35 現実と幻影の狭間
「舞踏会まで日がないな」
そう言いながら経過報告のため宮城へと足を進めていたドリスは、思わぬところで大柄の熟年騎士を見つけ声をかけた。
「カッター少将殿」
「ああ、君か。ちょうどよかった、君の上官はどこかね?」
「……隊長、ですか?」
どうやらまだ懲りていないらしい。相当な執念深さだ。歓迎できる相手ではない。面倒事はごめんだ。
頭の中に浮かんだ思考に従って、ドリスは躊躇なく口を滑らせた。
「彼は今ちょっと手を離せない状態でして…面会は難しいと思いますが」
「そうか、それは残念だな」
由ありげに笑うカッターにドリスは小さく眉をひそめる。
先日、いきり立って親衛隊隊長の執務室に押しかけてきた男の面影はそこには無かった。
余裕のある様子で見つめ返してくるその瞳の中に、勝ち誇ったかのようにこちらを見下す色を見つけ、どこかで見た色だな、と、ドリスは思った。
(これは何かあったな……)
ドリスはさらりとした笑みをその顔に浮かべた。
「なんでしたら、言付かりましょうか。どういった用件です?」
どっちにしろ、この男をジュリアに会わせるのは得策ではない。だが。
「いやいや、構わんよ。ああ、そうだ。君の所の隊長さんは、舞踏会に出るのかね?」
「……王の身辺に侍する予定ですが」
「…そうか。じゃあ、その時にでも挨拶することにしよう。ぜひとも紹介したい人物がいるのでね」
あっさりと背を向けて帰ろうとするカッターに、ドリスは不審を募らせた。
殊更世間話をするような口調で、続ける。
「紹介したい人物? 誰でしょう。きれいな女性ならぜひとも私にも紹介してほしいですね」
「何、それはお楽しみさ。君もあの上司に命じられていろいろと忙しいのだろう。職務に戻ってくれ。その頑張りが、無駄にならないことを影ながら祈ってるよ」
先ほどから穏やかな言葉とは裏腹に、その端々には皮肉と嘲りが込められている。
自分の優位を疑っていないという視線と言葉。
ああ、そうだ、とドリスは思い出した。武闘大会の決勝で相手をした男がこんな顔をしていた。
その彼は脅迫事件の被疑者から一転して殺人事件の被害者になってしまったらしいが、血を吐きながら苦痛の中で死んでいったとジュリアが言っていたか。
――『死にたくないと言って死んでいった』
淡々と発せられたその言葉に静かな怒りをドリスは感じ取った。
同時に王が昔言っていた言葉を思い出す。
『等しく生命の重さを理解できぬ者に、人を護る資格はない』
ジュリアは彼の敬愛する王の言葉に最も忠実に傾倒している男だ。
命の選択をしたとしても、それは決して選ばれなかった命が軽いからではない。他の命を切り捨てるその重さを、自分の中に背負い込む強さを持てと、王は言っている。
生命の重さを背負いながら生きろ。
生きるとはすべからく、そういうことだと。
その教えを胸に刻み込んでいるジュリアの前で、目の前の男は〝生きている価値も無いクズ〟発言をしたという。
ジュリアに共感するわけではないが、めったに人を嫌うことをしない相棒がこの男を厭うのは分かった。
「少将殿、一つ忠告しておきますがね」
ふてぶてしい口調に変わったそれに幾分眉をひそめながら、カッターは背中越しにドリスを振り返る。
「あまり、舐めたことしてあいつを怒らせないほうが身のためですよ」
「何?」
「柔和なるは弱きにあらず、ってね。俺は貴方のために、キレたジュリアの前に飛び出す気は毛頭ありませんから」
「!」
目を怒らせた男に、ドリスはきれいに笑って見せる。
「口が滑りました、失礼。ですが、外面で人を判断することは止めたほうがいい。俺のような口が悪い者でも、王の側近にはなれるんですよ。陛下は人の本質を見抜くことに長けていますから。貴方は根本的に陛下を信頼していらっしゃらないようですがね」
あまりといえばあまりな言い草に呆然としているカッターに、にこやかな笑みを返してドリスはその場から去っていった。
「クソッ」
サムドロスは来た時同様、眉間に深いしわを刻みながらもと来た道を歩いていた。
部屋を出てから、苛々は募るばかりだ。
何故、先ほど自分はもっと罵声を浴びせなかったのだろう。いつもの自分なら、手近にあったものを投げつけるぐらいはしていたはずだ。
気に入らない。
知ったような口を自分に対して利いたことがまず気に入らないし、いきなり窓を開け放つなど無礼以外の何物でもない。今でも、光の残滓がちかちかと目の奥でこだましている。
じくりと、胸の奥で苦いものが広がった。
気に入らない。
