24 不穏な気配
「くそっ!!!」
カッターは己のデスクにガタンと拳を打ちつけた。
机に置かれていた筆記用具が跳ね上がる。重ねられていた書類はバサバサと音を立てて床の上になだれ落ちた。
だが、今のカッターにはそれらがまるで目に入っていない。
先程呼び出された上司の言葉がよみがえる。
『小耳に挟んだんだが、何やら専鋭隊が都内で動いているらしいじゃないか』
『それが、彼らは舞踏会に向けての警固のためにですね……』
『何でもいいが、都警隊の御株を奪われるようなことだけはやめてくれよ。先日前代未聞の失態を犯したばかりだというのに、これ以上我が隊の威信が損なわれることがあってはかなわん。場合によっては君の進退も変わってくるからな。浮かれ上がって足をすくわれるなよ。
弱肉強食の世界では優勝劣敗が理だ。優れたものが勝ち、劣ったものが敗れる。肝に銘じておくんだな』
その言葉は、彼にとって聞き入れられないものだった。
(私はあの男に劣ってなどいないっ!!!)
『その時将軍と対戦したのが、確か貴方だったと聞いたと思ったんですけど』
『若かりし未来の偉才と手合わせたことがあるなんて自慢できますよ』
『やっぱ、ずば抜けて強かったんですか』
『いまや大勲位の聖騎士ですから』
ジョセフ=カッターの家は将門有将の出だった。
将軍の家からは、また将軍が出る。
代々の軍人一家で、彼の父も祖父もそのまた祖父も皆、将官位として威勢を誇ってきた。
むろん、サンカレラ騎士団にはそんな血統的な優遇はありえない。だが、だからこそ、彼は実力でその地位に就いてきた己の父祖を尊敬していたし、誇りに思っていた。いずれ、自分も彼らの通った軌跡を踏襲していくのだと。
そんな彼の前に現れたのが、バルトークだった。
田舎訛りを直すことなく、野卑そのものの風体で現われ、洗練とは程遠い剣技で彼の剣を圧し折った。
屈辱だった。
十以上も年の離れた若造に、部下が王が見ている前で敗れたのだ。彼にとって人生史上最悪の瞬間だった。
〝この世界は実力が全て〟
それは知っている。だからこその、屈辱だ。
自分はあの野蛮な田舎人よりも劣っている、それを認めることがジョセフにとって何よりの苦痛だったのだ。
血統的優遇はないと言っても、人々の意識の中にそれは現れる。周囲の者達はジョセフに期待を寄せたし、ジョセフもまたその期待を当然のものとして受け止めていた。
バルトークがぽっと出の田舎者などではなく、そこそこ名の知れた英邁な男だったのなら、彼のプライドがここまで傷つけられることはなかったかもしれない。また、彼の家が常勝で名の知れた騎士の名門家などではなかったなら、己の力の及ばざるを認めて素直に相手の力量に感服することができたかもしれない。
だが、実際はそのどちらでもなかった。ジョセフと同じ境遇にあれば、よほどできた人間でもない限り誰だって何かしらの精神的鬱屈を抱かずにはおれなかっただろう。
ジョセフは己を恥じた。彼は自分の父祖を尊敬し並々ならぬ想いを抱いていただけに、家名も何もないただの農夫上がりの男に負けたことを恥辱だと感じた。
そして、周囲が実際に思う以上に、彼は周囲が自分を見下げているだろうことを信じた。
そして一人憤悶し、優劣の妄執に囚われるようになった。以来、ジョセフは新進気鋭の若者に対して、私的含意を持たずにはおれなくなったのだ。
ジュリアに必要以上に突っかかるのもまた然り。年を取るにつれてその傾向はいや増していき、胸の中に含ませた陰湿なもののおかげで、素直に若者の功績を褒めることができなくなっていた。そして過去の恥辱を雪ごうと、より一層名誉や権威を求める心が強くなっていく。
バルトークの存在が彼をそう変えたと言っても過言ではないかもしれない。いや、もちろん個々の性格形成は各々が持つ性情に深く起因されるものだということは疑いようもない事実であろうが、その引き金になったのは間違いなくバルトークの存在だった。
バルトークとジョセフはもともと水と油だ。
