36 深まる確執
「うわああああああああああああああーー!!!」
「サムドロス様ッ!?」
突然高い声で悲鳴を上げた主人に、隣室に控えていた侍女が何事かと、サムドロスの寝室へと押しかけた。
荒い息をつきながら、サムドロスは寝台の上に起き上がっていた。
額から大粒の汗が零れ落ちる。
サムドロスは自身の身体を抱きしめながら震えていた。
「んっ、く…」
目をぎゅっと閉じれば、汗ではなく涙が零れた。
「…さ、サムドロス様、あ、あの、お水です…」
恐る恐ると侍女が差し出してきたグラスを視界に捉える。
ひどく喉が渇いていた。
そろそろと手を伸ばしかけて気がついた。
己の右手首に、誰かにつかまれたような痣がある。
鋭い氷の刃で、心臓を刺し貫かれたかと思った。
呼吸が荒い。
耳鳴りが聞こえる。
ここはどこだ?
じぶんはだれだ?
緩慢に顔を上げて捉えたのは、遠くの鏡台に映った自分。
――いや、十四歳のクリスティーナ。
「あ、ああああああああっ!!!」
サムドロスはとっさに侍女の持っていたグラスを振り払っていた。
中に入っていた水が空中に飛んで、ガシャンと音を立ててグラスが床に落ちる。
「きゃあっ!」
「サムドロス!!?」
尋常でない悲鳴を聞きつけ、部屋に入ってきたルスカは、両手で頭の毛をむしりながら奇声を発する弟に唖然とし、慌てて寝台まで駆け寄った。
「やめるんだ、サムドロスっ!」
ルスカは暴れる弟が身動きできないようにと、とっさにその両手首を捕まえた。
「……サムドロス?」
反応を返さないサムドロスに不安を覚えたルスカが、体を離して肩に手を置き、その顔を覗き込むと、サムドロスは虚ろな目で兄を見、そして己の手首に視線を戻した。
そこには、先ほど見えた指の痕はない。
ゆっくりと、目の前が開けてくる。
眉をひそめる兄、怯えた顔の女。
そして、その向こうに見える鏡には、呆然とした様子の自分の顔が映っていた。
「……お前」
おどろおどろしい声が、サムドロスの口から漏れた。
「サムドロス?」
兄を無視して、サムドロスは女に向かって手を振り上げると、バシンとその頬をぶった。
「キャアっ!」
「サムドロス、何をするんだ!」
「鏡台の遮蔽幕は取るなと言ってあっただろう!!」
驚いて床に倒れ伏した女を傲然と見下ろしながら、サムドロスは怒鳴る。
「僕の言うことが聞けないのか」
「やめろ、サムドロスっ!!」
倒れた女の腹に向かって足を踏み出そうとしているサムドロスを、ルスカが止めた。
「……あんたには関係ない、出て行け。――それとも、兄さんがその女の代わりになるかい?」
唇を歪め、醜悪な笑みをサムドロスは浮かべた。
瞳の奥で言い表せない何かがゆらゆらと揺れている。
残虐な顔。
それは父の顔にそっくりだった。
(ああ、まただ。また、戻ってしまった)
王に挨拶をしている時のサムドロスは、落ちついていたようだった。
だが、そうと思えば、途端に凶暴な彼が出てくる。
思えば、ここ最近のことだった。彼がこのように癇癖が強くなってきたのは。以前の彼は侍女に対して暴力を振るうような真似はしなった。決して、彼女達に対して友好的であったからではない。サムドロスは誰にも心を開かず、何も言わず、刃物を集めることだけに没頭し、暗い目で周囲の人間を拒絶しているような人間だった。
それでも、こんな風に積極的に人を害そうとする人間ではなかったのだ。
それがいつからか、声に出して兄である自分に憎しみをぶつけるようになった。侍女に対して折檻だと言って手を上げるようになった。そして、いつの間にかそれに愉悦さえ感じるようにまでなっていた。
こんな風に、唇を歪め、傲然と嗜虐的な笑みを浮かべたりはしなかったのだ。
父とそっくりな顔つきで。
ルスカは唇をかんで目を閉じた。
「わかった。僕が彼女の代わりになろう」
背後で震えている女に目配せして、部屋から出て行くように促した。泣き出しそうな彼女に、微笑んでみせる。
「ここはいいから」
真っ青な顔のまま侍女はこくりと頷くと、急いで部屋から出て行った。
「へぇ、優しいねぇ、僕のお兄様は」
そう言って、サムドロスは床に落ちていた硝子の破片を拾った。
それを、じっとこちらを見る兄の目の前に突きつける。
「ああ、その目だよ。僕の大嫌いな目だ。病で気が触れた弟を憐れむ目。あんたはいいよね。健康な体を持って、自分より弱い者をそうやって見下ろせるんだから」
「……どうしたら君は楽になる」
「あんたがこの世から消えてくれたら少しは楽になるかもね」
「……僕には、君を理解することはできないのか?」
すっと、サムドロスの顔から表情が消えた。
