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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
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26 玉座の重み

従兄弟(いとこ)殿の言も分からなくはないが、それは少し思い詰めすぎではないか? なにも君に一点の非もなかったとは言わない。だが、少しは自己弁護してもいいと思うぞ。君は望んで王であったわけではないのだろう?』

 真意を探るため発せられたその言葉の口振りはいかにも気安げだったが、ルスカノウスを見るユリウスの目は、ひどく厳粛なものだった。

 下手な嘘など、その一閃(いっせん)の眼光で瞬時に看破されてしまうだろう。

 だが、この時ルスカノウスは王の慧眼(けいがん)を前に(おそ)れを抱くよりも、己の心の内を洗い(ざら)いぶちまけてしまうことの方に頭がいっぱいになっていた。

 ただ、彼は目の前の人物に、――唯一己を裁く権限のある男に、聞いて欲しかったのだ。

『確かに、貴方(あなた)の言うとおりかもれません。ずっと前の僕であったなら、そうしていたかもしれない。自分にはどうしようもないことだったと、そう言い訳することに一片(いっぺん)の羞恥を感じながらも、僕は貴方に己の身の潔白を求め、それを証明しようとつらつらと父や執政達の悪事を言い連ねながら、その都度(つど)自分がどういった思いを抱き、どういった態度をとってきたか、自己弁護すると同時に不甲斐ない己の行状に許しを請おうとしていたでしょう。だけど僕はもう気付いてしまったんです』

 ユリウスはルスカノウスを見据えたまま、ピクリと眉尻を上げた。

 ルスカノウスは続けた。

『王族として生まれ、王という立場にいながら、己の意思で行ったことなど何一つとしてなく、ただ言われるがままに生きてきました。僕はそんな怯懦(きょうだ)な自己に気がついていながら、あえて(あらが)うことをしなかった。その自分の不断が、どれだけ多くの人間を、多くの民を苦しめることになるのか、僕は玉座にいながら、その責任の重さを理解してはいませんでした』

 己の意思と関係ないところで、ただの操り人形として、都合のいい王を演じることを強いられ続けてきた子供に、王としての責など負えるはずがない。

 それが、公明な見解だろう。

 ルスカノウスは、そう言ったユリウスの言葉に頷いた。

『――確かにそうかもしれません。僕はそう言って責任逃れをすることもできるのでしょう。だけど、それでもやっぱり、それは僕にとって、ただの、言い訳でした。このままでいいはずがないと知りながら、結局何もしてこなかったのは、他の誰でもない、僕自身だったのだから……。そして、僕は見てしまった』

 何を、とユリウスは訊いた。

 すると、ルスカノウスは今まで前方に合わせていた視線を下げ、膝の上で組み合わされた自分の両手のその親指をじっと見つめた。

 そして語り始めた。

『――父と、コンモド執政官が死ぬ前、民が束になって王城に押し寄せたことがありました。日に日に悪くなっていく暮らし向きに耐え切れなくなって、王のいる城に直訴しにきた者達でした。彼らは皆、手に持ったものを高々と振り上げ、口々に叫んでいた。僕はそれを、僕に見せまいとする人達の体の向こう側に目撃してしまいました』

 固く組み合わされていたルスカノウスの手が、震えた。

『……彼らは皆、あちこち擦り切れてひどくくたびれた服を着ていました。そして皆驚くくらい同じ顔をしていた。()せこけた頬に、目だけをぎらぎらと光らせて、口を大きく開けて、口々に何かを叫んでいた。鉄鍋や包丁を持っている人がいました。植木職人は刈り込み(ばさみ)を、大工は工具と角材を、樵夫しょうふは斧とまさかりを、鍛冶屋は大きな鉄槌てっついを。皆それらを高く突き上げて威嚇(いかく)するように(わめ)いていました。

 一人の女の人は衣服を切り裂いて作っただろう薄汚れた布を(かか)げていました。そこには、赤い文字でこう書かれていた。

 ――〝私の赤ちゃんを返して〟

 後でどういう意味かと、こっそり女官の一人に訊きました。彼女は渋々僕に教えてくれた。

 街には生活苦から幼い子供を捨てる親もいるらしいと。治安が悪化した郊外では、強盗も殺人も珍しくはなく、力の弱い女子供は真っ先にその被害に遭うのだと』

 貧困に(あえ)ぎ、ぼろぼろの衣服を(まと)いながら、疲れきった顔を殺気立たせて詰め掛けてきた民衆の姿を見た時、初めて、ルスカノウスは急激にそして強烈に、実感した。

