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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
43/87

21 思わぬ敵

「すまんね。来客中とのことだったが…、やはり君達だったか」

 フィオスはその言葉に思いっきり顔をしかめ、誰より先に憤然とソファーから立ち上がった。

 噛み付きそうな勢いの彼をとっさに手で制して、キーンもまた立ち上がると敬礼した。

「シナモン少将にどういったご用件でしょう、大佐」

 礼儀は正しかったが、その目は鋭い光を放っている。

「いや、アレほど首を突っ込まれたのだから報告するのが筋かと思いましてね、サンバリアン様。どうやら既に彼らから仔細は聞き及んでいるようだが」

 その口調には、彼の後ろに控えていた事情を知らないダンカンでさえも眉をひそめた。どう贔屓(ひいき)目に見ても、慇懃(いんぎん)無礼(ぶれい)な声音だ。

 ジュリアもすっくと立ち上がった。

 横目に視線を寄こして何か言いたそうにしているフィオスをやはり目線で(とど)める。

「わざわざのご足労、痛み入ります。そんなところではなんでしょう。今、何かお飲み物をだしますので……」

 だが、努めて穏やかに続けようとするジュリアの言は、大佐によって途中で切り捨てられる。

「結構。このような所に長居するつもりはありません。そうそう、本当は君達にこれを告げに来たんだった。まだサンバリアン様も聞いてないと思いますよ」

 わざとらしく言った彼に、キーンとフィオスは眉をひそめる。

 そんな二人の顔を見て、大佐は唇を歪めて笑った。

「犯人が自供した」

「なっ!!」

「何だって!?」

「事件は無事解決したんだからこれ以上君達に引っ掻き回されては困る。貴方(あなた)からもこの二人に言ってやってくれませんか、サンバリアン様。念を押しておかなくては不安でね、忠告に来たんです。貴方も、下らない推理ごっこは何の役にも立たないからやめたほうがいい」

「……罪を、認めたと……?」

 ジュリアのその問いかけに、カッター大佐は勝ち誇った顔を隠すことなく告げた。

「ええ、自分がやったのだと。面白半分でやったと供述しましたよ。泣いて許してくれとね……」

「あんたがそう仕向けたんだろうがっ!!」

 ついに堪忍袋の緒が切れたフィオスは彼に向かって怒鳴り声を上げた。

 キーンも最早同僚を(いさ)める余裕はないようだ。尊大な態度を隠そうともしない男を、歯を食い縛りながら無言で見据えている。

 カッターは気分を害されたという顔で、フィオスを見た。

「人聞きの悪いことは言わないでもらおうか。犯人が自分の口で言ったことだ。少々問い方が乱暴になってしまうのは職務の性質上仕方がないことだろう。世の中には狡獪(こうかつ)な犯罪者がごまんといるのだ。我々は騙されることなくその嘘を見抜かなくてはならない。だが本当に無実だというのなら、(かたくな)に否定するはずだろう。『お前がやったのか』と訊かれて頷く道理がない。自分の信念を曲げなければいいだけの話なのだから」

 まるで責問に屈して嘘の供述をする人間こそが悪いとでも言いたげな口ぶりだった。

 平然として抜け抜けと言われたその言葉に、フィオスはカッとなった。汚いやり口で脅したに決まっているのだ。

 ジュリアはとっさに、彼が大佐の胸倉をつかんでしまう前に、素早くその前へと立ち塞がった。

 キーンは己を押さえることに必死で、フィオスにまで気が回らなそうだ。彼が止めようとしない今、ジュリアがその役をやるしかない。

「フィオスさん、落ち着いて…」

 背中越しに右手を(かざ)して、背後のフィオスに言った。

「ジュリア、おまえっ!」

「あなたの立場が悪くなるだけだ」

「……っ!」

 淡々と言われたそれに、フィオスはぐっと拳を握りこむと、バッと背を向けた。

「……大佐、目撃者の証言はどうなったのですか。聞いた話では、確言することができていなかったようなのですが」

 その質問に、男は鼻で笑って返す。

「あんなものは(はな)から当てになりませんよ。聞いてみれば随分あやふやな目撃証言だ。〝気がする〟なんて発言じゃ、確たる証拠にはなり得ない。本人が自供したんだからそれで十分でしょう」