何が一番気に入らないといって、先ほどの黒ずくめの言葉に自分が少なからず動揺していることだ。何故もっと残虐な言葉を吐き捨ててこなかったのだろう、返す返すも悔やまれる。
まるで逃げるように部屋を後にしてきた自分の姿が、彼の自尊心を傷つけた。
(何が分かる)
――分かります
あまりにあっさりとそう返されて、反発心が削がれたのだ。
「あんな下賎の者に、僕のことが分かるわけがない」
そもそも、何で自分は見ず知らずの、しかも今考えれば思い切り怪しい人物に対して、あんな話をしてしまったのか。
そう考えて、ピタリと止まった。
「何故だ?」
自分を迎えに来たと思った死神に、予想に反して助けられてしまったからか。
「ばかばかしい」
何故、自分は裏切られたような気分になっている。
「同情して欲しかったって言うのか?」
サムドロスは嘲笑した。
自分の一番嫌いなものではないか。どうかしている。そうだ、さっきの自分はどうかしていたのだ。
ただ、何故だろう、あの誰とも知らぬ不審人物になら話してもいい気がしてしまったのだ。
「くだらない」
サムドロスは自分の考えを否定するかのように首を振った。その時、
「サムドロス!」
己を呼ぶ兄である男の声に、やはりサムドロスは大きく舌打ちして、振り返った。
だが、その背後にうっすらと見覚えのある大柄な男を発見して、彼は目の色を変える。
「心配したよ。体の具合は大丈夫なの?」
緊張した面持ちで自分の様子を窺ってくる異母兄を胸中で唾棄しながら、サムドロスはその視線を後ろの男に向けた。
「兄さん、こちらは…」
「こちらは、国王陛下だ」
サムドロスはじっとその男を見つめた。
「サムドロス、気分はどうだ」
真っ直ぐ揺るがない視線がサムドロスを捉える。
自分と王の間に立って緊張を強くしたルスカの横で、サムドロスはゆっくりとその場に腰を落とした。
「過分なお言葉痛み入ります。本来なら私の方からご挨拶に伺うべきでしたところを、このような対面になってしまったこと深くお詫び申し上げます。おかげさまで、ようやく寝台から離れられるようになりました。国王陛下にあらせられましては御健勝のこと、拙も憚りながらお慶び申し上げますと共に、この度はかような弱輩者までお招きに与らせていただき、陛下の寛大なる心に、深甚なる謝意を表する所存でございます」
恭順に頭を下げてそれらの言葉を発した弟の姿に、ルスカは唖然として息を呑み込んだ。
「…それは重畳。面を上げよ」
顔を上げようとして、サムドロスはユリウスの背後にちらつく人影に目を細めた。
「……」
その視線に気がついたユリウスは苦笑しながら、そっと己の後ろに隠れていた少女を引っ張り出す。
「娘のリリアだ。初めてだったな」
リリアは彼女にしては珍しく、ぎこちない笑みを浮かべた。
「初めまして、おじ様」
「……おじ様?」
「ルスカおじ様のこともおじ様って呼んでいるの。ええっと、父様の弟みたいなものだから。でも、おじ様ではかわいそうかしら。二人ともとても若く見えるから…お兄様のほうがいい?」
一瞬間の後、サムドロスはきれいな笑みをその面に浮かべた。
もともと女顔の彼がそのように微笑めば、えも言われぬ艶がある。
「お好きなようにお呼びくださって結構です、殿下」
リリアはその笑みにほっとしたように、続けた。
「じゃあ、お兄様にします。そっちの方がしっくりくるし、おじ様と区別できるもの。私のことはリリアと名前で呼んでね」
「わかりました、リリア様」
サムドロスは惜しげなく頭を下げてそう言った。
「サムドロス!」
うるさく部屋まで付いてこようとする異母兄を気分が悪いと追い払って、サムドロスは寝台の上へと倒れこんだ。
(……疲れた)
全身からどっと力が抜けて、もう身を起こすこともできない。
先ほどまで一緒にいた国王の顔を思い出していた。
(……あれが、国王ユリウス…。王族の異端児…)
王家の血を継ぎながら、その血を否定し、王の系譜に連なる同族をも王族から市民へと放逐した彼は、まさしく王家にとっての異端だったに違いない。
だが、さすが一国の王だ。
浩然とした態度に真っ直ぐな視線。
あの男は自分にないものを全て持っている。
そこで、自分が持っているものは一体なんだと自問して、サムドロスは嗤った。
己が持っているのは、この使い物にならない体と、幼い頃からの疾病、そしてこの血、それだけだ。
そう、この血。
己が唯一誇ることができるもの。
誰にも侵すことのできない、至高の血脈。
あの男が持つものは全て自分のものであるはずだ。
