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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
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22 もう一つの異母兄弟

 露台から吹く夜風で馥郁(ふくいく)たる芳香が強くなった。

 サントは香源へと顔を向ける。

 今宵もまた、黒い人影は王の私室を訪ねていた。

「……ダフネラ、と言いましたか」

 花台には白く丸い花が咲いていた。

「ああ、妻の好きな花だった」

 いくつかの白い花を球状につけて、その周りを()(しん)(けい)の葉が囲んでいるこの花は、騎士団の等級を示す徽章(きしょう)のモチーフにもなっていた。

 白い花の一つ一つは清らかな護るべき乙女たちを、刃の切っ先に似た葉が騎士の剣を示している。

 騎士の制服に見える徽章の、真ん中の円はその球形の花々を、それを護るように飛び出す刃の穂先が葉だ。

 円中にある記号と円を囲む刃の数で、五階級を区別していた。

 刃の数が五つなら()葉刀(ようとう)と呼ばれ、正騎士を示す。逓次(ていじ)に従い、四つなら()葉刀(ようとう)で准騎士、三つなら(さん)葉刀(ようとう)で校尉士、二つで(そう)葉刀(ようとう)の従士、何もないただの円なら、萌芽(ほうが)(とう)で士生というふうに。

「ダフネラはまたの名を、〝香夢(こうむ)〟とも言ってな。その昔、ある聖人が木陰で休んでいたら、白い花の夢を見た。目を覚ましてみると、芳しい香りが風に乗って漂ってきている。そこで、姿ないその芳香を追ってみたら一面に夢で見た花が咲いているのを見つけた。香りに乗せて、その姿を夢にまで現したという故事から来た名だ。遠く千里にまで及ぶその(けい)(こう)から、〝(せん)()(こう)〟とも言う」

「遠方にまで届く馨香……。まるでこの国のようですね」

「?」

「〝馨香(けいこう)千里(せんり)辺民(へんみん)(やす)んず〟。遠方にまで及ぶ徳化の(たと)えです。……私は、この王都に来るまで、貴方(あなた)を褒め称える民の声を数多く聞いた。今自分達がこうして暮らしていけるのは国王陛下のおかげだと……。貴方の徳風が行き渡っている証拠でしょう。君子の徳は風なり、とあるとおり、その英風に乗って馨香が広がるのでしょうね」

 サントのその言葉にユリウスは感心したようにほおっと息をつく。

「〝君子の徳は風なり。小人の徳は草なり。草これに風を(あが)ふれば必ず(たお)る〟か。若いのにずいぶん博識だな。どこでそんな知識を得るんだ? 君達の環境は至って閉鎖的なものだったと思うが」

 それは遥か昔の、異国の賢人の言葉だった。

 人の上に立つ者の徳は風のようなもので、下の者は草木のようにその風によって感化を受ける。徳風とは、立派な人徳による影響力を風に譬えた言葉だ。

「……私達の里にも、古い書があります。薄暗い洞房の中に禁書として封じられている。遥か昔には、私達ラトの民が気まぐれに下界に下りることもあったようで、その時に得た史料が残っていると聞きました」

