28 王の教え
そうして、先王ルスカノウスは現王ユリウスの従僕となった。
王の後ろを金魚の糞のごとくについて回る彼を、媚を売っていると唾棄する者もいたし、王から臣下へと降下した彼をあからさまに蔑む者もいた。
特に民間から挙用されて官職に就いた者にその傾向は強かった。彼らからしてみれば、自分達を苦しめていた王である。だが、一方で同情から、自ら王位を禅譲したルスカの擁護にまわる者も確かにいた。
ユリウスはそれらルスカの周りで毀誉褒貶と渦巻く批評を耳にしながらも、終始一貫して不偏不党の立場をとり、一度として、彼を庇うことをしなかった。
またルスカもそれら自分を貶める言葉を静黙として受け止めた。彼は己を弁護する言葉を吐くことなく、ただ責められるたびに黙って頭を下げた。
ユリウスはルスカを従僕として側に置きながら、彼にいろいろな話を語って聞かせた。
彼が城で過ごした幼少期の話や、マダリア各地を流浪していた時の話、そこで感じたことや学んだこと、時には歴史に見える詩文を口ずさんでみせたりもした。
それらユリウスの話には造詣の深いものが多く、彼の博識を示すものばかりで、その中には人の上に立つ上での姿勢や教訓が含まれることも多々あった。
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『身寄りのない老人や両親を失った孤児のことを、無告の民という。自分の窮状を訴える方法を持ってない、よるべない民達の事だ。
私は、マダリアの各地を転々としながら、それら多くの人を見てきた。老いて夫を亡くした老婆や、息子を亡くした老人。幼くして父母を失った子……。多くの無辜の民が、困苦欠乏の生活の中で足掻いていた。
……ルスカ、人を治める者は、まず、自分の治める民の暮らしや現状を把握しなくてはならない。当たり前のことだと思うかもしれないが、真に人を治められる人間とは、それら無告の民の多くの心の声を聞き漏らすことなく、彼らの苦しみを己の苦しみとすることのできる者だ。
私達がこうしている間にも、どこかで泣いている民がいるかもしれない。それを、現実にあることとして、自分の日常から振り落としてしまわないよう、心がけておくといい。上にいる人間は常に下で自分を支えてくれている人間の声に耳を傾けてなくてはならない。上に立つ者が、脚下照顧の気持ちを忘れるようでは、下の者の信頼は得られないのだ。お前はもう二度と、忘れることはないだろう。過去の自分を、固く戒めておけ』
『人と接する時、あるいは人を使う時、注意しなくてはならないことがなんだか分かるか?
――〝人は木石にあらず〟と言う。人間は感情の動物であって、木や石とは違うという意味だ。
人事に携わる時はそのことを考慮しなければならない。いくら正論で正確な指摘であっても、場合によってはそれが逆効果になることも、時にはあるからだ。
元から慎重で思慮深い人間に熟慮の大切さを懇懇と説いては、その者はいざという時の決断力に欠けた人間になるだろう。また怒りっぽい人間に正面からその短気を直言するようでは、その性情を増長させるようなものだ。
人の上に立つ人間は、相手の性格や状況に応じて対応する能力も問われる。その人間の性質や感情の傾向をよく理解すること。これが、人心掌握術のコツだな。
例えば、ルスカ、お前の場合は自分を過小評価する傾向がある。もっと自分に自信を持て。私はお前の細やかな心遣いにはいつも感心させらている……と、いう具合にな』
『〝聚斂の臣あらんより、寧ろ盗臣あれ〟と言う。
これは治国の要は財貨よりも民心を納めることにあるという訓戒だ。民の心が分からなくなってしまった国はもはや〝国〟ではない、いつ転覆するか分からない〝砂上の楼閣〟と化す。
公の財物を盗み取る盗臣を推奨するという意味ではないぞ。盗む臣よりも、もっと目を光らせておかなくてはいけないのは、過重の租税を取り立てる聚斂の臣のほうだということだ。先王の時代、執政がやったのはこれだった。民心を失う一番の失策は、過酷な税を徴収することにある。
だが、だからと言って税を全く取り上げないようでは、国は立ち行かない。税とは本来、民のために必要不可欠なものだ。それを理解してもらい、租税の使い道を明らかにすることで、反対に民心を得ることができる。必要なことだと諭してやれば、民とて無闇に反対したりはしない。そういった上下の信頼関係を築いていくことが人を治めるに当たって大事なことだ』
『君主は君主の道を守り、臣下は臣下の道を守る。臣下が王のために尽くしてくれる、それを当然のこととして享受できるのは、真に王者たる人間だけだ。
〝君は君たり、臣は臣たり。君為らんと欲せば君道を尽くし、臣為らんと欲せば臣道を尽くす。君臣には義あり〟
この言葉の意味を理解できない人間は人の上に立つべきではない。君主と臣下の間柄は道義を守ることで成立する。君主は臣下を礼を以って使い、臣下は君主に正しいけじめを立てて仕える。これが正しい君臣のあり方と言えるだろう。
〝君、君たらずと雖も臣は臣たらざるべからず〟
君主に君主としての徳がなくても、臣下は臣下としての道を守って忠義を尽くさなければならない、こんな格言もあるが、これを実行できる人間は、ほんの一握りだ。一方的な奉仕の強制は、いつか必ず上下の仕組みを破綻させる。
そしてこれは、統治者と被治者の関係にも当てはまる。上からの施しなしに、民が奉仕してくれることを当然とするような人間は、決して人の上に立ってはいけない』
『上にいる者は大局に着眼しなくてはならない。全体の成り行きを見通し判断する、大局観を養うことが必要だ。統治者は民衆に対して平等に施さなければならない。人を治める人間が近視眼的な偏った政治をしてしまえば、どこかで必ず不満が生じ、せっかくの均衡も崩れてしまうからだ。最悪、国が土崩瓦解する。統治者は一視同仁の気持ちを忘れないことが肝要だ。
また、統治者にとっての着眼大局とは、ある点では大儀滅親と同義語になる場合もある。大局を見て判断する時、大義のために親類を犠牲にしなくてはならない時もあるということだ』
『〝過ぎたるは猶、及ばざるが如し〟。
何事も度を越すことは、良策とは言えない。過大と過小の両極の、正しい中間を捉えることが大事だ。
例えば人の性質で言うのならば、勇猛さも度が過ぎればそれは無謀であり、優柔が過ぎればそれは意志薄弱となる。真に勇気ある人には怯懦な心も必要であり、温厚な人間にも頑固な心が必要となる。
人に対する時も同様だ。甘やかしすぎては放縦に、逆に厳しくしすぎては厳格主義の人となるだろう。飴と鞭ではないが、何事も、程々が一番ということだ。
ルスカ、放縦と禁欲の正しい中間は何だと思う?