 自分は、抗わなくてはいけなかったのだということを――。

『王というものが、どれだけの人間の生活をその肩に、その背に請け負っている存在なのか、僕は理解していなかった。そして、彼らが異口(いく)同音(どうおん)に叫んでいたある単語を拾った瞬間、僕は気がついてしまいました』

 ユリウスは、どこか淡々と語りながらもその実、硬く体を強張らせて微かに震えている少年を、静かに見守った。

 ルスカノウスはためらうように一度息を吸い込み、体の中の悪いものを吐き出すような重々しい口調で、それでも決然とユリウスを見上げて、言った。

『――〝王〟は言い訳することなど許されはしない。そんな甘えは通用しない世界にいる存在なのだと』

 まるでその言葉自体が刃となってルスカノウス自身を切り裂くとばかりに、彼は決死の形相をしていた。

 ユリウスはその言葉と、その潤んだ瞳の中にある熱の色に、予期せず息を呑み込んだ。

『皆は口々に〝王様〟と、そう叫んでいた。王である僕に、助けを求め、訴えていたんです。それを耳にした時、僕は一瞬で地獄の底に突き落とされたような、絶望的な気持ちになりました。目の前が真っ暗になった。彼らにとって王である僕が玉座にいるがゆえに抱く葛藤(かっとう)や悩みなんて、どうでもいいことなんです。自分が王になるに至った成り行きは斟酌(しんしゃく)されないのだと、――たとえそれが己が望んだものではなく、他者に強いられたものであったとしても、言い訳することは許されないのだということに、僕は気がついてしまった』

 何故なら〝王〟という立場にいる人間の行動いかんが全てを左右し、王として発した言葉は、民の幸不幸いては、その生き死にさえ直結してしまうのだから。

 たとえ中身のない張りぼての王でも、民にとって、王は王でしかない。

 そして、自分はまごうことなき王なのだと、いや、〝王であらなくてはならない人間〟であったのだと、彼は悟った。

『王である僕は民のために抗わなくてはいけなかったんです』

 それを悟った時の、ルスカノウスの心境は惨憺(さんたん)たるものだった。

 突きつけられた現実の前に――己が知らず犯していた、王としての罪の想像以上の大きさに――彼は()す術もなく立ち(すく)み、そしてその次の瞬間、彼の頭の中は自分を擁護することでいっぱいになった。

 その矢先だった。

 彼の父と執政が、二人同時に落雷によって命を落としたのは。

 ユリウスに告白したとおり、ルスカノウスは呆然とすることしかできなかった。

 そして自分でも気がついていなかった己の醜悪な一面に否応なく対面せずにはおれなくなった。

『僕はきっと、玉座の重みに気がついても、いえ、気がついたからこそ、その重みに耐えることができなかったでしょう。二人が死んだ時、心のどこかで安堵したのは、己は許されていると思いたかったのと、もう一つ、抗わなくてはいけないと気がついても、自分はきっと抗うことができないだろうということを、知っていたからです。抵抗する対象がいなくなったことに、僕は安堵していた。民のために抗えない自分に対する更に深い呵責(かしゃく)の念に苦しまされずにすんだのだと……』

 ルスカノウスは苦く笑った。

 深い疲労を感じさせるその(わら)い方は、十七歳の少年のする表情ではなかった。

『僕はずっと自分は父や執政とは違うと、そう思っていました。自分が人として優れていると思ったことはありません。たとえどれだけ清浄な心を己の内に秘めていようとも、他に対して敢然(かんぜん)(あい)(たい)してそれを示すことのできない人間に、意味など、ましてや王としての価値などあるはずがない。軟弱な自分より堂々と自己主張のできる父や執政のような人間のほうが、遥かに己より人として優れているのではないかと、そう感じることがままありました。

 それでも、僕は己の心の善良なるだけを信じていた。心根だけは、彼らに染まりはしないのだと、そう信じていました。それだけが僕の唯一の支えだった。――けれど実際は、僕も彼らと同じく、結局は己の身が一番の人間だったのです。

 僕は己の想像以上の重責に気がついた途端それを恐れ、必死にそれから逃れたいと思いました。事実、民衆の姿を目にした後、僕はずっと己は悪くないと自分に言い聞かせながら、心の中だけで父や執政を責め(ののし)り、必死になって逃げ道を探していた。そして、あんなに自分に対して助けを求めていた民の姿でさえ見なかったことにしようとしました。忘れてしまおうと。