――『貴方こそがマダリアの正統な継承者。貴方の血は誰よりも高貴で、尊いものです。サムドロス様』
「そうだ、僕こそが正統なこの国の王……」
ドクン。
血が滾る。
サムドロスは寝台脇の引き出しの鍵を開けると、その中に入っていた小瓶を取り出し、その中身を口に含むと、目を閉じた。
暗い暗い闇の淵からゆっくりと浮かび上がってくるものがある。
深淵から浮かび上がってきたそれは、横たわったままの身体にへばりつく。
干からびた砂が水を吸収してどんどん重たくなっていくように、乾いてからからになった心に冷たく忍び寄ってくるそれが体中を侵して、重力を加速させていく。
麻酔をかけられたかのように、身体の感覚がなくなっていって、じわじわと手足の先から蝕まれていくような感覚。
ゆっくりゆっくり、堕ちていく。
誰の声も届かない、深い深い闇の淵へ。
――貴方はなんの畏憚なく太陽の恩恵を享受できる人だ
闇の中へと落ちていく意識の中で、心の湖面にぽつりと落ちてきて小さな円を描いて消えたのは、何故かその静かな声だった。
夢を見る。
――ドリー、私のドリー
昔の夢。
――カワイソウニ
物心のつかない幼い頃、寝台に横たわりながら、母のことを尋ねると、周りの大人達はいつも気まずげに視線を逸らすか、あからさまな同情の眼差しを寄越した。
唯一、その問いに答えてくれた父は、馬鹿の一つ覚えのように繰り返すだけだった。
『お前の母は美しかった。まるで妖精のように透明で、肌は透き通るように白かった』
けれど、自分はそんな言葉が欲しかったのではない。
苦しい闘病生活の中で自分が望んだのは、母の優しい手だった。
全身に走る悪寒。
頭の中を槌でガンガン叩かれているかのような頭痛。
疲れきった体は睡眠を求めているのに、体の節々で悲鳴を上げる疼痛で、それさえもままならない。
浅い眠りに落ちかけても、はかったように喀血が続く。
血痰が喉に張り付いて息ができない時の恐怖と混乱。
苦しくて、苦しくて、心細くて、ただ、恐ろしかった。
その苦しみから、母なら自分を助けてくれるのではないか、そう信じていたのだ、あの頃の自分は。
瞼を上げることでさえ億劫で、息を吸って吐くことがこんなにも困難で、まんじりとすることもできず、苦痛の中をさまよっている時、そっと顔に浮かんだ汗をふき取ってくれた優しい手があった。
熱のせいで目の周りが熱く、悲しくもないのに涙が出てきて、ぼやける視界の中、冷たい手が目の上を覆ってくれただけで、随分楽になった。
この女は誰だろう。
彼女は何も言わない。ただ静かに自分の側にいて、自分の世話をしてくれた。
ああ、きっとお母様だ。これは、お母様の手だ。
そう思ったら、驚くほど安らかに眠りに落ちていくことができた。
けれど、それは朦朧とする意識の中で見た、幻覚だった。
母が自分に会いに来てくれたという子供の戯言を信じてくれる者などいるわけがなかった。母親恋しさに見た夢の中の幻だろう、と。
『クリスティーナ様がこの子に触れたりするわけないものね』
その言葉の意味をあの頃の自分は理解してはいなかった。
冷たい肖像画の中の少女と対面したのは、それからすぐ後のことだったように思う。
『ドリー、お前はお前の母に似て美しい』
『お前は美しい、ドリー。クリスティーナにそっくりだ』
『早く大きくおなり。そしてずっと私の傍にいておくれ』
まもなく父の執着が始まった。
彼は医者と一部の世話係を除いて、息子の周りに人を置くことを好まなかった。
誰にも見せず、誰にも近寄らせず、自分だけを見て、自分だけにさえずればいい。
時には医者にまで妬心をあらわにし、助けを求め縋ろうとする小さな手から、治療を施そうとするその手を遠ざけようとした。
――ドリー、私のドリー
男がいる。
その男は自分の家族を殺し、自分から全てを奪った男だ。
『お前は私のものだ。ただ私の傍にあればいい。お前の帰る場所などもうないのだから』
――ひどい
『さぁ、そのかわいい顔を見せておくれ』
――いや、誰か助けて
『クリスティーナ、お前は美しい』
――やめて、誰か助けて、一体私が何をしたというの!?
かさかさに骨ばった男の手が、白く細い手首を捕らえた。
『さぁ、私のためだけに啼いてくれ』
――いやああああああああっ!!!!
強引に引き裂かれる痛みと同時に、甲高い声が空気を切り裂いた。
由ありげ【よしありげ】…わけのありそうな様子。
傾倒【けいとう】…ある人や物事に心を傾けて熱中すること。
重畳【ちょうじょう】…この上もなく満足であること。
浩然【こうぜん】…心などが広くゆったりしているさま。