バルトークという男は至極単純な性格をしている。彼は戦うことが好きだ。誰かと死力を尽くして戦っている瞬間が好きだ。己より強い者と戦っている瞬間はもっと好きだ。勝負に勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。
彼は勝負事に関してそれ以外の感情を抱いたことがなかった。自分が勝つのは自分の力が相手より上回っていたからだし、自分が負けるのは相手が自分より強かったからだ。それ以上でもそれ以下でもない。彼は勝負を個々人の価値と結び付けては考えたりしなかった。そして彼はまた、強者が常に強者だとは限らないことを理解していた。
強いものが勝つのではない、勝ったものが強いのだ。次に戦った時、もしかしたら自分は負けた相手に勝つかもしれない。逆に、勝った相手に負けることもありえる。負けたら次勝てばいいのだ。勝ち続けるためにはそれだけの努力をすればいい。鋼が打ち鍛えられることで強くなると同じように、打ち負かされることが人を強くすると、彼は信じていた。
だから時に彼は自分を負かしてくれるような相手を欲した。負けることで自身の何かが傷付くなどこれっぽっちも思っていない。むしろ、それを糧により高みに進むことができると信じている。そして彼は自分に勝った相手には相応の敬意を払い、内心で感謝するのだ。自分はまだ強くなれると。
そうやって、彼はエリー村の小さな家の五男坊から、サンカレラ騎士団戦闘専門精鋭部隊隊長にまで上り詰めた。
だから、彼はジョセフの己に対する感情には気がつかなかったし、理解が及ぼうはずがなかった。彼自身、そんなことで誰かを恨んだことがなかったからだ。これが、バルトークとジョセフの違いである。
バルトークは人を恨むのでも、己の未熟を恥じるのでもなく、ただ事実として己の及ばざるを理解しそれを認め、それによって更なる強さを求めた。
そんな単純な彼に、ジョセフの複雑な心理を読むことなどできる訳がない。バルトークは、何の蟠りもなくジョセフに接した。
だが、顔を合わせれば溌剌と挨拶してくる彼にジョセフのプライドはいちいち傷つけられていた。傷口に塩を塗りこまれるようなものだ。
バルトークの姿をその目に入れるたび、その名を耳にするたびに、過ぎた失態を思い出し、屈辱と慚恚とにじゅくじゅくとその身を内側から焼かれ、ジョセフの心は次第に爛れていった。
だが、どんなに嫌っていようが、バルトークは己より強く、そして〝上位〟の人間だ。真っ向から歯向かうことなどできるはずがなかった。軍人社会では何より秩序が求められる。
本来なら、ジュリアに対する彼の態度も十分規律から外れているのだが、ジュリアの場合、本人による〝己はまだ若輩者だ〟といういたって謙虚な姿勢から、それほど重く受け止められていなかった。――故に、彼は不満や怒りをジュリアに全て転嫁した。
(くそっ、これも全部、あの青二才のせいだ。虎の威を借る狡猾な狐めが! 他人の手など借りず、正々堂々自らの手で勝負しろ! 臆病者!!)
ダンとまた一つ、カッターは机を叩いた。
これで万が一、真犯人でも挙げられようものなら、自分は終わりだ。
都警隊の面目は丸潰れで、手柄をごっそり専鋭隊とその後ろにいる親衛隊隊長に奪われることになる。
「あの……、カッター少将?」
その時、荒れ模様の上司を遠巻きにしていた部下の一人が恐る恐るとカッターに話しかけてきた。
「なんだっ!!」
牙を剥く勢いの上司に、部下はヒッと喉を鳴らす。
「……あ、あの……少将殿にお客様が……」
「客?」
「は、はい、なにやら内密にお話したいことがあると……」
「どこの誰が何の話だ。私は今それどころではない。お前達で対応しておけ!」
「で、ですが直接少将とお話がしたいと聞かなくて……。薬がどうとか言っていたのですが……」
「くすり?」
――『では、お尋ねしましょう。貴方は先程被疑者が自供したとおしゃられましたが、毒物の入手方法は分かったのですか? 監察医の検案書にはその毒性も明らかにされていなかった。極めて入手困難なものでしょう。その毒物の詳細について、彼は何か語りましたか?』
小賢しい追及の声が脳裏によみがえる。
「薬が何だって……?」
「はっ、はい。大事な薬が盗まれたのだと……」
「今すぐそいつのもとへ案内しろ!」