 父とコンモドが何の前触れもなく突然死んでしまった時は、何も考えることができず呆然としながらも、同時に心のどこかで確かに安堵していた』

 ルスカノウスは目を閉じた。

『二人の死の衝撃が通り過ぎて、自分にようやく思考する余裕が戻ってくると、ゆるゆると浅ましい自分の姿が僕の頭の中に浮かび上がってきました。まるで憑き物が落ちたような気分で、僕は自分自身を(かえり)みて、そして――恐ろしくてたまらなくなった。……善良であることを信じていたがゆえに、そんな己の下劣(げれつ)さに、僕は深く、絶望したんです――』

 眉間にしわが寄るほど強く目を(つぶ)った硬い表情で、彼は言い切った。

 その姿を見て、ユリウスはようやく理解する。

 この少年は嘘をついてはいない。この少年も己と同じく、王家に生まれた人間であったのだと。

 王族として生まれた人間には、その時点で民に対する何らかの責任が自動的に発生すると、ユリウスはそう理解していた。そして、それを自覚できないような人間は、そもそも王になるべきではない、とも。

 ユリウスは正直驚いた。

 王としての意識を、お飾りの王であることを強いられ続けてきたこの少年が持ち合わせていようとは思わなかったのだ。

 ルスカノウスは、彼は彼なりに王の何たるかを理解していた。いや、彼は彼自身が言っていた通り、それに気がついてしまったのだ。そして、〝王でありながら何もできない自分〟に対する苦悩と葛藤を抱えようとしていた。

 それはユリウスにとって、あまりにも馴染み深い感情だった。


『……分かった』

 この少年を責めることは自分にはできない。

 ユリウスはそう思った。無論、彼には周囲の大人に利用されていた従兄弟を哀れむ気持ちが大きかったので、譴責けんせきを与えようという気は最初からなかったのではあるが、少年の告白を聞いてしまった今、最早彼という人間を苛察かさつしようという気も失せてしまっていた。

 時折震える声で、時には挑むように、そして何かに突き動かされるようにしゃべり続けるその姿は、確かな痛みを伴うもので、彼がどれだけの罪悪感と自己嫌悪を抱えているか、そして己の非を認め、それを告白することがどれほどの勇気を要する行為であるのか、ユリウスには分かってしまった。

 自分にそれを吐露したのは、そうせずにはおれなかったからであろう。これ以上己の内に溜め込んでおくことが、彼にはできなかったのだ。

 ユリウスから見れば、ルスカノウスは呆れるほどに、善良だった。

 ではあるのだが、臣に迎えるとなると話は別である。ここは私情は捨てなくてはいけない場面であり、また今はそういう時期であった。

『――臣下として迎えて欲しい、ということだったな』

 ピクリと、ルスカノウスは反応した。

 いつしかうつむけていた顔を、彼は上げた。

 震える体は、己の懺悔(ざんげ)に対する相手の反応を初めて意識したからであろうか、揺らいだ目はそれでも、ユリウスの瞳を(とら)えた。こわごわとではあるが視線を合わせてきたその様子に、彼の確固とした意思を感じ取り、ユリウスは言った。

『その心を聞かせてもらおうか。身内というだけで君を採用することはできないからな。君も承知しているとは思うが、私は王族の血を、己の中に流れるこの血を否定した。よって、君の処遇についても慎重にならざるを得ない。仮にも君は先王だ。その意味を、王の何たるかを自覚していた君が知らないわけではないだろう。それでも君が私の臣になりたいのだという、その理由は何だ? それなりの意気込みを聞かせてもらえなくては、判断できかねる。再三言うようだが、コネは通用しない。王家の血を引く君に対して、私は必要以上に厳しくあらねばならないからだ』

 まるで面接官のように言ったユリウスの言葉は、とても率直なものだった。

 正直に己の心の内を語ったルスカノウスに対する彼なりの誠意なのか、あるいは元来の性格ゆえなのか。なんにせよ、彼がこのような物言いをする時は、相手に対して何らかの興味、好感を持った時だ。