「ですが、だからと言って無視してしまうのはいかがなものでしょう。時にはその中に重要な事実が隠されている場合もある。不確かだからと言って切り捨ててしまわれるのは賛成しかねます。どんな些細なことでも徹底的に調べ通してみせるのが、貴方方の仕事ではないのですか? 少しでも不審なところがあるのなら、それを見逃してしまうべきではありません」

 カッターの顔は分かりやすく、不快の色を示した。

「……どうやら、貴方は難癖(なんくせ)を付けずにはいられないようだ。感心しませんね。直したほうが宜しいでしょう。あえて事を大きくさせて、事件を混乱させることがそんなに楽しいのですか」

 ジュリアの瞳に強い色が宿った。

「では、お尋ねしましょう。貴方は先程被疑者が自供したとおしゃられましたが、毒物の入手方法は分かったのですか?」

 フィオスとキーンはハッとした。

 真摯(しんし)な瞳で真っ直ぐに尋ねられ、カッターは鼻白む。

「……それは、これからだ……」

「監察医の検案書にはその毒性も明らかにされていなかった。極めて入手困難なものでしょう。その毒物の詳細について、彼は何か語りましたか? それに、面白半分で犯行に及んだと言っていましたが、もう一人、刺殺された宝石商の男の件についてはどう説明なさるのでしょう」

「……そんなもの、よく分からずにどこからか盗んだかなにかしたんだろう。奴は窃盗の常習だ。宝石商の男は顔が見られたかなんかして、自分にとって不利な人間になったから殺したとも考えられる」

「大佐、貴方のそれは推理でさえない。希望的観測です。犯人と決め付けるのは確実な証拠を()ってしてください。……罪のない若者が逮捕されるような事態は避けねばなりません」

 顔を赤くして、男はジュリアを睨み付けた。

「それは何かね、私の捜査に不信があると言いたいのかね」

 既にジュリアに対する敬語は剥ぎ取られている。

 ジュリアは下手に刺激しないよう、憂え顔でカッターの真情に訴えるように言った。

「……穴が多すぎるのです、大佐。貴方のしている穴埋め作業も牽強(けんきょう)付会(ふかい)と言わざるを得ない。貴方が今しなくてはならないことは穴を埋めることではない。己で事件の穴を探すことではありませんか」

 フィオスとキーンは見事な論破に密かに快哉(かいさい)の声を上げたが、

「私には貴方がわざと穴をこじ開けようとしているようにしか思えませんな、サンバリアン殿。私をその穴の中に落とし入れようとしていらっしゃるようだ」

 だんだん口八丁の様相を(てい)してきた二人の舌戦に、固唾(かたず)を呑む。

「……大佐、私は貴方が冷静な判断を下せているとは思えません。今の貴方はとても公正な目を持っているとは思えない。王都警備隊の名誉を一刻も早く挽回したいという(はや)る気持ちも分かります。ですが、それにばかり(とら)われると、見えなくなるものも出てくる。名利(めいり)的な虚栄心はどうか捨ててください。若輩者の私がでしゃばったのが気に(さわ)ったのならば、いくらでも頭を下げましょう。ですから、どうかもう一度事件を検討してみてください。……お願いします」

 ジュリアはそう言って深く頭を下げた。

 だが、その折り目正しく下げられた後頭部を見て、カッターはあろうことか嗤笑(ししょう)を返した。

「貴方こそ、そう容易(たやす)く頭を下げることは控えたほうがよろしいでしょう。随分安い誇りをお持ちのようだ。聖騎士ともあろう方が……。これ以上侮られるようなことになっては目も当てられませんよ」

 その言葉に絶句して誰より憤ったのは、キーンでもフィオスでも、ジュリアでもなく、彼の部下のダンカンだった。

「……お言葉が過ぎましょう、カッター大佐殿」

 位階は上だが年少者である上司が、誠意を見せて下げた頭の上から言われたその嘲弄(ちょうろう)に彼は不快感を禁じえなかった。

 その誠実さこそが、ジュリアの美点でもあるのだ。部下に対しても決して(おご)ったりはしない。その地位と容貌から羨望の的になりがちな彼が、多く妬まれない理由はそこにあった。