「――貴方に分かりますか。ただ、何もせず息をしているだけの苦しみが。己が何のために在るか自問自答を繰り返し、それでもその答えを見つけることができずただただ無為に生き続けていくことしかできない絶望が」
それは静かな声だった。
持っていた硝子の破片が地に落ちて、カシャンと軽い音を立てた。
「サムドロス?」
引き攣った嗤いが青白い顔に浮かんだ、と、思ったら、サムドロスは口を押さえて、顔を伏せた。
ゴボッといやな音を立てて、その口から真っ赤な血反吐が吐き出される。
「サムドロスッ!!」
ルスカは慌ててしゃがみこんで弟の背をなでた。
苦しげにその背は震えていた。
「……あ…」
「しゃべるんじゃない!」
誰かっ!! と焦ったルスカの声を遠くのことのように聞きながら、己の手の平にへばりついた真っ赤な血をサムドロスは凝視した。
血。
血だ。
どす黒く紅い血。
唯一、己の存在意義を求められるもの。
そして、憎悪を媒介し連鎖させるもの。
――『血で繋がった憎しみは途切れない』――
ばたんっと大きな音を立てて部屋の扉が開いた。
「ルスカっ!!?」
「お、お母様っ!!?」
たった今しがた到着したばかりという風情の母に息子は目を見開いた。
なんでここに、という彼の言葉を聞く前に、彼の前でぐったりとしているサムドロスを見ると、エリスは顔色を変える。顔を青ざめさせ、ぎゅっと胸の前で両手を握り締めた。
「……だっ、誰か、誰か、侍医を!!」
慌てふためく二人分の声を、サムドロスは煩わしいと思いながら、再び遠ざかっていく意識の中で聞いていた。
『いつ目覚めるかは分かりませんが、目覚めたとしてもしばらくは安静です。舞踏会には出られないほうがよろしいでしょう』
寝台に横たわり目を閉じたままのサムドロスの蒼い顔を、薄暗い室内でルスカは見つめていた。
昏睡状態が続いているその寝顔に苦痛の色が見えないのが、せめてもの救いだった。
ルスカはうつむき、くしゃりと己の前髪を握りつぶした。
何をやっているんだ、僕は。己の弟一人、救うことができないのか。
――『貴方に分かりますか。ただ、何もせず息をしているだけの苦しみが。己が何のために在るか自問自答を繰り返し、それでもその答えを見つけることができずただただ無為に生き続けていくことしかできない絶望が』
あれはきっと、サムドロスの真情だった。
『分かるさ。僕だって、仮初めの玉座に座り続けることが、どれだけ苦痛であったか』
そう言えればよかっただろうか。
だが、それは決して言ってはいけない言葉だった。
その言葉で救われるのは、他ならぬ自分の心だけだったから。
王の純臣になることに必死で、弟の存在を顧みることをしなかったのは自分だ。
気がついた時には遅かった。
サムドロスは誰からも心を閉ざし、暗闇の中に安寧を求めるような人間になっていた。あの時、自分が彼に手を差し伸べていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
「……兄なんて言う資格は、僕にはない」
自分が王の従僕となった十七の時、弟は十歳だった。
思えば、彼の周囲に彼と向き合ってくれる人間が一人でもいただろうか。
南領公として二十四の年にアトス城を去る時には、サムドロスは自分が王の従僕として働き始めた年と同じ年になっていた。十歳から十七歳までの人生の中で最も多感なその時期を、サムドロスがどのように過ごしていたのかを、何を感じて生きてきたのかを、自分は何も知らないのだ。
あの頃はただ、自分のことだけに必死で、がむしゃらに前に突き進むことだけを考えていたから。
「……いや、ちがう」
本当にそうだっただろうか。
自分は忙しさにかまけた振りをして、サムドロスを避けていただけではないか? 父の罪の証である、自分の異母弟を見ることが、怖かったから。
多事多端を言い訳にして、そうやって、弟から目を逸らした。そうではないとどうして言えるだろう。自分はかつて同じことをしたではないか。
あの時は、己の無力を言い訳にして……
サムドロスの痩せた頬と濃いくまの中でぎらつく目が、かつて見た、殺気立って王城に押し寄せてきた民の姿と重なった。
ふと、王の言葉を思い出した。
――『ルスカ、人を治める者は、まず、自分の治める民の暮らしや現状を把握しなくてはならない。当たり前のことだと思うかもしれないが、真に人を治められる人間とは、それら無告の民の多くの心の声を聞き漏らすことなく、彼らの苦しみを己の苦しみとすることのできる者だ』
だが、自分には弟が何を望んでいるのかが、分からない。
自分はサムドロスの声を聞き逃すことなく、彼の心の声に耳を傾けていたか?