 だが、そんなことはルスカノウスには知りようがない。

 彼は依然緊張した面持ちで、おもむろに口を開いた。

『…僕は、あの人達がある日突然何の前触れもなく雷に打たれて死んでしまったことの、その意味を、考えようとしました。ただの事故で片付けてしまうことは、どうしてもできなかった。それは他の人間にとっても同じだったようです。人々は口々に、(ばち)が当たったのだと、悪因(あくいん)悪果(あっか)の道理であるとささやきました。

 けれど、もし、どこかに神という存在が本当にあって、その神があの二人の所業を嘆き、あるいは怒って裁きを下したというのなら、何故、僕には何の咎徴きゅうちょうもないのだろうかと、僕は考えました』

 ルスカノウスはここで自嘲するように、顔を曇らせて、笑った。

『己には最初から何も(とが)められることはないと、そう考えることはひどく僕の心を慰めた。けれど、それを安穏(あんのん)甘受(かんじゅ)できるほど僕は厚顔(こうがん)な人間にもなれませんでした。日々蓄積されていくだけの罪悪感は何の実利も生みはしない。己の苦衷(くちゅう)が民を救うわけではない。何もしてこなかったのに、自分は苦しんでいたのだと主張することは、あまりに恥を知らぬ、卑怯かつ情けのない振る舞いでしょう。

 それでも、昔の僕はその心に(すが)ろうとしていました。己の心だけは、一点の曇りもなく潔白であり、決して大逆(たいぎゃく)無道(むどう)をよしとしているわけではなく、父や執政の行いに痛む心を持っているのだと。それだけをひたすらに信じこみ、己の非から少しでも目を逸らそうと必死だった。

 けれど、民衆の実状を見て己の罪の大きさを理解してしまった途端、それまでの罪悪感を全て忘れ、その罪を自分以外の人間に負わせることに必死になって、ただ逃げることだけを考えてしまった僕は、それまで父と執政の悪行に痛めていた心を、――己は悪くないはずだと言い訳できる最後の(とりで)だったその心の聖域でさえも、失ってしまった。後生大事に守っていた最後の頼みの綱を、自分は悪くないと信じられる唯一の心の善を、自ら捨ててしまったのです』

 僕は心底臆病な人間でした、とルスカノウスは言った。

『臆病だからこそ罪の意識に(さいな)まれるだけで、臆病だからこそそれを盾にとって己の保身を求め、臆病だったからこそ、あれだけ苦しまされたその罪の意識でさえあっさりと捨ててしまった。

 突き詰めれば、僕は誰より自分本位の人間でした。僕は自分こそが卑しい人間であったと、己の臆病な心こそが絶対悪であったのだと気がついた。そしてそんな人間が王になったのならば、それは紛れもない僕が負うべき僕の罪だ。それに気がついた時、自分こそ雷に打たれて死んでしまえばいいと僕は思いました』

 ユリウスはそれを聞きながら、眉をひそめていた。

 ルスカノウスの言う臆病な心に嫌悪を感じたからではない。彼がそう主張する中に潜む、病的なまでの潔癖さに気がつき、知らず眉根を寄せていた。

 臆病な心など誰もが持っているものだろう。彼の言い分を取り入れるのならば、人は皆罪深い存在である、ということだった。

 確かにそれはある意味で真理であり、特別否定することではないかもしれないが、この少年は必要以上に己を責め、あえて自分に罪を負わせようとしている、ユリウスにはそう感ぜられた。それが、彼の言うところの〝臆病な心〟からくるものだというのなら、彼はやはり臆病な人間であるのだろう。だが、それは自滅的な怯臆さと言えた。臆病とは本来己の身を守るための心の動きであるはずだ。

 この少年は、〝臆病〟という言葉だけでは(ひと)(くく)りにできない、人並み外れて〝繊細〟なのだと。

 人間なら誰でも持っているその心に深い罪悪感を抱き、絶望してしまえるほどに。

 それは彼が〝王〟という特殊な地位にいたがために、より顕在(けんざい)化したのだと思われたが、そのことに彼自身が気がついていない。ただ、自分は臆病で卑しい人間だと(かたくな)に信じ込んでいる。

 危険だな、と正直ユリウスは思った。健康的な指向性とは言えない。

『僕は、今までよりずっと深刻に、何故自分は今生きているのだろうかと考えるようになりました。いっそ死んでしまったほうが楽だとも思った』

 そう言ったルスカノウスを、ユリウスはじっと見つめた。

 それに気がついたルスカノウスは真っ直ぐ挑むように、その視線をユリウスに()えた。

『けれど、それで死ぬことはできないと、僕は思いました。何故ならそれが逃避でしかないと、僕は知っていたから。最期の最後まで臆病なまま死んでゆくことなどできないと。それが僕に残されていた、最後の意地だ』