「なるほど。そういえば我が国にも幻の民について伝承が残っているな。不思議な術を操る民がいると……」

 そう言って、ユリウスはその幻の民の横顔を見つめた。

 彼女の顔を見ることができるのは、日が沈んで月が出てからの、この二人きりの時間だけだった。

 やはり、左目に眼帯はしたままだったが、ユリウスの心の湖面には何度見ても、信じられないような気持ちが泉のように湧きあがる。

 自分の顔を見られているのに気がついたのだろう。サントはそっと、ユリウスを振り返り、そして軽く目を伏せた。

 分かっているのに止められない。彼は自分自身に苦笑した。

 実を言うと、密かにこうして夜の会合を重ねていたのだが、先ほどまでのような世間話は長くは続かず、気がつけばその顔を凝視することに時間が費やされていた。

 昼間、その顔を隠している時は平気なのだ。だが、夜になってその顔を見てしまうと、どうしても口が(おろそ)かになりがちだった。

 ふと気がつけば、じっとその横顔を見つめている自分がいる。

 いや、違う。

 正確には、記憶の中の面影を探しているのだ。

「すまない」

 彼は我ながら困ったというように笑った。見られている方は決して楽しいものではないだろう。

 サントは静かに頭を振り、ゆっくりとその面差しを上げた。

 碧玉(へきぎょく)の隻眼が鳶色(とびいろ)双眸(そうぼう)(とら)える。

 その真っ直ぐな視線に、ユリウスは否応なく錯覚してしまう。

 あの時。

 約束の満月の夜、彼女が訪れるまでの時間。

 自分の精神状態は、今思えば決して尋常ではなかった。

 何が尋常でなかったかと言えば、己の常にない精神状態を自覚できていなかった点だ。

 体は反応しているのに、その理由が分からず戸惑い、それでも彼はそれらの警鐘を(かたくな)に拒んでいた。

 知ってしまうことを、思い出してしまうことを、過去の夢を現実によみがえらせてしまうことを……。

 それらの(かせ)が無意識のうちにはめられていたことが、救いようのない点だったのだろう。

 過去と決別し、国のために生きてきた十数年間、想いを馳せて心に思い続けるには、重すぎるものだったから。

 だから彼は自分でそれを封じた。

 求めてやまない己の心は切り捨てなくてはならなかった。徹底的に。そのあまりに強い慕情(おもい)ゆえに。

 一国の国主として、常にその感情を心のうちに燃え(たぎ)らせておくわけにはいかなかった。

 その想いを代償にして、民を(あがな)ったのだから。

 そしてそれが決定的になったのが、三年前、彼の最愛の妻が死んだ時だった。

 潜在意識下に封じられた想いは、もはや彼でさえ意識することはできなくなっていた。

 それは妻の死に深く起因するものだったのだろう。彼は死んだ妻への愛に殉じるため、かつての己の心を彼女と一緒に葬ったのだ。

 だから彼は思い出さなかった。

 正直な体の反応さえも無意識のうちに否定し、それがゆえに混乱を極めていた。

 彼が今冷静になって、この時の自分を振り返ってみれば、己の呆けっぷりに苦笑せざるおえなかっただろう。長嘆息をこぼしたところでなんら不思議はない。

 彼にとってそれは例えば、眼鏡をかけながら、その所在を必死に探しているボケ老人の愚鈍さと同一のものだったから。端から見れば間抜け以外の何物でもないのだ。

 だが、あの時、ユリウスは己の固すぎる自戒の心ゆえに、決して〝かけっぱなしの眼鏡〟の存在に、気付くことはできなかった。否、気付いてしまうことを危惧してさえいたのだ。

 だから、万が一他人にそれを指摘されたところで、彼は頑強にそれを否定しただろう。

 己で己にかけたその呪縛が強すぎて、決して彼がそう認識することを許さなかったからだ。

 大きすぎる激情と、それゆえの反動、そして彼の自戒の強さと、一国を背負う国王としての義務と責任と矜持(きょうじ)、国と民を思う心、妻と娘に対する愛情、それらが複雑に絡み合い、その呪縛をさらに強固なものへとしていた。

 〝民のために〟

 そう決意して選んだ道だった。

 国の外へと向かう激情(おもい)は、国内を治めようとしている国王には、邪魔なのものでしかなかったのだ。

 だが、それでも無意識に心は遥か彼方の山へ飛んでいた。

 妻がまだ生きていた頃は……。

「……きっとステラが生きていたら君に会いたいと思っただろうな」

「……奥方様ですか?」

「三年前に病で()った。……ダフネラの香りを嗅ぐたびに、彼女のことを思い出す」

「……」

「私は女性を幸せにできない男かもしれないな」

 サントはその横顔をじっと見つめた。

「……あの方は、幸せでしたよ」

 ひどく、無機的な声だった。

 ユリウスは驚いて伏せていた顔を上げる。

「貴方のことを語る、サラハ様の声はとても幸せそうだった。あの方は貴方への想いで生きていたのと同じです。……貴方が自分を責めることなど何一つない。お亡くなりになった奥方様もそんなことを言われてしまえば悲しまれるのではないですか?」

