31 兄弟の契り・後編
ユリウスは手酌で酒を舐めながら、視線でルスカにも勧めたが、ルスカは固まってしまったように杯を持ったまま動かなかった。
じっと、杯中の液体を見つめている。
今までルスカは自分の父親について、客観的な視点からしか言及したことがなかった。ルスカにとって父とは、他人と共に思い出話に興じられる類の人間ではなかったからだ。むしろ、周囲は彼の前で彼の父親の話をすることを憚った。
ユリウスは固まったままのルスカを眺めながら続けた。
『正直に言おう。こんな言い方はなんだが、お前は私にとって思いがけない〝掘り出し物〟になった。だが、ずっと解せなかったのだ』
『……あの父に、僕のような子供が生まれたことがですか?』
押し殺したような声が落ちた。
ルスカの父を知る者は皆、今のルスカを見て、まるで正反対の親子だと口々にそう言う。
『いや、問題なのは、お前の周りの環境だったはずだ。人の人格形成は周囲の環境によって大きく左右される。どうしてお前はあの場所にいて染まらずにいられた?』
『それは、最初に陛下が父のことを訊いた時点で、既に察しがついているのではないのですか…』
『お前の口から聞きたい』
杯を持つルスカの手が震えた。
『……僕は、父を好きにはなれませんでした』
そう言った後、彼はぐいっと杯の中身を呷った。
熱の元が喉を通って胸に落ち、くらりと頭にまで回る。それに勢いをつけたのか、ルスカは続けた。
『別に、ひどく虐げられていたとかそういうことではありませんが、特別な愛情を持って接してもらった記憶もありません。ただ…』
『ただ?』
空になった杯に酒を注ぎながら、ユリウスは先を促す。
『父が、母に対して声を荒げてすげなくするのが、僕はとても嫌だった』
『……そうか』
そう言ってしばらくは、ユリウスがルスカの杯に酒を注ぐ音と、ルスカがそれを嚥下する音だけが、大広間に響いていた。
『……六歳の時だったと思います。母が父に何か言ったことに対し、父が母の頬をぶちました』
唐突に始めたルスカに、ユリウスはさして驚くこともなく、続けた。
『…六歳?』
『たぶん、僕の即位が決まった時に前後するのだと思います。戴冠式の日に母の頬はひどく腫れていて、民衆の前に姿を現すことができなかった。僕は大歓声を上げる大衆に反して、ひどく憂え顔の母の姿がとても印象的で……、今でもよく覚えている。
僕はあの時、自分の周りで起こっていることを少しも把握できてはいませんでしたが、後ろにひっそりと控えている母を何度も振り返っては、母の悲しげな微笑に泣きたくなりました。ただ怖かった。何度も母の元に駆け寄りたいとそう思ったけれど、それは隣で僕の肩に手を置く父のためにできませんでした。僕はあの時自分の横で、母のことなどまるで意に介することなく、民に対して誇らしげに手を振っている父が不思議で仕方がなかった』
『エリス殿はお前の即位には反対だったということか?』
『……反対というよりは、漠然と危惧していたと言った方が正しいのかもしれません。母の目から見ても、城の中が正常に機能しているようには思えなかったのでしょう。手放しで喜ぶことよりも、不安が先立ったのだと思います。まだ六歳でしかない息子が一国の王として即位するという事態に、そしてその周囲に自分が心から信頼できるような人間がいないという状況に……』
ルスカはこくりと杯の中身を飲み干した。
酒が程よく回っているのかその目は熱く、潤んでいる。
『……母は父に意見することなどほとんどなかった。彼女が父に何か言う時は、決まって僕に関する時だけでした。そして、その度に母は父に怒鳴られるか何かしていたと思います。幼心に、自分のせいで母が父によっていびられていると感じて、僕はいつもいたたまれなくて…、けれど父から母を守ることもできず、僕はただ声を上げて泣くことしかできませんでした……。そしてそんな僕を抱きしめてあやしてくれるのはいつもお母様だった。……そんな自分が情けなくて、悲しくて、ただ、わけも分からず……、僕はあの頃周りの全てが恐ろしくてたまらなかった』
『……伯父は、お前に対してつらく当たることはなかったのか?』
『彼は、子供が好きにはなれないようでした。というより、父は、子供がそのまま大人になったような人でしたから……。機嫌のいい時は気まぐれに話しかけたり物をくれる時はありましたが、そうでない時は一顧だにしなかった。ちらりと目が合ったとしても、ただそこにあるものという程度の認識しかないようでした。父にとって僕とはその程度の存在だったのだと思います。
僕が父から暴力を受けたことがなかったのは、彼が不機嫌な時は決して母が僕を父の前に引き出そうとしなかったからでしょう。母には、〝お父様には絶対逆らってはいけません〟とそう口癖のように言われていました』