――答えは〝節制〟だ。昔の賢人は言った。統治者に必要なものは理知と温藉、国を守る軍人に必要なものは勇気、そして民に必要なのは節制だと。そして、民に節制を与えるためには、統治者は民を甘やかしすぎても、厳しくしすぎてもいけない。民心を統制するためには、一張一弛の心がけが必要だ。上から物を施してやることが民にとっての最善ではない』
『〝王言は糸の如きなれども、そのいずるや綸の如し〟
王の言葉が蚕の糸のように細いものでも、一度表明されると、人民には、印綬、即ち綸のように思われ、その影響力は大きい。
一度口に出してしまった君主の言は、体から出た汗が再び体内に戻ることがないように、取り消すことはできない。故に、王の詔勅は決して軽挙妄動に宣布されいいものではなく、常に熟慮の末に断行されるものでなければならない。
一諾千金とも言うが、王の一諾にはそれ以上の重さがある。民に対して一度約束したことは、取り戻しはきかないのだ。権力とはつまりこういうことだ。扱い方を間違えれば、それは自分の首を絞めることになる。その怖さを忘れるな』
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広く文献などから引用して諭して聞かせるその博文ぶりに、ルスカは舌を巻いた。
彼も、書物を読むことは好きではあったが、死んだ執政はルスカのその性質を好まなかったので、多くの蔵書の中から自分の読みたいものを選んで読む自由が、ルスカにはなかった。ルスカは彼の父と違って知的探究心のある人間であったため、それに気がついていた執政は要らぬ見識でも身に付けられたりしたら、後々面倒だと思っていたのだろう。
それを聞いたユリウスは王の書斎とも言うべき広大な専属図書館にルスカノウスを供に連れて行っては、彼に本を貸し与えた。
仮にも王であったのに、執政の遠謀的意図により一度も入ったことがなかった、その部屋の扉の向こうを垣間見た時、ルスカは感嘆の溜息を吐くと同時に、納得した。博覧な主の知識の源はここであったのだと。
また、そこで得た広い知識が、記問の学に陥ることなく、旅の見聞とあいまってすっかり精熟されていることに、ルスカはしばしば畏敬の念を覚えさせられた。
言々肺腑を衝くユリウスの言葉の一つ一つを聞き漏らさないよう――時には耳に痛いものもあったが――、ルスカはユリウスの話には常に真摯に耳を傾け、その一つ一つを胸に刻んでいった。
もともとが書物好きな彼は、豊かな水源を得て干からびた大地がどんどん潤っていくように、多くの知識をその頭に吸収していった。そしてその生命の水が、ただろ過され通り過ぎていくのではなく、〝自己の力で事を成したい〟という意思が凝固してできた小さな種を核に、芽を出し花を咲かせ実をつける力に変えて、博文約礼、しっかりと己の収穫物としていった。
禅譲【ぜんじょう】…天子が皇位を譲ること。
毀誉褒貶【きよほうへん】…ほめたりけなしたりの世評。
不偏不党【ふへんふとう】…公平・中正の立場をとること。
無辜の民【むこのたみ】…無力でなんの罪もない人のこと。
困苦欠乏【こんくけつぼう】…生活に必要な物資が足りなくて苦しむこと。
脚下照顧【きゃっかしょうこ】…身近なことに気を配って、自省の気持ちを忘れないこと。
近視眼的【きんしがんてき】…近いところ、狭いところにだけ気を取られて、大局の見通しのないさま。
大儀滅親【たいぎめっしん】…国家や君主への忠誠心のためには、自分の両親でさえも捨てること。
一視同仁【いっしどうじん】…すべての人を差別なく平等に扱うこと。
放縦【ほうじゅう】…気ままなこと。わがまま。
温藉【おんしゃ】…心広く包容力があってやさしいこと。
一張一弛【いっちょういっし】…時には働かせ、時には休ませること。
軽挙妄動【けいきょもうどう】…軽はずみで、向こうみずな行動をすること。
遠謀【えんぼう】…遠い将来のことまで考えたはかりごと。
記問の学【きもんのがく】…書物に書かれている文章を暗記するだけの学問。
言々肺腑を衝く【げんげんはいふをつく】…一言一言誠意があって、聞く人の心中にしっかりとこたえる。
博文約礼【はくぶんやくれい】…ひろく学問して事の理をきわめた上、礼を以ってこれをしめくくり実行すること。