「……そうだろうか」

 彼には珍しい、自嘲の表情がその顔に浮かんでいた。

「王女様を見れば分かります」

「リリアを?」

「とても美しい方だ。……貴方方ご家族がどのような時間を共有してきたかが、一目で分かる」

 サントの言う〝美しい〟は、リリアの外見について言ったものではないのだろう。

 ユリウスの唇は自然にほころんだ。

「…ありがとう」

「礼を言われるようなことは何一つ言っていません」

 堅い表情と堅い声で言われたそのセリフに、ユリウスは苦笑する。

 だが、だからこそ、言われた言葉はその場凌ぎの慰めなどではなく、きっと真意なのだろうと思えた。

「君は不思議な人だな」

「……」

「最初は誰もが黒衣のその装束姿を不審に思っていたのに、いつの間にかこの城の人気者だ」

「……そんなつもりは」

「君にとっては不本意かもしれないが」

 サントは軽く、視線を下げた。

「……ご迷惑をおかけしてしまっているのではありませんか」

「何がだ?」

「重臣の方々がそこまで私の存在を楽観視しているとは思えませんが」

「危惧するほどでもない。それに、引き止めたのは私だ」

「……私は長居しすぎたと思っています」

 ユリウスは微笑みながらも、息を吐き出す。

「そろそろ、そう言う頃じゃないかと思っていた」

「……」

「長い間引き止めておけないだろうことは、分かっていたよ」

 無言で己を見つめ返してくるその目に、ユリウスは微笑を返す。

 そして、深呼吸をすると、意を決したように口を開いた。

「実は、お願いしたいことがあるんだが……」

 サントはその後に続く言葉に軽く目を見開いた。






 マダリア王国、スクワード領。

 旧サンクドリアを含むこの領地は国土の南方を占め、南の楽園と称されている。

 花の栽培が盛んで、中小規模の集約農業のもとでの酪農・花卉(かき)園芸が、この領の主産業だった。武闘大会の時期になれば、王都の市日には毎年この領から色とりどりの花とともに、その球根、種や苗が出荷されている。

 スクワードが楽園と称されるのは、ひとえに、一年を通して鮮やかな花の色を絶やさず、一面、色の海となる見事な花畑を多数有しているからに他ならない。特に、五色に色付けられたラーレの花畑は圧巻だった。

 そして、その領城の周りも例に漏れず花の海が広がっていた。

「ルスカ様、今年も舞踏会の時期になりましたわね」

「ああ、先週招待状が届いたよ」

 初老の侍女の呼びかけに、スクワード領領主、ルスカ=アーベルは朗らかに笑って返した。

「今年こそ、いいお嬢様を見つけてきて下さいましね。いつまで一人身でいらっしゃるつもりか、大奥様も心配していらっしゃいますわ」

「またその話かい? 君達女性はどうしてそういう話になると、まるで水を得た魚のように生き生きしはじめるのかな」

「せめて、魚ではなくて花にたとえて欲しいわね、ルスカ。私はまだ枯れたつもりはないのだけど」

「お母様!」

 ルスカは、自分の部屋に突然現れた母の姿に素直に驚いた。

 その様子に、まるで少女のようにクスクスと笑いながら、一人の貴婦人が部屋の中へ入ってくる。両手には白い花が抱えられていた。

「まったく、いつまでたっても結婚しない息子を持つ母親の気持ちにもなって欲しいものだわ。私だっていつまでも生きていられるわけじゃないのだから。初恋を(しの)ぶのもいいけれど、そろそろ貴方のお嫁さんを本気で探してもいいのではないの。私だって孫の顔は見たいのよ」

「……分かってます、お母様。そんなに僕をからかわないで下さい」

 困惑顔の息子に笑って、母は手に持っていた花を花瓶に生け始める。

「いけません、大奥様。そういうことは私どもに言ってもらわないと。大奥様の手を(わずら)わせるわけにはまいりません」

 侍女は慌てて代わろうとしたが、

「いいの、私にやらせて頂戴。この花は特別だから」

「その花は……」

「招待状と一緒に届いたのよ。貴方の部屋に飾るのがいいと思って」

「……」

 ルスカは甘い芳香を放つその白い花を見つめた。香りとともによみがえる面影がある。

「王妃様を思い出すでしょう? 貴方の初恋の相手ね」

「お、お母様!!」

 母の言葉に息子は顔を真っ赤にして慌てた。

「何を急におっしゃるんですか!」

「まぁ、そんなに慌てることはないでしょう。国王陛下もそれが分かっているから毎年このように送ってきてくださるのよ。純白のダフネラは花の里といわれる我が領においても希少ですからね」