『……』
『……父が度々起こす癇癪に母はただ黙って堪えていました。僕は父が母に対して愛情を持って優しくしている所など、ほとんど見た覚えがありません。
父は酒乱の気があり、色欲も強かった。どこか知らない所に自分と腹違いの兄弟がいたとしても、僕は驚かないでしょう。父親に認知されることもなかった自分の兄弟姉妹が何人いるのか、僕は知らない…。
けれど、そんな中で唯一の例外がサムドロスだった…』
ユリウスの顔が難しげにしかめられた。
『……クリスティーナと言ったか』
ルスカは無言で頷き、しばらくの間重い沈黙が流れた。
新たになった杯の中の酒を見つめながら、ルスカは言った。
『……ある時、父はこう言いました。直に玉座はサムドロスのものになると』
ピクリと、ユリウスの眉宇が上がった。
『そして、こう続けたんです。お前が今王位についているのも所詮は、飾り物としてだ。己が父より偉いのだなどと思うなよ、と。そう言って、執政が父に告げたらしい言葉をそのまま僕の目の前で、自慢げに開陳して見せました』
――自ら王になどならなくとも、自分の子供を王に据えればいい。そうすれば、王の父親という名目のもと、城での実権を握ることができる。煩わしい政務は息子に任せ、好きな時にその権力を使えるのだ
『その時、ひどく漠然としてでしたが、僕は己のいる宮中の構造を悟ったような気がしました』
『……いくつの時だ』
『……十一の時だったと思います』
『……なるほど』
ルスカはまた一息に酒を呷り、それから空笑いのような苦笑をこぼした。
『さすがの執政も、父が直接自分の子にそんなことを言うほど愚かだとは思っていなかったようです。まぁ、あの時父はかなりよっぱらっているようでしたが。
ですが、その時、ずっと違和感があった自分の立場の、その理由を僕は見つけた気がしました。そして、今までよりずっと鮮明に自分の周囲が見えるようになった…。自分が執政の操り人形に過ぎないのだと気がつくのに、そう時間はかからなかったと思います。執政にとって誤算だったのは、父のサムドロスに対する執着でしょう』
ユリウスは無言でルスカの杯の中に酒を注いだ。
『愉快なのが、父が彼自身でさえも執政の手の平の上で踊らされているという事実に、気付いていなかったことだ』
だが、そう言うルスカの顔はちっとも愉快そうではなかった。引き攣った口元は嘲笑というよりも、苦虫を噛み潰したような苦しい笑みだ。
『――皮肉なことに、僕が自分の立場をいち早く理解できたのは、父のその言葉のおかげでした』
『……お前は、父親を嫌っていたか?』
『……どうでしょう?』
ルスカはひどく困ったように、複雑な色の表情を浮かべた。
『好きにはなれなかった。彼が母にひどくする時はどうして父は母様に優しくしてくれないのだろうと、ただ悲しかった。そして、同時にとても怖かった。
僕にとって父は恐怖の対象でした。たぶん、父に対して慕わしいという感情を抱いたことは、一度もありません。……父が死んだ時も、僕は、涙一つ流すことができなかったから……』
杯の中で酒が微かに震えた。
『……憎しみを抱いたことは?』
ルスカはしばらく沈黙した後、静かに首を振った。
『なんて言うか、あの頃の父は僕にとって予測できない天災と一緒でした。ただ、震えてその嵐が行過ぎるのを祈って待っていることしかできなかった。それに僕はあの頃、誰かに対して憎悪というような強い感情を抱くことでさえ恐ろしかったんです。僕はびくびくと怯えてばかりの子供でした。世界はまるで恐ろしいことばかりだと思い込んでいた。その最たるものが僕にとっては父でした。けれど…』
『けれど?』
『父のようにだけはなりたくないと、それだけはずっと思っていました』
『……』
『先ほどの答えがこれです。僕は父を恐れ忌避していた。故に、彼と同じ血を引いている自分でさえも、僕は恐れました。いつか自分も父のように母を虐げるような人間になってしまうのではないか、それは強迫観念となって幼かった僕の心を苛めた。父と同じ血が自分の体をじわじわと毒のように蝕んでいっていつか自分を父のような人間に変えてしまうのではないかと、そんな想像ばかりが頭の中に浮かんでいました。
その度に僕は強烈に思った。父と同じ人間にだけはなりたくないと。そして、僕は父とは正反対であることを己に望んだんです』
『反発心というよりは恐怖心から、ということか?』
ルスカは赤い顔に苦い色を乗せて言った。
『いつだって、僕の原動力は臆病な自分の恐怖心でした』
ユリウスもお前らしいと苦笑を返す。