今度こそ確実な証拠を得られるかもしれないと、彼は勢いづいて事務室を飛び出した。
(見てろよ、若造め。お前の鼻を明かしてやる)
ここが彼の運命の分かれ道だった。
もし、少しでも冷静な目でフィオスやキーン、目撃者の話に耳を傾けていたのなら、彼はこんな過ちを犯さなかっただろう。
己の保身と名誉を思うあまり、騎士としての誇りを落としてしまいかねない重大な失態を。
ジュリアとドリスは城の回廊を歩いていた。
「ごくろうだったな」
「んにゃ、案外あっけなかったぜ。とっつぁんの名前出したら一発だ」
「そうか」
詳しく聞く気は更々ないらしいジュリアの機嫌を損ねないためにも、ドリスは早々に話を切り上げる。
「それで、陛下の方に変わりはないか?」
「ああ、これと言ってない。サジャンがよくやってくれているようだ。陛下も褒めていた」
ジュリアはちらりと笑みを見せたが、ドリスは胸中でこう呟く。
(そりゃ、あれだけガン飛ばされりゃあなぁ……)
ジュリアの言い置きでフリーズしていたサジャンを思い出した。
「それでサントはどうしてる?」
「……別にこれといって怪しい行動はないが? 最近は部屋で陛下から借りた本を読んで過ごしているらしい」
ふーん、と含みのある笑みを作ったドリスにジュリアは眉をひそめた。
「なんだ。言いたいことがあるのなら言えばいいだろう」
「べつに。そう言えば最近姫様がめっきりきれいになったって噂だな」
ジュリアは一瞬きょとんとしたが、すぐにきれいな笑みをその顔に浮かべた。
「そうだな、急におきれいになられた。あの年頃の少女は成長が早いらしい。陛下も目を瞠っておられたよ。やはり男親としては嬉しさよりも寂しさの方が勝るものなのかな」
リリアの話を振ったのに、無意識であろう、父親の話にすり変えたジュリアにドリスは呆れて溜息をついた。どこまで国王陛下命なんだと、呆れ顔のドリスに、ジュリアはやはり眉をひそめる。
「だから、何なんだ、その顔は。言いたいことがあるのなら言えって言ってるだろう」
「んじゃ、言わせてもらうけど、ぐずぐずしてると姫様取られちまうぞ」
「……何の話だ」
「サントの野郎は姫様に気があるって話だよ」
ジュリアは瞠目した。
「まさか」
「いーや、あれは姫様のことかなり気に入ってるね。お前が陛下と姫様と中庭で話してた時、やけに熱心に見つめてたぜ?」
「……それは、あれだけ華やかな方だ。目がいくのは自然じゃないのか?」
「お前だって見てただろうが」
「……何を」
「あいつ、姫様にはえらい従順だったじゃねぇか。フード取ることさえ嫌ってたはずなのに。触れられても拒まなかったし」
「……」
「心配じゃねえの?」
「……彼は女性を傷つけるような人間には、見えないよ」
少々的を外れたその答えに、今度はドリスが目を見開いた。
「驚いた」
「何が」
「いや、サントの方を弁護するんだと思ってよ。姫様の身を案じて気が気でなくなるかと思ったんだが」
「……」
ふーんと、人を品定めするように見てくるドリスにジュリアは何故か居心地が悪くなった。
「お前もずいぶん、感化されたもんだな」
「何だ、それは」
「陛下だってとっつぁんだって、あいつのことは気に入ってるし。その内、王騎士に迎えるとか言い出したりしてな」
そうなったらそうなったで面白いなとでも言いたげに笑うドリスに、ジュリアは眉をひそめたが、そうなれば黒衣の人物の正体をつかむことができるかもしれないなととっさに考えてしまった自分も、まんざらではないじゃないかと思い至って、そんな自分自身を戒めるように、更に彼は眉間のしわを深くしたのだった。
通り過ぎていく二人分の足音を曲がり角の死角で聞いていた少女は、我知らずにぎゅっと拳を握って、足早にその場を後にした。
優勝劣敗【ゆうしょうれっぱい】…力がすぐれているものが勝ち、劣っているものが敗れること。
踏襲【とうしゅう】…前人のあとをそのまま受け継ぐこと。
英邁【えいまい】…才知がぬきんでてすぐれていること。
新進気鋭【しんしんきえい】…新しくその分野に現れ、勢いが盛んなようす。また、そのような人。
慚恚【ざんい】…恥じて恨み怒ること。