 思わぬ視線の強さを平静に受け止めながら、ユリウスは心中で笑った。

 面白い、と。

『そして、自分は生かされたのではないかと、そう気がついたんです』

 ユリウスの口角が知らず上がった。

『僕は、今まで本当に何もしてこなかった。自らの意思で悪に染まるわけでもなく、かといって悪に走っている人間を制するのでもなく、ただ、手をこまねているだけの、怠惰な生を選んだ。だけど、チャンスを与えられたのだと。何もしてこなかった自分に、最後のチャンスが。

 神から免罪(めんざい)されたのではない。〝死罪〟の代償に〝贖罪(しょくざい)のための生〟を与えられたのだと。――「生きて罪を償え」と言われているような気が、僕はしたんです』

 そう言うルスカノウスの瞳には、死の影にとり憑かれたかのような暗さはなく、ただ決然とした色があった。そして同時に、何かに焦がれるような熱を伴っていた。

『ある意味で、あの事件が僕の目を覚まさせてくれたのです。僕は、自分は父や執政と一緒に一度死んだものだと、そう思うことにしました。そして、新しく生まれ直して、今まで仮初(かりそめ)の王として無為(むい)に過ごしてきた時間の償いをしたいと、そう思ったんです』

 ユリウスはもう傍目(はため)で分かるぐらいに、笑っていた。

 だが、おもむろにその表情を引き締めて言う。

『君が選ぼうとしているその道は、決して楽な道ではないぞ。先王だった君を責める者も当然出てくる。君の仕官を面白く思わない(やから)も中にはいるだろう。先の王が、臣となって現王である私の前に(ひざまず)くのだ。軽くはない中傷と(あざけ)りが君を待っている。王であった君がそれに耐えられるのか?』

『僕には王としての誇りなど最初からありません。その誇りは、王として何かをした者のみが()うるものだ。僕は真実、王であったことなど一度としてなかった。僕がこれから受けるのであろう侮蔑の数々は、甘受して当然のものです』

『……私は、君は既に苦しんでいるものと思っている。本当に、それでいいのか? 君が望めば、誰もいない閑地(かんち)で母君と静かに暮らすこともできる。従兄弟である君のために、私が手配しよう』

 ルスカノウスは一度目を瞑り、深く息を吸ってそれを溜めてから、言葉と一緒にそれを吐き出した。

『……ご恩情、ありがとうございます。けれど、これ以上臆病な人間のまま生きることは、太陽の下で何の恥もなく顔を上げて生きることの機会を、己の王としてではない、王となる前のただ一人の人間としての誇りを、永遠に喪失してしまうということと同義です。僕は、それが怖い』

『……』

慧眼【けいがん】…物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。

怯懦【きょうだ】…臆病で意志の弱いこと。

不断【ふだん】…決断の鈍いこと。にえきらないこと。

樵夫【しょうふ】…きこり。

異口同音【いくどうおん】…多くの人が口をそろえて同じことを言うこと。

斟酌【しんしゃく】…その時の事情や相手の心情などを十分に考慮して、程よくとりはからうこと。手加減すること。

呵責【かしゃく】…叱り責めること。責めさいなむこと。

敢然【かんぜん】…思い切ってするさま。

まま…折々。時々。

譴責【けんせき】…過失などをきびしくとがめせめること。

苛察【かさつ】…細事にわたってきびしくせんさくすること。過酷な観察。

悪因悪果【あくいんあっか】…悪いことをすれば悪い報いがあるということ。

咎徴【きゅうちょう】…わるいしるし。わるいむくい。

厚顔【こうがん】…つらの皮のあついこと。あつかましいこと。鉄面皮。

苦衷【くちゅう】…苦しい心の中。

大逆無道【たいぎゃくむどう】…甚だしく人倫にそむき、道理を無視した行為。

顕在【けんざい】…はっきりあらわれて存在すること。

指向性【しこうせい】…ある方向をめざし向かう性質・傾向。

免罪【めんざい】…罪をまぬがれること。放免。

贖罪【しょくざい】…犠牲や代償を奉げることによって罪過をあがなうこと。

無為【むい】…何もしないでぶらぶらしていること。

閑地【かんち】…しずかな土地。

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