 ジュリアより年嵩(としかさ)のダンカンでさえ、彼に命令されることは苦ではない。恐ろしいところも確かにあるが、部下の気持ちを理解してくれる得がたい上司だった。

 一触即発の空気が流れた。

「――ダンカン、よせ……」

 頭を下げたままジュリアは言った。

「隊長……」

 決して上げられないその頭を見て、ダンカンは息を呑む。

「……大佐、私には個人の誇りなど必要ない。主を守るためならば、いくらでもそんなものは側溝(そっこう)にでも捨てましょう。貴方が判断を誤れば、陛下に危険が及ぶ可能性があるのです。どうか、ご英断を…。都内の警戒を解かないで頂きたい。もう一度、捜査方針を見直してください」

「……まだ、そんなことを言っているのか。貴方は不要に陛下を脅かしているだけではないか?」

「……」

 身じろぎしない頭を見て、わざとらしくカッターは憫笑(びんしょう)した。

「でも、まぁ、そこまで言うのなら考えてみないこともない。路地裏惨殺殺人の犯人はいまだ捕まっていませんし……」

 上げられない頭を見て彼は言う。

「それにしても、貴方がそのように庇い立てることもないでしょう。どうせ、生きている価値もないようなクズですよ」

 初めてピクリと、鬱金(うこん)色の頭頂部が揺れた。

「…生きている、価値もない……?」

「そうでしょう。人の不幸を見て楽しむような(やから)だ。ろくに働こうともせず、父母の恩に報いることなく己の好き勝手に生きている。人としての尊厳などひとかけらも宿していない。むしろ、この世から消えてしまった方が世のためだ」

 それはつまり、たとえ冤罪(えんざい)だったとしても、大して気にならないということか。

 罪を捏造しているのはどっちだと、キーンとフィオスは歯噛みした。

 ジュリアはぎゅっと、拳を握った。

「……貴方は、殺された被疑者達のことも同様に思っていらっしゃいますか……?」

「当然だ」

 カッターはそれが模範解答であるというように即答を返した。

「みすみす我らの領域で起こった事件だ。王都警備隊の誇りと名誉にかけて、犯人を許すことはできない。だが、そうでなければ、あのような人間の最下層にいるような者達の殺し合いにここまで私が出っ張るわけがない。悪は等しく打ち砕かれなければならないのだから。卑劣な犯罪者に正義の鉄槌を下すのが我らの仕事だ」

 胸を張り誇らしげに彼は言った。

「……そう、ですか」

 ジュリアは頭を上げた。

 目の前の男は見ず、その背後にいたダンカンを見た。

「――ダンカン、大佐はお帰りのようだ。下まで案内してやってくれ」

 急にそう言った言葉の真意は、ようするに、「さっさと帰れ」と暗にカッターに退出を(うなが)したものだ。

 豹変したその態度に、彼は鼻筋にしわを寄せて無理矢理笑顔を作ったが、その引き()った笑顔は見ていてとても楽しいものではなかった。

「……フン、最初からそうのように高慢な態度をとっておけばいいものを。口では殊勝(しゅしょう)なことを言いながら、心の中では我らを馬鹿にしているのだろうが。年長者に対する礼儀も知らぬ青二才が。恥を知れ」

