれないこの体は、悲鳴をあげ己を責め続けるだけの拷問具だった。
「――僕の命を必死に繋ぎ止めようとした大人達は、それが僕にとってどんなに迷惑なことか、知るよしもなかったのでしょうね。次の発作がいつ来るかも分からない恐怖に発狂しなかったのが、我ながら不思議でなりません。あの頃は何で自分がこうまでして生きなくてはならないのかが理不尽で仕方なかったな。まるで苦しむためだけに生まれてきたようだった。よっぽど、前世で悪いことをしたんでしょうね。だから、健康な肉体を持った人間は、それだけで僕の憎しみの対象でしたよ」
「…お前が苦しんでいる間、ルスカが安穏と暮らしていたとでも?」
「あの男の苦労など僕の知ったことではありません。あいにく、僕は彼と違って、同情心に満ち溢れてなどいませんから」
「……ルスカは臆病な男だ」
「知ってますよ」
鮮やかな嘲笑を乗せてサムドロスは返した。
「では、それを誰より知っているのがルスカ自身であることを、お前は知っていたか?」
「……」
「だから、あいつは強い」
「強い?」
「ああ、強い。怖くても立ち向かうことを知っている」
「……」
「自分の憶病な心を何よりも恐れているからだ。あいつはお前が思っている以上に、ずっとタフだよ」
「だからなんだって言うんです? 不出来な私と違って有能な兄を讃えなくてはいけないとでも?」
「サムドロス、あいつはお前の味方だ」
サムドロスは話にならないというように、鼻で笑った。
「言ったはずですよ、麗しい兄弟愛なら貴方方にお譲りすると。フィロラオスは二人も要らないでしょう。弟を思う貴方の心には感動しますが、私を巻き込まないでいただきたい」
「……あいつは悔いている。お前を一人にしたことを」
「そのようなお話をしに来たとは、王とは存外暇な立場にいるようですね」
「今の私は王としてここにいるのではない」
「ルスカの兄としてですか?」
「お前の従兄弟としてだ」
それを聞いて、サムドロスは笑い出した。おかしくてたまらないというように。
「これはこれはお優しいことを。貴方もご同類でしたか。仲がいいわけだ」
なおも笑い続ける彼にユリウスは表情を変えたりはしなかった。
「兄を信じろ」
ぴたりとサムドロスの笑いが止まった。
「過去に囚われるな。それはお前を滅ぼすだけだ。ルスカを信じてやれ」
剣呑な視線でユリウスを捉える。唇を歪めた。
「従兄弟からの訓示ですか?」
「年長者としての忠告だ」
「あの男に頼まれたのでしょう」
「サムドロス、諦めるのはまだ早い」
「話にならない。帰って下さい。これ以上お互い不快な顔をつき合わせていたくはないでしょう」
ユリウスはしばらくサムドロスの顔を見つめていたが、目を閉じると無言で立ち上がった。
そのまま踵を返し、扉の前で立ち止まる。振り返らずに口を開いた。
「……サムドロス、〝カシウス〟を知っているか?」
「……」
「第二の〝フィロラオス〟だよ」
「謎かけですか」
「もし私が〝ディオニュシオス〟だとお前が言うのならば、お前は私の〝カシウス〟になればいい」
それだけ言い残して、ユリウスは扉の外へと消えて行った。
「……カシウス?」
サムドロスは呟く。
ユリウスの言葉が引っかかった。
だが、しばらく思案した後、馬鹿らしいというように鼻で笑った。
「もう遅い……。何もかも」
気息奄奄と絶えそうな呼吸を必死に繋ぎながら、跼天蹐地して生きるのはもううんざりだ。
「どうせ死ぬなら、全て道連れにしてやる」
そうしたら、お母様はきっと僕を褒めてくれるだろう。
「陛下」
廊下で待っていたジュリアにユリウスは軽く手を上げた。
「何かが割れるような音がしたようですが…」
「大丈夫だ。よく我慢したな」
「何があっても入ってくるな、などと言われてしまえば、こちらは生きた心地がしませんでした」
ユリウスは苦笑する。
「それで、」
「明日の舞踏会には参加するそうだ」
ジュリアはユリウスを見つめた。
ユリウスはぽん、とジュリアの肩を叩いて、元来た道を戻ろうと促す。
その時、背中にかけられた声があった。
「陛下」
貴婦人が一人、廊下の真ん中に立っている。
「エリス殿…」
エリスは思いつめた表情でユリウスを見つめると、深く一礼した。
「お話したいことが…」
ちらりと、主従は顔を見合わせる。
「二人きりのほうがよろしいか?」
ユリウスの言葉に、エリスは顔を上げ、重々しく頷いた。
暗がりの中の鏡の前に、彼は立っていた。
手を伸ばし、ゆっくりと微笑を浮かべる。
「もうすぐ始まるよ、お母様」
鏡の中の少女も手を伸ばし、微笑を返した。
「うん、もうすぐさ。もうすぐ、全てが終わるから。それまで待っていてね」
――いい子ね、サムドロス
「うん、僕はいい子だ。だからまた僕に触れてくれるでしょう?」
――あなたはいい子よ、サムドロス
「僕に任せてよ、お母様。ちゃんとやってみせるから。だから、」
僕を褒めて。
僕を見て。
僕を愛して。
僕はお母様のものだ。
お母様は僕の中にいて、お母様の中に僕がいる。
僕がお母様の代わりになるから。
だから、
「ねぇ、僕を捨てないで?」
彼は扉の影からそっとその様子を窺っていた。
(サムドロス…)
鏡に向かって語りかける弟が、一体何を見ているのか、自分には分からない。
うっとりとした表情で鏡に頬擦りをしている弟に、ルスカはぎゅっと目を閉じた。
(僕に、兄だと言う資格はないのかもしれない。それでも、)
それでも君は僕の弟だから、だから、君に対して僕は兄としての責務を果たしたい。
胸の中は重苦しく、嫌な予感でいっぱいだった。
自分の弟が何かよからぬことを企んでいるのではないかという危惧はずっとあった。
遅疑逡巡した結果、それでも、それを主にはっきりと告げることが、ルスカにはできなかった。
確証があるわけではない、己の杞憂に過ぎないかもしれないのだと自分で自分に言い訳する一方で、それは職務怠慢じゃないのかと第三者に指摘されてしまえば言い訳できないということも、ルスカは分かっていた。
自分が彼のディオニュシオスになれるとは思わない。自分では弟の心を救ってやることはできないということも知っている。
それでも、最後の最後まで彼を見捨てたりしないと、そう決めてある。
(サムドロス、僕は君から逃げない)
瞼を上げて弟の姿をその目に納めると、ルスカはぎゅっと拳を握った。
「さてさて、どうなることかねぇ」
暗闇の中で、男は呟き、楽しそうに笑った。
妖冶【ようや】…美しくてなまめかしいこと。
気息奄々【きそくえんえん】…息もたえだえで今にも死にそうな様子。
跼天蹐地【きょくてんせきち】…絶えず心配して恐れている様子。高い天に頭がつくのではないかと恐れて背をかがめ、固い地面が抜け落ちはしないかと恐れて抜き足で歩くの意。
遅疑逡巡【ちぎしゅんじゅん】…あれこれ疑い迷って、決断をぐずぐずとためらうこと。