 楽しそうな母親の後姿に、息子は気が気ではない。

「……そんな、初恋だなんて、何年前の話だと思っているんです」

「そうね、貴方の遅い初恋は十七の時だから、十八年前かしら」

「……」

 ルスカは顔を赤らめたまま、沈黙した。

 昔はこんな(ひと)ではなかったのに…。(おんな)(やもめ)に花が咲くとは、いみじくも真実であるらしい。

「初恋が人妻、しかも仕えるべき主の奥方様なんて、難儀な恋だったわね」

 誰かこの人を止めてくれてと思ったが、側にいた侍女は苦笑するだけで、助けてくれる気はないようだ。

 さもありなん。母のこれは、一向に結婚しようとしない息子に対する一種のあてつけだった。

「……それでは僕が陛下に横恋慕していたみたいじゃないですか。僕のはただの憧れみたいなものだったんですから」

「見ているだけの恋かしら。でも、ルスカ、見ているだけじゃ女性の心は手に入らないのよ」

 ルスカは母のその視線を受け止めると、深刻な表情で黙りこくってから、低い声で言った。

「……ですが、僕は無理矢理奪おうとする男にもなりたくはありません」

 珍しい息子の強い目と言葉に、母は息を呑み込む。

「……それは、お父様のことをおっしゃっているのかしら」

「……」

 硬い表情で沈黙した息子に、母は息をついた。

「……そうね、あの人は決して誇れる父親ではなかったわね」

「いい夫でもなかったでしょう」

「……昔の話だわ」

「ですが、サムドロスにとっては昔の話ではありません」

 ビクリと母の肩が震えた。

「あの子の話はやめて」

「お母様……」

「ルスカ、貴方が男女の関係に臆病になるのが私達のせいなら謝るわ」

 それだけ言うと、母は息子の前を通り過ぎた。

「お母様!」

 扉の前で止まると、母は振り返る。そして、強く笑った。

「舞踏会、楽しんでいらっしゃい」

「……」

 バタンと音を立てて、扉は閉まった。

「ルスカ様……」

「ああ、すまない。……なんだい?」

 ルスカは努めて笑顔を見せる。

 気まずい空気の中、それに控えめに笑い返しながら、侍女はポケットに手を忍ばせた。

「あの、実は、お手紙が……」

「手紙?」

 だが、その手紙を受け取ると、彼の笑顔はたちまちの内に曇った。


「サムドロス、いるかな?」

 コンコンとドアをノックしても返事はなかったので、ルスカはドアの隙間から顔を覗かせた。

 暗い室内にドアの隙間から明かりが漏れたが、それでも部屋の主を見つけられず、彼は目を凝らす。カーテンは締め切られ、明かりはどこにも無い。

「なんの用」

 ようやく暗闇に目が慣れてきた時、ルスカは締め切られた窓際に佇む人影を見つけた。影は光源を振り返ることなく言った。

「……何をしているんだい?」

「用件を言え。それとも僕とおしゃべりをしに来たのか? 物好きだな」

 くつくつと(わら)う声が聞こえた。

「……立っていて大丈夫なのか」

「人の話を聞いてるのか?」

 侮蔑の表情を隠すことなく、サムドロスは振り返った。そして、思いかけず、すぐ後ろに兄の顔を見つけて驚いて身を引く。

「気安く近づくな」

「人と話をするときは目と目を合わせてするものだよ」

 サムドロスの顔が一瞬で怒りに歪んだ。

「出て行けっ! お前と話すことなんて何もないっ!!」

「サムドロス、落ち着いてくれ。興奮するのは体によくない」

「うるさいっ! 僕の前で兄貴面するなっ!!」

 その激しい剣幕に、これ以上刺激してはいけないと(さと)ったルスカは、諦めたように一歩下がって手を伸ばした。

「……君(あて)だ」

「……手紙?」

 兄の手から自分宛だというその手紙をひったくると、灯りをつけ、びりびりと破いて中身を取り出し読み始める。

 ルスカは灯りの中に浮かび上がった血色の悪いその横顔をじっと見つめた。

 口の端からチロリと舌が覗き、乾いてかさかさの唇を舐めた。目元の隈はひどく、その中で目だけがギラギラと光り、何一つ見逃さないというように紙の上の文字を追っている。

 その弟の表情を兄はじっと見守った。

 読み終わったのを見計らってルスカは口を開く。

「……君はいったい何を考えているんだ?」

「なんだ、まだいたのか。早く出て行ってよ」

「サムドロス、最近の君はおかしいよ」

「おかしいだって? はん、僕がおかしいのは昔からだろう。城の奴らがなんて言ってるか僕が知らないとでも? お優しい領主様に養われている、狂った弟君だよ。夜な夜なベッドの中で金切り声を上げて何か訳の分からないことを(わめ)いている、囚われの狂人さ。病弱な弟の面倒までみなくてはいけない、優しいお兄様が哀れで仕方ないってさ」

「……そんな風に言うのはよくない」

「事実だろ」

 サムドロスはそう言って兄の前を通り過ぎようとした。

 ルスカは苦虫を噛み潰したような顔になる。

「……少し前から届いている差出人不明のその手紙。いったい誰から? あの男が現れてからの君は変だよ。何かにとり憑かれているようだ。以前は刃物を振り回すようなことだってなかったのに……」