 最早嘲りを隠そうともしない声を張り上げて言われたその言葉に今度こそ周囲は殺気立った。

 自分の背後からも敏感にそれを感じたジュリアは右手を挙げることでそれを封じる。

 ジュリアの意思を尊重して、キーンがフィオスの腕をつかんだ。

「……残念です、大佐。今の貴方は己を見失っている。これ以上我々が話しても実りのある会話はできぬでしょう。お帰りすることをお勧めします」

 ジュリアは目を伏せて、男を視界に入れずにそう言った。

「私が己を見失っているだと……?」

 ギロリとした目がジュリアの視線を合わそうとしない顔を睨んだ。

「自身を(かえり)みられたほうがよろしいでしょう。……あなたは騎士としての本分をお忘れにっているようだ」

「何を言うっ! 私が何年、正騎士として務めてきたと思っている! 街の治安を守って犯罪者を罰してきた実績は、貴様の比ではないわっ!」

 激昂(げっこう)した男に、ジュリアは視線を逸らしたまま淡々と告げた。

「……我ら騎士は、大地の守護者アストラリアの後継です。人を罰するためにいるのではない。人を守るためにいる。己の力を誇示するようになっては、騎士としては終わりだ。アストラハンの地を何百年何千年と守ってきた我らの始祖達は、それを自らに禁じてきた。だから、今も我らサンカレラはこうしてこの国を(いただ)くことができている。私たち騎士はただ、尽くすためだけに存在している。それ以上を求めることはしてはいけない。そのアストラリアとしての理念を忘れた者に、正義を語る資格があるとは思えない。――どうか、功名(こうみょう)心にばかり囚われて騎士としての誇りをどこかに落としてしまわれぬよう……」

 一度も目線を合わせることなく、ジュリアは(うやうや)しく頭を下げたが、最後の一言、それは痛烈な皮肉だった。

 そして、それは男の矜持(きょうじ)(いちじる)しく傷つけた。

「このっ!!!」

 怒り心頭に発した男は、とっさに腰元の剣に手をやった。

 柄をつかみ、勢いよく刀身を引き抜こうとする。

 だがその時、ガクンと正体不明の付加が自分の腕にかかった。

 訝しく思い、視線を下げれば、柄をつかんだ自分の腕を何者かの手が押し止めている。

 一連のその動きを瞬時に察知したダンカンが、背後から素早く片手で押さえ込んだのだ。

「やめておいた方がいい。貴方ではあの人には勝てません」

「なにをっ!?」

 カッターはたとえ盛りの過ぎた年であろうが、目の前の虫も殺さぬような青年に負ける気はない。

 彼は、ジュリアの騎士としての実力を全面的に認めていなかった。正騎士になれたのは、なんらかの不正があったに違いないと確信している。

 親切な忠告だったのに、蒙昧(もうまい)な男は止まらないと(さと)ったダンカンは、アプローチの仕方を変えた。

「こんなところで抜く気ですか? このような醜聞、貴方の経歴に傷が付くだけだと思いますが……」

 この手の男には、この言葉で一発だ。

「くっ…!」

 そして案の定、その言葉に男は柄を握る力を抜いた。

 頭を下げているジュリアを傲然と見下ろすと、くるりと背を向ける。

「……失礼する」

 言葉少なにそう告げてようやく帰るのかと思われた時、だが、彼は最後にこう言い捨てることを忘れなかった。

「……全く貴方の部下はよくしつけられている。忠犬ニコルのようだ。うらやましいことですなぁ、サンバリアン殿。容姿がいいだけでちやほやされて、さぞかし気分がよろいしいでしょう。それだけの芳顔(ほうがん)だ。男だとて(たぶら)かされてしまうのでしょうな。いっそ、女として生きたほうがよろしかったのではないですか。――男だとてほっておきますまいよ」

「!!!?」

 三人の男はこの発言にそれまでの憤りも忘れて一様に顔を青ざめさせた。

(このっ、糞莫迦親父っ……!!!!)

 フィオス、キーン、ダンカンの三人は、見事に心の声を一致させた。

 実際に声を出していたなら、会心のハーモニーとなっていただろう。それはもう一分の狂いもなく。

 ジュリアの前で、その容貌についての揶揄や嘲弄、男同士の同性愛を(うなが)すような発言は、絶対的な禁句だった。――実際彼は男に交際を申し込まれることが、実は多かった。まだ少年の時分にはよく女に間違われたこともあり、女だと思って寄ってくる者もいたが、男だと分かって寄ってくる者も少なからずいた。性別を間違われることはジュリアとしても甚だしく気分を害されることではあったが、彼は特に後者の存在には我慢ならなかった。男同士の恋愛など、彼には理解できない。結果、哀れな懸想者(けそうしゃ)はジュリアの容赦ない拒絶によって心身ともども再起不能になるまでぼろ雑巾のごとくずたずたのぼこぼこにされることになっていた。

 その話題はまさに龍にとっての逆鱗(げきりん)だ。あえてそれに触れることができるのは、彼の主か、幼少以来の親友ぐらいなものである。

 カッターが背中を向けていたのは幸いだろう。

 ダンカンは部屋のドアを開けると、少々乱暴に彼を執務室から追い出した。

 悪態をつく彼を無視して、フィオスとキーンを見ると、ご臨終と言うように合掌し、後は頼みましたとばかりに頭を下げた。

 そして、勢いよく扉は閉ざされた。

 バン!