そう省みて、ルスカは唇をかんだ。
答えは、否、だ。
民に対して罪を償いたいと思って必死になってきた結果がこれだとしたら、自分はなんて間抜けだろうか。
己の行いが、何一つ報われていないのではないかという、思考が浮かび上がってきてルスカは恐ろしくなった。
サムドロスは彼らと同じなのだ。日々の生活の中で擦り切れて、どうしようもなく飢えていた彼らと。
「……最低だ」
同じことを繰り返している。
目をつぶれば、赤子をなくして首を吊った女が嗤っている気がした。
「――ルスカ」
己を呼ぶ声にはっとして、ルスカは振り返った。
背後にある扉の隙間から漏れる明かりが、暗い室内の中にこもった闇を緩和していた。
いつの間にか後ろに立っていた細身の女の姿に、ルスカはそっと嘆息するように声を落とした。
「……お母様」
「ひどい顔色よ。あなたももう休みなさい」
「いいえ、僕は平気です」
「あなたまで倒れたらどうするのです」
「……」
そっと肩に手を置かれ、ルスカは母から視線を逸らし、うつむいた。
ほんのりと肩を温める小さな手の感触を、今は素直に受け入れられない。
「何故、お母様がここにいるのです?」
「……あなたは私に、サムドロスを連れて行くとは言わなかったわね」
「彼のことを口にするなと言ったのは貴女ではありませんか」
「……」
エリスはそっと息子の肩から手を外した。
「違いますか」
「怒っているの?」
「僕が怒っているとしたら、ふがいない自分自身に対してだ」
「……悪い癖ね」
「……」
「あなたは私を責めてもいいのよ」
ぎくりとルスカの肩が震えた。
「……なぜです」
「言わなくても分かっているでしょう」
「……お母様は、」
「私はこの子が怖い」
ルスカの言葉を遮って、エリスは言った。
「怖いのよ」
聞いたことがないようなまるで無感動なその声に、ルスカは息を呑む。
「……私はこの子を正視することが、どうしても、できない」
ルスカは母に背を向けてうつむいたまま、背後を振り返ることがどうしてもできなかった。
母親の顔は絵の中でしか知らない。
彼女は自分が三歳の時に死んだから。
だが、自分とよく似た面差しをしているということは周りの反応で嫌というほど知っていた。それはつまり、鏡に映した己を見れば、それが母の顔だということだった。
鏡の中の母はいつも冷めた表情をしていた。
青白い肌、薄い金の髪、尖った顎、細い鼻梁、薄い唇、鉛灰色の目。
――ドリー、私のドリー
父の声はそう言いながら、その目はこう言っていた。
――ティーナ、私のティーナ
鏡の中の母を見るたび、ヒヤリとしたものを感じた。
ただ無言で見つめ返してくる顔は、とても母親が我が子に向けるものではない。
暗い闇の中に、父の妄執を見る度、鏡の前に立って確かめていた。
――ドリー、私のドリー
聞こえてくる、聞こえないはずの幻聴は、こうささやく。
――ティーナ、私のティーナ
僕は鏡の中の自分、いや十七歳の少女クリスティーナに向かって手を伸ばす。
じっと見つめる灰色は冷たく、鏡の向こうから自分に向かって伸ばされた手はまるで何かを命じるよう。
――滅んでしまえ
『滅んでしまえ、王家など』
僕は彼女が言いたい言葉を彼女の代わりに紡いであげる。
――亡びてしまえばいい 全て
『王家の血など絶えてしまえばいい』
――許さないわ 私から全てを奪ったその血を、私は決して許さない
分かったよ、お母様、全て僕が壊してあげる
絶えてしまえばいいのだ、呪われたこんな血は
お母様の憎しみは僕が晴らしてあげるから
お母様の血を受け継いだ僕が、お母様から貰った憎しみを晴らしてあげる
全て、全て、全て、全て、全て、全て、全て、全て、全て、全て、
亡びてしまえばいい
――いい子ね、サムドロス
優しい手つきで、母が頬をなでる。
夢の中で触れてくれた母の手に、サムドロスは歓喜の涙を零した。
大きく抗うことのできない闇に呑み込まれていく倦怠感と、安堵感。
すっかり浸ってしまえば、そこにはもう闇に対する恐怖はない。
光が見えるから怖いのだ。
光の中から見る闇が怖いように、闇の中から見る光が怖いように。
光の届かない闇の底にまで堕ちてしまえば、そこにあるのは、言いようもない安心だけだった。
まるで母の胎内で守られているような。
今、自分は母の中に守られている。
闇の中から見る母の顔は、ずっと優しかった。
「サムドロス!」
翌朝、寝台から離れて窓辺に立っている弟を見つけたルスカは驚きの声を発した。
「何をしているんだ、いつ意識が戻った? いや、そんなことより寝てなくてはダメだ!」
慌てて捲くし立てるルスカを、サムドロスはゆっくり振り返って見つめた。
「平気です。起きたら驚くくらい気分がいいんですよ」
「ルスカ?」
その時、エリスがその部屋に入ってきた。
「いったい、どうした……」
そこで立っているサムドロスを見て、彼女ははっと息を呑む。
「ああ、エリス様、そういえば僕が倒れた時にもいらしたようでしたね」
「あ、なた…」
かすれた声で固まってしまったエリスにサムドロスは唇の端を上げる。
エリスは顔を青ざめさせた。
「ご心配をかけたようで申し訳ありません」
サムドロスは、嗤った。
「僕はあなたを責めたりしませんよ。そんなに怖がっていただかなくても、あなたに噛み付いたりしませんから安心してください」
多事多端【たじたたん】…仕事が多くて非常に忙しいこと。