「その刃物とやらは全部アンタに没収されたからもうないだろ」

「……サムドロス、僕にも話してくれ、お願いだ。僕には君の気持ちが見えない。このまま君を放って置いちゃいけない気がするんだ」

「……おめでたい奴だな。アンタなんかに僕の気持ちが分かるわけがない」

 ひどく荒んだ瞳が兄を(とら)えた。その中に深い憎しみの色を見つけ、ルスカは言葉を失った。

「僕がアンタみたいに健康体だったなら、こんな所にいなかっただろうね」

「……サムドロス、僕達は分かり合えないのか」

 兄の眉間には苦しげな深いしわが刻まれ、弟はそれをやけに冷えた目で睥睨(へいげい)する。

「奇麗事だな。アンタの母親は僕のことを嫌ってるだろ」

「そんなことはっ……」

「僕を見るだけで、その顔を醜く引き()らせるのに?」

「……」

 絶句した兄に弟は嗤笑(ししょう)を返した。

「まぁ、大抵の人間は僕を見るとあの女と同じ態度をとるけどね」

「サムドロス……」

 狼狽した兄に気をよくしたのか、弟は続ける。

「そうだ。今年は僕も舞踏会に出るよ」

「え……」

「何か問題ある?」

「どうしてだ、急に。君は部屋の外に出るのでさえ嫌がるのに。今までだって一度も出たいと言わなかっただろう」

「今年は特別だよ。王都で御前試合が行われたらしいじゃないか。何か面白いことが起こる気がするんだよね」

 そう言いながら、サムドロスは引き付けを起こしたように笑った。思わず耳を覆いたくなるような嗤い声だ。

「……体の調子は、いいのかい? 遠出は君の身体にも負担がかかるよ」

「平気さ。僕には薬がある」

「薬?」

「魔法の薬さ」

 高慢な顔つきで、サムドロスは言った。

 ルスカは怪訝そうな顔をする。

「……サムドロス、君が何を考えているのかが僕には分からないけど、僕は君が心配なんだ」

「はっ、僕が心配? 笑わせないでくれ。アンタはただの偽善者だ。自分が誰かを傷つけることに()えられない、臆病者だ。人を傷つけることで、自分が傷つけられることを恐れているのさ。だから、〝優しい領主様〟という周囲から貼られたレッテルを後生大事に守っている。他人(ひと)に優しくすることで、他人(ひと)に優しくされる自分を守ってるんだよ。臆病な自己防衛、それがアンタの優しさとやらの正体さ。結局は自分のためだ。病弱な弟を気遣うのも〝優しい兄〟の顔を崩したくないだけだろう。さぞかし気持ちがいいだろうな、高みから自分の弟を見下ろして、優しい兄の振りをするのは」

 毒を含んだ痛烈な言葉の針にルスカは息を止める。

 青ざめた兄の顔に、弟は溜飲(りゅういん)が下がったかのように、鼻で笑った。

「分かったら、これ以上僕に干渉しないでくれ」

 そう言って、サムドロスはルスカを残して一人寝室のドアの中へと姿を消した。


「バカな男だ。あんな男に国が治められるわけがない」

 自分宛に送られてきた差出人不明の手紙を見やる。

「く、はっ、あははははははははっ」

 楽しくて楽しくて仕方がなかった。

 こんなに気分がいいのはいつ以来だろう。

 心臓から全身へと滞りなく血液が送り出されるのを感じる。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 どす黒く毒々しいほどに紅い血が、熱く滾っている。

 この血が唯一、己の存在証明だ。

 誰よりも高貴で、誰よりも崇高な……。

「幕は上がった。どんな顔を見せてくれるのか見物だな」

 熱に浮かされたような、男の独り言は暗闇の中で絶えることがなかった。

馥郁【ふくいく】…よい香りの漂うさま。

逓次【ていじ】…次第に順を追うこと。順次。

馨香【けいこう/けいきょう】…よい香り。

徳風【とくふう】…得が人を感化するさまを草が風になびき伏すさまにたとえていう語。道徳の教化。仁徳の感化。

花卉園芸【かきえんげい】…観賞用の草本または木本植物を栽培すること。

女寡に花が咲く【おんなやもめにはながさく】…夫に先立たれた女はかえって身ぎれいになり、男にもてはやされる機会も多くなり、華やかになる。

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