 大きな音を立ててその扉が閉まると、後には恐ろしいほどの沈黙がおりる。

 ジュリアは未だ頭を下げたまま固まっていた。

 見事なほどきれいに時間が静止していた。

 フィオスとキーンは、いつ襲い来るか分からない雪崩(なだれ)の前の、一時の静寂を有した雪原のど真ん中にいる気分になった。

 心が寒い。

 そして恐ろしく怖い。

 極限の緊張を強いられ、二人は雪山で互いの体を温め合うかのような心境で救いを求めるように、顔を見合わせる。

〈……あいつ、一人で逃げやがった〉

〈……血を見ずに済んだだけマシだろう〉

 そんな二人の戦々恐々の体に気付くはずもなく、ジュリアはゆっくりと下げていた頭を上げた。

 だが、背後の二人を振り返らない。

「……」

「……」

「……」

 かつてこれほどまでに恐ろしい沈黙があっただろうか。

 いつ来るとも分からない雪崩の前に、何も為すことができないちっぽけな人間になった気分だ。

 そして自然の偉大さを二人は知った。ジュリアの怨怒(えんど)はまさしく、不可抗力の天災だった。

(ああ、母なる大地よ、どうか哀れな二匹の子羊をお助けください)

 そんな、滑稽な祈りまでが二人の頭の中に浮かんだ時だ。


「――二人とも……」


 静かに零れ落ちた声は、静か過ぎて冷たかった。

「はっ、ハイッ!!」

 二人の声は情けないほどに上擦っている。

「……来てくれ」

「……」

 一度も振り返られることのないままその部屋を後にしたジュリアに声をかける勇気などあるわけもなく、ただ黙って従う以外の選択肢を彼らは持ち合わせていなかった。


†††


 王の執務室の扉がノックされた時、ドリスは主に促されてそれを開けた。

「ジュリア……?」

 そこに相棒の顔を見つけたドリスはそう声を上げた。

 ジュリアはちらりと彼を見ただけで「失礼します」と部屋の中へと足を進めると、執務机に座っている主に対して膝を着く。

「陛下、しばらくドリスをお借りしてもよろしいでしょうか」

「……何があったと訊いてもいいか?」

 入ってくるなり何の前置きもなくいきなりそう切り出したジュリアに、王は何事かを感じたらしかったが、別段戸惑うことなく冷静に問い返した。

 ここにきてドリスも、ジュリアの様子がいつもと違うことに気がつく。

 そして「副隊長……」と己を呼ぶサジャンの姿を扉口に認め、そこから少し離れた廊下に懐かしい二人組みを見つけると、軽く目を見開いてから、そっと溜息を落とした。

 三人とも、若干顔色が悪い。

 何があったかは知らないが、彼らが一様に顔を青ざめさせているのは、自分の相棒のせいなのだろう。

〈何があった? お前、今日非番だったろう〉

 とりあえず自分の部下に尋ねてみると、サジャンは首を振った。

〈分かりません。いきなりここに連れてこられて……。ドリスさんが何かしたんじゃないんですか?〉

〈バカ言え。俺は真面目に陛下に張り付いてるだろうが〉

 だが、サジャンは疑わしげな視線を解かなかった。心当たりなら腐るほどあるでしょうという視線だ。

 それを受けたドリスも、否定できないだけに顔を引き攣らせて空笑いした。

 いったいどれがジュリアの逆鱗に触れたのかと、念のために脳内の記憶装置をフル回転で稼動させる。

 脳内情報処理システムが弾き出したのはやはり、〝トイレ掃除勤労感謝週間〟と銘打って暴利的な資金カンパを強要した一件だった。

(アレがばれたら、今度こそ殺されるかもな……)

 実はトイレ掃除の処罰に関してはなんだかんだで、うやむやになったままだ。(ふところ)は結構、温まったのだが……。

 だが、そうすると、旧友の姿がここにあるのは()せない。

 沈黙したままの二人をドリスが見ると、二人は初めて彼に気がついたようだった。

(うっ……)