ルスカはいつしか膝を崩し、ユリウスに酒を注ぎながら答えた。
『今の自分ができたのは、皮肉なことに、父のおかげと言えるのかもしれません。僕は父と全くの正反対であることで、自分を支えようとしていたんです。
僕は潔癖であることを己に求めまたした。父の所業には、息子の僕でも目を背けたくなるものが多かった。驕奢淫逸に耽る父の姿を見るたび、僕は、父のようにはならないと、自分に固く言い聞かせ続けてきました。臆病な僕の、父に対する過敏な拒絶反応が、僕という人間の人格形成のもとになったと言っても過言ではないかもしれません』
『……なるほどな。だから、お前は絶望したのか』
『…ええ、そうです。自分も所詮父と同じではないかと気がついたあの時、僕は絶望した。それは自分という人間のよすがを失ったに等しかったから。そして、僕は自分の本質を知った』
『恐れることは罪ではないと言っただろう。真に勇気のある人間には臆病な心も必要だとも。少なくとも、ルスカ、お前は自分の弱さを知っている。それはお前の財産だ。己の弱さに直面したことのない者に、本当の強さなど得られない。己の弱さを見つめその絶望から這い上がることができたお前は、もはや柔弱な人間ではないよ』
ルスカはくしゃりと笑って、酒杯を呷る。
『貴方のそれらの言葉が、どれだけ僕を救ってくれているか…やっぱり、陛下はすごい人だなぁ』
酔いが回ってきたらしく、そんな感想を漏らしながらルスカはふふふと笑った。
そんなルスカにユリウスも苦笑いしながら言った。
『陛下はよせ。酒がまずくなる』
『…では、なんと呼べば?』
『私はお前を弟のように思っているんだがな』
その言葉に、びっくりとしたようにルスカは目を見開いて、ユリウスを見た。
呆気に取られて自分を見るルスカに気づきながらも、ユリウスは瞼を閉じうっすらと微笑みながら自分の口元に杯を運ぶ。
『……酔いが醒めてしまいました』
『そんなに強烈な殺し文句だったか? 従兄弟も兄弟もさして変わらんだろう』
瞼を開いた先に見えたルスカの顔は何故か先程より赤くなって見える。
からかう口調の主に、ルスカは己の顔を片手で覆った。
『……兄とお呼びしてもいいのだと、そう、とっても構わないのですか?』
『構わん』
『……お兄様?』
『硬いな』
ユリウスは苦笑する。
『何なら呼び捨てでも構わんが、お前にはちょっと無理か』
案の定、ルスカはものすごい勢いで首を振っている。
『とにかく、様付けは止めてくれ』
『兄上……?』
苦笑を通り越してユリウスは呆れた。
『もっとくだけていい。お前にとって一番親しみやすい呼び方は?』
『………………兄さん?』
躊躇し躊躇しおそるおそると言ったルスカにユリウスは笑う。
『妥当だな。では、義兄弟の契りに、固めの盃でも交わしておくか?』
ルスカは感極まって、顔が歪んでしまうのを堪え切れず、頭を下げた。
ユリウスは自分とルスカの杯に新しく酒を注ぎながら続ける。
『…なぁ、ルスカ』
とくとくと透明な液体が満たされていく音が途絶えると、主の静かな問いが聞こえた。
『今でも伯父のことを恐ろしいと思っているか?』
『……』
ゆっくりと首を振って少し溜めてから、おもむろにルスカは口を開いた。
『……今は、父はとても哀れな人だったのかもしれないと思っています。
彼は全く唾棄すべき人間だった。己の血だけを信じ、己の蒙に気づくことさえできなかったあの人は、人の形をしていたが人間ではありませんでした。…ですが、彼をそうしたのが何であったかと問われた時、全てが父一人の責任とすることもできないような気が、僕はするんです』
『…そうか』
そう言って、ユリウスはルスカに杯を持つよう促した。
『……お前にとって、伯父は父と呼べる存在ではなかったかもしれない。それでも彼はお前の父親としてここにいた。お前が今言った言葉とその事実だけは、忘れないでいてやることだ。それが伯父に対する、父の死に涙を流せなかったという息子であるお前からの、唯一の手向けとなるだろう』
その言葉を噛み締めるように、ルスカは目を閉じる。
『……はい』
二つの杯がかちんとぶつかった。
『過去が重くなる時は、私が兄としてお前の言葉を聞いてやる。だから変に気負わずに、お前はお前ができることをしろ。無理に自分を殺そうとするなよ。
…お前は、私の弟として、私の純臣となってくれればいい』
深く、重い声だった。
ぽとりと、ルスカの持つ酒杯の中に落ちるものがあった。
『……貴方に出会えた僕は……、本当に、世界で一番の、果報者です……』
眉宇【びう】…まゆのあたり。
驕奢淫逸【きょうしゃいんいつ】…ほしいままおごってぜいたくをし、人道にもとったみだらな行いをすること。
蒙【もう】…無知なこと。