 ドリスはとっさに一歩後退(じさ)った。

 ウルウルした小動物のような円らな二対の瞳だった。

(おいおい勘弁してくれ……)

 男の濡れた瞳など気色悪い以外の何物でもない。

 まるで地獄で仏を見つけたと言わんばかりの熱視線に、ドリスは今すぐ背を向けて逃げ出したくなった。

「お前ら頼むからそんな目で俺を見るな」、顔を引き攣らせてそう言ったドリスだったが――

「ドリスッ!!」

 フィオスは感極まったというように、数メートルの距離を猪突猛進(ちょとつもうしん)、がばりとドリスに抱きついた。

「げえっ!!」

「俺は今お前に会えて猛烈に嬉しい!」

「分かった、分かったから離せ、フィオス!」

 本気で嫌がるドリスの肩にぽんと置かれる手があった。

「?」

 後ろを振り返ればキーンがドリスの肩に手を置いたまま、微笑んでいる。

 だがその微笑はあまりに不自然だった。

 はりつけられたかのような生温(なまぬる)いアルカイックスマイルが口の端で固まっている。

 笑えていない瞳が痛々しいほど必死で怖い。

 その上、その握力は必要以上に強く、磐石(ばんじゃく)の重みを持って、肩の上からはがれる気配がなかった。

「……」

 『道連れ確保』――、聞こえるはずのないキーンの声がドリスの脳裏を掠めた。

(ジュリア、お前いったい何したんだ……)

 何も説明されないまま国王の執務室の前まで連れてこられたのだ。

 ジュリアやドリスら親衛隊員と違い、一介の都警隊員が王の謦咳(けいがい)に接する機会などないに等しい。

 心細くて仕方なかったのだろう、極度のプレッシャーで雪崩の前に軽い人格崩壊を起こした二人だった。

 フィオスにしがみつかれ、膠着(こうちゃく)状態に陥ったキーンの掌と己の肩に辟易しながら、ドリスは部屋の中のジュリアを振り返る。

 ジュリアは王に言った。

「……陛下の耳を汚すほどのものではありません。少し御身(おんみ)の身辺警固について改めたい点ができましたので、配置換えをしたいのですがよろしいでしょうか?」

 ユリウスは苦笑した。

「分かった。任せよう」

「御意に…。私がいない間はドリスの代わりにサジャンがその任を務めます。――サジャン」

 何の説明もないままここに連れて来られたサジャンはいきなりの指名に慌てて「ハッ」と指先を眉尻にくっつけて返事を返した。

「聞いたとおりだ。後はお前に任せる。くれぐれも落ち度のないように励め」

 眼光一閃、サジャンの心臓を冷たく凍らせ、詳しい説明もなしに主に深く一礼すると、有無を言わさずドリスとそれに付随する二名を引っ張ってジュリアは部屋を出て行った。

 後に残されたサジャンは先ほどの上司の絶対零度の視線で哀れなほど顔を引き攣らせながら、敬礼した状態で硬直していた。

 そんな彼に、心底同情するというように、王は苦笑したのだった。

責問【せきもん】…強く問いただすこと。詰問。

希望的観測【きぼうてきかんそく】…自分に都合のいいような観測。こうだったらいいなあと思う事柄・内容。

牽強付会【けんきょうふかい】…自分の都合のよいように無理に理屈をこじつけること。こじつけ。

名利【めいり/みょうり】…名誉と利益。名聞と利欲。

嗤笑【ししょう】…あざけり笑うこと。嘲笑。

嘲弄【ちょうろう】…あざけりなぶること。ばかにすること。

側溝【そっこう】…どぶ。下水などを流すみぞ。

憫笑【びんしょう】…あわれみわらうこと。

殊勝【しゅしょう】…けなげなさま。感心なこと。神妙。

功名【こうみょう】…手柄を立て、名を上げること。

蒙昧【もうまい】…知識が開けず、物事の道理にくらいこと。

芳顔【ほうがん】…美しい顔。

猪突猛進【ちょとつもうしん】…向こう見ずに猛然と突き進むこと。

アルカイックスマイル…古代の人物彫像などに見られる古風で技巧はつたないが、趣のある微笑。

謦咳に接する【けいがいにせっする】…(目上の方に)直接お目にかかる。謦咳はせきばらいのこと。

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